2019.10.27

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「生きること/死ぬこと」

廣石望

創世記15,2-6フィリピの信徒への手紙1,18-26

I

 先だって私たちの教会は、相次いで二人の信仰の同胞を天に送りました。この方々が私たちのもとにいて下さったことを、私は深く感謝しています。その直後、留学時代にたいへんお世話になったスイス人の新約学者が、81歳で亡くなったという知らせが飛び込んできました。この方は日本と縁が深く、私の学問上の教師たちの友人であり、彼の下に留学して博士論文を書いた直弟子たち、また私のように身近に接した者たちも多くいます。関係者の方々に悲報をお伝えする中で、悲しみが深まりました。

 本日のテクストであるフィリピの信徒への手紙の箇所でパウロは、自分の「生を通してであれ、死を通してであれ、キリストが私の身体にあって栄光化されるであろう」と言います(20節)。ドイツのプロテスタントであれば誰もが知っている、宗教改革から生まれた『ハイデルベルク信仰問答』(1563年)の第一問答は、この表現を受けていると思います。

問1 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。
答え わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。
(吉田 隆訳)

 私たちが天に送った方々も、等しく救い主イエス・キリストを「生きるにも死ぬにも」唯一の慰めと信じたと思います。宗教改革記念日の今日、現代にあってこの信仰をどう生きるのがふさわしいかについて、宗教改革の伝統の一部をも参照しつつ、ごいっしょに考えましょう。

II

 「私にとって生きることはキリストであり、死ぬことは利益であるから」(21節)とパウロが言うことの背後には、当時のキリスト教伝道に大きく言って二つの路線があり、その対立が激化していたことがあります。

 パウロが連なったのはラディカルな異邦人伝道路線であり、この立場は、キリストへの信仰のみに基づいて、異邦人を信仰共同体のフルメンバーとして受け入れることを推進しました。もう一方の路線はユダヤ主義の路線であり、この立場は、ユダヤ教内部でのみキリスト信仰は可能であると見なし、実質的には異邦人キリスト者にユダヤ教への改宗を迫るものでした。後者のユダヤ主義路線のキリスト者たちは、自分が獄中にあることを喜んでいると、同じユダヤ人のパウロは理解しています(直前の17節参照)。当時のキリスト教内部には、深刻な路線の対立があったのです。

 仮にそうであっても、フィリピ共同体の人々の「祈り」と、「イエス・キリストの霊の供給」さえあれば、「キリストが私の身体にあって偉大とされる」という希望は叶うのであり、それがパウロ自身にとっての「救いにつながるだろう」と彼は言います(19節)。

 「私の身体にあって」は、「生を通してであれ、死を通してであれ」と並列的な表現です(20節)。かつて神の教会の破壊者であったパウロからすれば、キリストが大いなる者とされるのであれば、そのために私が生き続けようと、あるいはそのせいで自分が死んだとしても、何れにしてももっけの幸い――現代の言葉でいえば「生きてるだけで丸儲け」、かつ「死んでもやっぱり丸儲け」です。

III

 ユダヤ教のラディカルなユダヤ教民族主義の立場から、異邦人伝道路線に転じたパウロにとって、この転換は一度死んだも同然のできごとであり、その後の歩みは「神が与えた命」でした。それはある意味で余命ないし余生の歩み、より正確には、神が与える命という意味で「与命(よみょう)」の歩みでした。

 それが証拠にパウロは、ダマスコ近郊でのキリスト顕現の体験を、後に「死」の体験として語っています。

他ならぬこの私は、律法を介して律法に死んだ――神に生きるために。私はキリストと共に杭殺刑に処された。生きているのはもはや私でなく、私の内なるキリストが生きている。私が肉にあって生きること、それを私は信にあって、神の息子に生きる――私を愛し、私のために自己を引き渡した者に。(ガラテア2,19-20

 「律法を介して律法に死ぬ」とは、ユダヤ教律法を金科玉条のごとく奉り、それに反する民族同胞を聖なるものへの冒瀆者と見なし、その人々に暴力を振ることも辞さないことを「神の律法への熱心」と信じてきた生き方が崩壊した、という意味でしょう。この立場の人々は、息子イサクを神に生贄として捧げることも厭わなかったアブラハムを(創世記22章)、神のためであれば身内の命をも差し出す覚悟として、「熱心」のひとつの理想形としました。

 おそらくパウロにとってキリスト顕現は、神の自己啓示としての杭殺刑に処されたイエスのヴィジョンでした(「私はキリストと共に杭殺刑に処された」)。律法によって排除された死せるイエスが神の命の真の現れであるなら、律法への熱心によって神に仕えるという情熱は、現実には倒錯的な死への奉仕であることが判明します。この認識により、かつてのパウロはいったん死にました。

 しかし、それは私が「神に生きるため」、信にあって「神の息子に生きるため」、要するに「私の内なるキリスト」が働きを発揮するためでした。このことを、十戒の安息日規定に寄せたドイツの賛美歌は、こう歌います。

