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本日の聖書箇所ガラテヤ書5,13の原文の直訳は、「兄弟たち、あなたがたは自由へと召された。ただ肉についての機会のための自由ではなく、愛によって互いに仕えよ」であり、日本聖書協会新共同訳は「得るために」や「罪を犯させる」など補って意訳しています。また「ただ」は「仕えよ」を修飾しているわけではないことも原文からわかります。ここで「肉についての機会」と訳す「機会」はギリシア語では軍事的拠点や出発地点を元来意味するようです。
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5,13以降がガラテヤ書のそれまで記されてきたことの頂点だという学者もおり(David A. DeSilva, The Letter to the Galatians, Grand Rapids, 2018, 443)、確かにそれまでの論述を総括するとともに、勧告へと移る役割を果たしており、そういう意味で5,13はガラテヤ書全体にとって重要な命題であると言えます。
5,13は5,1を受けた命題であり、その5,1はそれまでの論述をまとめたものです。ですから5,13の「自由」を知る手がかりとなります。4章までのパウロの記述を見てみるとパウロが「何からの自由」を述べているのかがわかりますが、その最も具体的緊急な問題が「割礼」です。異邦人も神の民となるにはユダヤ人のように「割礼」を受けなければならない、というガラテヤ教会の人たちが囚われてしまっている考えからの解放をパウロは熱誠込めて語っています。これが中核的問題なのですが、4,8−10を見てみるとそれ以外にも「自由」あるいは「解放」の対象が述べられています。それは「今まで仕えてきた神々」からの自由であり、「無力で頼りにならない支配する諸霊(ギリシア語でストイケイア)」からの自由であり、「特定の日、月、時節、年を重視して守ること」からの自由です。
以上からパウロが解放されるべき束縛と考えていたのは、第一に律法、特に割礼ではありますが、それ以上に含みのある「その人を支配していた神々」にも及ぶことがわかります。ローマ書ではさらに人間存在に普遍的な束縛として「罪」を挙げ、「罪からの自由」ということをパウロは言います。「自由」という問題はパウロにとって極めて具体的であるとともに普遍性を持つ重要な概念でした。
さらにガラテヤ5,13では「自由」とキリストの「召命」が同時に生じると記されており、それを支持するのが同じパウロによる第二コリント書3,17「主の霊のおられるところに自由がある」です。つまり「自由」とはキリストが共にいることであり、「キリストの福音」そのものである、ということです。出エジプトの解放が神と共にあることと不離一体であったように、キリスト宣教とは自由の知らせと同義ということになります。
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さて現代の我々にとっては、何からの自由が問題となるのでしょうか。ガラテヤの問題であった「割礼」は私たちには関係ありません。しかし「罪からの解放」と言ってしまう前に、もう少し具体的に何が問題なのか考察することに意味があると思います。 あらゆる人間を束縛するものとしての「罪」という概念をより具体化して考察しようとする時に、その束縛するものは、時代や場所にとって変化するものであることがわかります。ガラテヤ書では「律法」特に「割礼」こそが深刻な束縛するものだったのです。
そうするとある地域を支配する「時代精神」と呼べるようなものがあり、それがその地域の人々を無意識下に至るまで捕らえるということがわかります。その時代精神の下では、人々は束縛されていることすら感じず、そこから逃げたいなどという意識も持つことなく、むしろそこに安住さえできるのであり、彼らを支配するものが別な主人に替わった時にのみ、自分たちが束縛されていたことがわかるのです。
現代の私たちの時代精神を大きく言えば、各分野における「閉塞感」や「諦め」を挙げることができるのではないでしょうか。キリスト教会においては、キリスト教の停滞や衰退に対する閉塞感。諸国家や諸民族においては、他者と共存する余地などなく、今や第一に考えるべきは自分たちの生存であるという内向きな傾向。経済的成長が見込めない状況で人々がその縮小していくパイを奪い合うしかない、と考える諦め。日本の若者にとっては、将来の年金への不安に象徴される社会全体への不信感。そして彼らの自己評価の低さがもたらす活力の低下。これらの問題はどうしようもない不可抗力としてわたしたちを圧迫しており、それを突破することは不可能であることを前提として、その条件下で何とか生きて行こうともがいているのが現状でしょう。これはわたしたちを縛る時代精神です。
このような時代精神から解放するのがキリストの福音です。
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そのように考える以外にないように人々を思わせる時代精神の背後には、そのように考えさせようとする人々が存在し、その人々の自己中心性が絡みついているということも無視できません。そのような時代精神によって自分だけ得をするような一群の人々がいるのです。ガラテヤ書では、一見まさに正論であると思われる「割礼をすることにより本当の神の民となる」ということを主張する者について、パウロは「あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいる」(6,13)と喝破しています。現代の時代精神についても、そのようなことが言えるのではないでしょうか。
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さて、キリストの存在によってもたらされ得る自由については、5,13によると、もう一つ大事な側面があります。それは自由とは他者に仕えること以外で意味はない、ということです。もしそうでないならば、その自由はただ肉に仕えることだけ(5,13)、つまり自己満足に終わり、それは自らうぬぼれ、他人に喧嘩を売り、他人をねたむことにつながります(5,15参照)。具体例として第一コリント書には食べ物についての自由が出てきます。宗教的に汚れた食べ物など存在しないことがわかっている「自由な人」も、そのような考えを持っていない人々と一緒の際には、あえて特定の食べ物を食べないことこそ神の御旨に適っているとパウロは主張します。「すべてのことは許されている。しかしすべてのことが益となるわけではない」(1コリ10,23)という命題は、自由ということの本質を明らかにしています。自由とは仕えることである。イエスこそそれを体現した方でした。イエスの与えられていた自由は、他者のために用いられ、そして終にはそのためにイエス自身が殺されることに至らしめました。
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そのような先達イエスに従い、またイエス・キリストによる自由を提示された喜びを感謝しつつ、わたしたちも仕える存在として、それぞれの持ち場で、そして教会で助け合いながら歩んでまいりましょう。感謝と祈りをもって共に進んでまいりましょう。