イエスさまというのはなかなかの構成作家だと思うのです。今日のたとえ話でやもめの姿に、私たちの現実を重ね合わせています。彼女の心からの叫び、人生を賭けての叫びは、実は裁判官にではなく、神さまに向けられています。人間は神さまに向かって生きるようにいのちの息を吹き込まれて創られました。まさにどんな絶望の中にも、失望の中にも、たとえ希望が吹き飛ばされてしまっても、神さまのご臨在だけはゆるぎなくこの現実の中に立っています。私たちの人生の中で出会う、もっとも力ある方、他のどんなものよりも頼りになるのが神さまです。神さまは母鳥がその翼で雛を守るように私たちの小さな希望を温め、その実現に向けて力を貸して下さるお方なのです。
おそらくもうすでにやもめは、人生の酸いも甘いもすべて経験していたことでしょう。失望も絶望も何度も味わっていたことでしょう。彼女は自分の希望を実現させるためにさまざまな努力をしてきました。しかしその努力が日の目を見ることはありませんでした。なぜなら彼女も弱く、脆い一人の人間であったからです。そこで彼女は力のある裁判官のもとを訪ねて助けを求めました。
「神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた」(2節)とあります。こんな裁判官がいたなら本当に不幸だと言わねばなりません。当然、そういう裁判官には不満が出されたでしょうが、中には裁判を諦めたり、それも運命だと思う人もいたかもしれません。
当時の社会は圧倒的な男性中心社会です。自分を守ってくれる者のいない「やもめ」の立場は極めて弱かったのです。彼女は自分の訴えを裁判官に取り上げてもらおうと、足しげく裁判官のところへ行って願い出ていました。3節のところに「裁判官のところに来ては」とあります。繰り返し彼女は頼みつづけていたのでしょう。また5節は裁判官の言葉ですが、「ひっきりなしにやって来て、……さんざんな目に遭わ」せようとしていた彼女の姿が目に浮かぶようです。ちなみにこの「さんざんな目に遭わす」という言葉は「眼の下にあざをつける」というものです。あのボクシングでよくある光景と同じですね。これが転じて「迷惑をかける」とか「困らせる」という意味になっています。
このようなしつこさをもって迫られる裁判官にしてみれば、逃げ場所もなかったでしょう。とうとう根負けし、裁判をして彼女の権利を守ってやりました。しかし、ここにも見え隠れする裁判官の自己中心の思いです。「彼女のために裁判をしてやろう」(5節)と言うのですが、実は裁判官がこれ以上の被害を被りたくない一心でしぶしぶ裁判をしたのかもしれません。「人を人とも思わない裁判官」です。困っている彼女のために親身になって一肌脱いだということは考えられないのではないでしょうか。
イエスさまはこのたとえ話で何を弟子たちに、また私たちにお教えになりたかったのでしょうか。それは彼女の叫びを通して神さまに呼ばわるすべての人間の姿を見るようにと促しておられます。そしてそのなかで唯一、神さまこそが私たちにとっての力の源であるとイエスさまは教えておられるのです。神さまこそがいつも目を離されることなく祈る者の傍らにおられて、すみやかに私たちの祈りを聴いていてくださいます。ですから私たちは落胆せずに、失望せずに常に祈ることが大切です。7節のところで「昼も夜も叫び求める」姿が=「絶えず祈る」こととして描かれています。やもめはすごく辛い立場の人です。当時、夫を亡くした女性は弱さに打ちひしがれていました。夫を亡くしたがために軽視されて不利益を被っていたわけで、彼女の叫び声は本当に必死な叫び声になったはずです。でもイエスさまは彼女達のことを「昼も夜も叫び求めている選ばれた人達」っていう言い方をします。すなわち、この叫びにおいて人は神のみ手の内にあると言えるのです。
イエスさまは「気を落とさずに絶えず祈ること」を教えるためにこのたとえをお教えになられたわけですから、私たちも何があろうとも気を落とさずにずっと祈り続けたいものです。この女性のように叫び続けることは大切です。私たちの叫びは必ず神さまのもとに届きます。神さまのみ前で安心して叫んだらいいのだと思います。そして自分だけではなく、今この時にも世界中で叫び声を上げている人達と一緒に心を合わせて祈りたいものです。その叫びに、神さまが「いつまでも放っておくことはない」のです。
神さまは私たちの希望を見守り、支えてくださいます。しかし、イエスさまは私たちが神さまに祈ったらならば、すぐに私たちの望みどおりに応えてくださるのではないということも教えておられます。今日のたとえ話の中でひとつ読み落としてはいけない一点があります。それは、私たちが神さまに向かって叫んだら、自動販売機で物を買うように即座に結果が出てくるのかというと、そうではないということをイエスさまは教えておられる点です。私たちは神さまを信頼しながらじっと待たなければなりません。皆さんの中に祈りがすぐに聞かれなかった経験をお持ちの方がいることでしょう。おそらく大部分の人がこういう経験をお持ちだろうと思います。神さまは私たちに忍耐して待つことを求めておられます。
ですから今日のたとえ話に出てくる裁判官と神さまの違いは明白です。裁判官はやもめのあきらめない態度に根負けして裁判をしますが、神さまはそうではありません。神さまは私たち一人ひとりを今この時も愛し、たとえ一人が失われることを願ってはおられないお方です。神さまは私たちの必要をすべてご存知で、私たちが神さまに向かって叫ぶならば、それは即座に神さまのもとに届いています。私たちは祈っても聞かれていないと思うようなことがあります。叫んでも誰も聞いてくれていないのではないかと思うこともあります。まったく神さまに見捨てられた、見放されたと思うようなことがあっても信頼し続けなければなりません。私たちの叫びを聞きつつも、それに即座にお答えにならないのは、私たちに今は隠されている神さまなりの理由があるからなのでしょう。
また、今日のたとえ話のやもめの姿に教えられることがあります。彼女はただ単にしつこい、しぶとい人であったのではありません。彼女の持つ「信頼する心」が、最初のうちは冷たくあしらっていた裁判官の心を動かしたといえます。イエスさまが「気を落とさずに祈りなさい」と教えられたのは、同時に相手を信頼しなければならないこともお教えになろうとされたからなのです。私たちにもう一度信頼することの大切さを深く教えられているのです。