君は君の行いを停止すべし、神が君にあって彼のわざ(のための場所)を持つために。
du sollst von deim Tun lassen ab, dass Gott sein Werk in dir hab (EG 231,4)

IV

 この世の生から解放されてキリストと共にあることの方が、ずっと大きな利益であり、そのことを自分は渇望している、とパウロは言います(23節)。――亡くなったスイス人の先生についても、彼を何度も病床に見舞った方から、彼が「これ以上生きることを望んでいなかった」と聞きました。ずいぶん前に亡くなった私の祖父も、もはや体の自由が利かなくなったとき、むりやり衣類を着替えさせようとしたら、苦しそうに「もぅ、いい」と繰り返しました。

 牢屋にいるパウロは身体的に弱っていたわけではないかも知れません。しかし客観的には、そこで命が尽きる可能性はあったでしょう。それでもパウロは、「肉にとどまることが君たちのためにはもっと必要だ」(24節)と言います。自分が共にいることで、フィリピ共同体の「前進と信仰の喜び」(25節)に貢献できると彼は信じています。どうしてなのでしょうか。

 ルターは「マグニフィカト」解釈の中で、低い身分のマリアに託しつつ、人はいかなる疑いももたず自分に対する神の計画を尋ね求めるべきであり、「神があなたと共に偉大なことを行う」ことを深く信じるよう促します(『ルター著作集』第1集、第4巻、170-171頁)。パウロも、そうだったのではないかと思います。

 私は小さく、さまざまな問題を抱えており、能力にも限界があります。私の命そのものにさしたる意味はありません。そのつまらない私が、ただ生きていることが理由で、お腹が減ってはご飯を食べ、眠くなっては眠り、欲望を満たすためにお金を使ったり、思い上がって人を傷つけたりします。それでも神は、そのようなつまらない私を用いて、ご自身の計画を実行する。それが何であるかを、私たちは自らの欲望に沿って定めるわけにはゆきません。ただ、祈り求める他ありません。

V

 パウロは、「君たちの誇りがキリスト・イエスにあって溢れるために」、再びフィリピの共同体を訪れたいと言います(26節)。「誇り」とは自慢という意味ではなく、神への信頼にもとづく安心感、安らかな自尊心のことです。

 この関連で、ルターによる福音理解の伝統に照らして、日本のキリスト教に著しく欠落していると思われることをひとつあげたいです。それは、この世に対する責任的な関わりです。

 ルター以前には、信仰者を「司祭団」と「一般信徒」の二つのグループに分けて、前者にはより厳格な、後者にはより緩やかな戒律の遵守が求められるという考え方がありました。これに対して、万人司祭説の立場を採用するルターは、すべてのキリスト者は、「キリストに属する人格」であると同時に「この世に属する人格」として、キリストに従って生きると考えました。つまり「キリストに属する人格」として自らが被る悪と不正に忍耐する一方で、同時に「この世に属する人格」として、隣人にもたらされる悪には断固として抵抗しなければなりません(「この世の権威について」、『ルター著作集』第1集、第5巻)。だから、キリストの要求を免れる俗人は存在せず、この世の正義の要求を免除されるお坊さんキリスト者もいません。

 「キリスト」と「この世」という二つの視点の区別と組み合わせは、最終的に、政治権力が神権化することで市民を宗教的に支配するのを禁じるという意味の政教分離を、つまり市民社会における内面的な自由をもたらしました。したがって、信仰を個人の魂の救済に限定し、しかし「この世」における正義の求めに応えることなしに、「キリスト」に従うことはできません。そうしたところで、十全な意味における「誇り」、神の前での安らかな自尊心を維持することはできません。日本のキリスト教にしばしば「この世」への責任的な関わりという視点が欠落している理由は、日本の国家体制そのものが、戦後70数年を経ても、天皇制という宗教的オーラに今も包まれていて、これに抵触することを禁忌としているからだと思います。

VI

 ユダヤ人についてのルターの発言に大きな問題が含まれることは、週報のコラム欄でふれました。使徒パウロがルターの保証人として引き合いに出されることがありますが、ユダヤ人パウロ自身は「あなたが根を支えているのでなく、根があなたを支えている」(ロマ11,18)、つまりキリスト教信仰はユダヤ教の遺産から生きている、という見解でした。

 「生きるにも死ぬにも」キリストが私たちにとって唯一の慰めであるのは、私たちが一度己に死ぬことで、神が私を用いて彼のわざを行うからです。私がどんなに無価値ないし有害な存在であっても、我がうちに生きるキリストを通して、神が良いことをなさるからです。そのことが、私に救いをもたらすでしょう。なので私たちは、あらゆる政治権力が宗教的オーラをまとうことに対して、市民社会の健全さを維持するためにも「否」と言いたいと願います。


 
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