2019.12.15

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「イエスは誰を招くのか」

田中健三

詩編95,1-3マルコによる福音書 2,13-17

 本日の聖書箇所マルコ2,13―17はイエスが通りがかりにレビという人物を見かけ、「わたしに従いなさい」と呼びかけたという出来事と、その後レビの家で多くの徴税人や罪人も含めてイエスが食事をされ、そのことに対して「どうしてそんなことをするのか」という異議が律法学者によって唱えられる、という出来事が続きます。この二つの出来事の間にはいくらか違和感があるとされており、例えば「わたしについて来なさい」と言いながらレビの家に行っていることや、徴税人はその頭であれば裕福であることはよくあったのですが、その下っ端になると必ずしもそうではなかったようなのに、大勢の人を食事に招くことができるレビは徴税人の頭のような描写がされていないのに、裕福な印象があることなどです。この箇所は物語としての流れが潤滑ではありません。

 ルードルフ・ブルトマンはこの箇所は13−14節の召命物語に、それとは別の伝承である15節以下を繋ぎ合わせ、全くまた独立した文言である17節を最後に持って来たと分析しており(R. Bultmann, Die Geschichte der synoptischen Tradition, S. 16f)、これは今に至るまで有力な説となっています。17節の「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく、病人である」という言葉はプルータルコスその他ギリシア文学に複数の例があるとのことであり(大貫隆『マルコによる福音書』119頁参照)、その一種の格言を引用したということになり、17節全体についてもイエス自身に遡るかどうか疑問です。

 イエスに遡るかどうかは別として、この物語の後半15節から17節は、律法学者とイエスの違いがテーマであり、マルコ福音書全体においてはイエスと律法学者やファリサイ派に代表される宗教的権威との対決が徐々に緊張感を帯びていくような構成になっているその通奏低音の一つです。直前の2章1−12節で初めて律法学者がイエスに対して「神を冒瀆している」と考え、本日の箇所以降でも対立が深まっていき、3章6節になるとファリサイ派がイエスを殺す計画を立てます。

 そういうテーマの中で見ますと、17節「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」という発言の目的は律法学者批判にあり、ここで言う「正しい人」は暗に律法学者を指していると読めないこともありません。

 しかしこの17節は律法学者批判というよりは、イエス自身の使命を示すキリスト論の言葉として捉えられていき、現在に至っています。マタイ福音書自体がすでにそのような傾向を持っており、マルコ2,17と同じ言葉に、ホセア書6,6を引用したとされる「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」を付け加え(マタイ9,12−13)、旧約聖書によってイエス自身がどういう方であるかということを補強しています。つまり律法学者やファリサイ派への反論という性格よりもイエス自身がどういう方かに焦点を当てています。

 現代でもこの17節について聖書学者も、イエスに遡るかどうかはわからないが、イエスの本質をよく表しているという捉え方をすることが多いです(大貫121頁、辻学『新約聖書解釈の手引き』所収68頁など)。イエスが来たのは罪人を招くためである。イエスが誕生したのは罪人を招くためである、と。

 しかし本日は、そこに行く前に少し考えてみたいのです。

 史的イエスの活動を見ると、徴税人のような社会的罪人や、道徳的に罪人とされているような人達だけのところに行ったわけではありません。別にそのような人限定に探して歩き廻ったわけではなく、いわば全ての人に対してイエスは開かれた姿勢でした。だからいろいろなタイプの人たちと出会い、会話をし、弟子たちももちろんそのような意味での罪人ばかりではありませんでした。このおそらく徴税請負人であったと想定されるレビも、通りがかりに会って声をかけられたのです。つまりイエスにとっては、社会的な評価や、身分、その人の身体的属性などに囚われず、その人自身と出会うということが重要だったと言えます。ここでは徴税人ということがイエスにとって大事ではなく、レビという人物その人が大事だった、ということです。イエスは自然に自由にその人自身と向き合ったのでした。しかしそれが結果として、社会的評価などに左右されている人々、特にそのようなことに敏感な宗教的指導者にとっては意外なことに映りました。

 歴史的事実としてのイエスは罪人を招くために来たのではなく、どのような人とも出会おうとして来たのです。

 ですから「イエスは罪人を招くために来た」ということをあたかもイエス自身の行動そのものと理解することは一定の注意が必要だとわたしは思うのです。  それではマルコ以降マタイから始まり現代に至るまでイエスの特性として「罪人を招くために来た」ということが誤りなのか、ということになります。これは信仰告白の言葉として初めて意味を持つと思います。つまり一般的真理の言葉ではなく、自分にとってイエスはこういう方だ、という意味で成り立つ言葉です。わたしがイエスと出会った感謝を、わたしのような神から離れ、神に反抗し、人にも反抗する者のためにイエスは来て下さった、と思わざるを得ないからです。そういう意味で初めて「イエスは罪人を招くために来た」が成り立ちます。つまりこの命題は「イエスはわたしを招いてくださった」ということの言い換えです。 5

 2019年もあとわずかですが、皆様にとってこの一年はどういう一年だったでしょうか。振り返って、詩編95篇の作者と共に「喜びの叫びをあげよう」と言えますでしょうか。大きな叫びの方もあるでしょうし、小さな叫びの方もあるでしょう。なかなか喜びの叫びは挙げられないという方もいるかもしれません。  しかしわたしたちは「わたしに従いなさい」という何らかの呼びかけがあってここにいます。その呼びかけにこの一年何とか応じようともがいて参りました。ヨタヨタしながらなんとか従ってきました。そして支えられてきました。来たる一年も「わたしに従いなさい」と呼びかけた方に落とし前をつけてもらいましょう。わたしたちは歩く力も時にはなくすかもしれませんが、その時には手を引いてもらい、おんぶしてもらったりして、時には叱咤激励してもらいながら、そういう形でも従っていきたく思います。

 そのような方が地上に生まれ、今は目には見えないですが、わたしたちの指針となり、希望となっている。そのことに感謝いたしましょう。


 
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