2019.08.11

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「ドグマからの解放」

田中健三

出エジプト20,4-6ヨハネによる福音書9,1-7

 本日は、先週の広島と長崎への原爆投下の記念日と今週の敗戦記念日の間に当たります。一度壊滅した日本がここまで復興したことに驚きと感謝を覚えるとともに、戦争体験者やその切実な体験を継承している子孫がまだ生存する中で、今一度戦争の原因とその責任から目をそむけないことを銘記しなくてはならないと思います。何もなかったことにすることはできず、私たちは正の遺産だけ継承し、負の遺産は置き去りにしておくことはできないはずです。現在日本と韓国の政治状況が悪化しているのはご存じのとおりであり、その背景には両国それぞれの権力者の思惑があり、権力闘争があるのでしょうが、そのこととは別に、日本政府として戦争中に行った強制連行や従軍慰安婦という負の遺産にもう少し真摯に向き合ってきたのなら、国家としての両者の関係も違ってくると思います。そのことを踏まえた上で、現実の問題について両国で議論し合うことが大切ではないでしょうか。いずれにしてもこの時期は「どんなことがあっても二度と戦争をしてはいけない」ということを改めて確認する大事な機会です。

 今日は「ドグマからの解放」という題ですが、74年前に破れた戦争にも、神としての天皇とそれにまつわる「宗教的教え(ドグマ)」が大きく関わっています。ドグマが戦争という甚大な損害をもたらす一因になったわけですが、ある意味でドグマはわたしたちの現在の日常生活にも関係してくる事柄でもあります。

 ヨハネによる福音書9章の「生まれつきの盲人」の物語の冒頭部分は、「罪を犯せばその報いを受ける」という旧約・新約聖書を通底する「因果応報」思想に関わるテーマとなっています。2節の「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」から、「病気の原因に罪がある」と当時見なされていたことがわかりますが、これは一般的な風習であっただけでなく、その根底には信仰問題がありました。

 「わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問う」(出エジプト20,5)とは十戒の中に組み込まれた文言ですが、神との関係性について訴える大切な戒めを構成する要素となっています。他ならぬ神は人と真実なる関係性を求める方であり、その正義なる神と向き合う中で、罪を犯すということはどうでもいい事柄などではなく、その影響は本人だけでなく、子孫にも及ぶということであり、それはまさに戦争という罪から74年経った今の日本を取り巻く状況にも当てはまると言えます。

 この「罪とその影響」についての文言は、本来神に向き合うことを述べたものであり、その神は人に真摯に向き合う方であるとともに、「わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」(出エジプト20,6)方であり、犯した罪を越えて大いなる恩恵を与えようとされる方であることが重要です。

 ところでこの本来は神賛美の表現の一つであった「罪とその結果」という教えが、神賛美から逸脱し、逆に神に背くことにさえなる、というのがヨハネ福音書9章の趣旨でありますが、この問題を扱った物語にヨブ記があります。敬虔なるヨブが重篤な病となり、自分の子さえも失うことになるのですが、そのヨブを慰めようとして来た友人たちにその消息が如実に見られます。

  ヨブに対して「神は聖なる方なのだから、神に訴えよ」と友人たちは言うのですが、その至極もっともな言葉がヨブを苦しめていきます。

 友人の一人エリファズは「わたしなら、神に訴え、神にわたしの問題を任せるだろう。計り難く大きな業を、数知れぬ不思議な業を成し遂げられる方に」(ヨブ5,8-9)とヨブに語りかけますが、ヨブには何の慰めにもならず「わたしの苦悩を秤にかけ、わたしを滅ぼそうとするものをすべて天秤に載せるなら、今や、それは海辺の砂よりも重いだろう。わたしは言葉を失うほどだ」(6,2-3)と吐き出します。

 他の友人ビルダドに明確にドグマによる上から目線の裁きの言葉が見て取れます。彼はヨブに「いつまでそんなことを言っているのか。あなたの口の言葉は激しい風のようだ。神が裁きを曲げられるだろうか。全能者が正義を曲げられるだろうか。あなたの子らが神に対して過ちを犯したからこそ、彼らはその罪の手にゆだねられたのだ」(8,2-4)というように「災禍に在ったのは罪を犯したからだ」という推論を決めつけます。

  ヨブはもちろん神の正しさ、力、そんなことは承知していますが、どうしても友人たちの言葉に納得できません。「神に代わったつもりで、あなたたちは不正を語り、欺いて語るのか。神に代わったつもりで論争するのか」(13,7-8a)とヨブは友人たちを非難します。ヨブにとって正論を並べる友人たちは「あなたたちは皆、慰める振りをして苦しめる」(16,2b)存在でしかないのです。そしてヨブ記作者の結論もそうであり、神をしてヨブの友人たちを怒らしめ、「お前たちは、わたしについてわたしの僕(しもべ)ヨブのように正しく語らなかった」(42,7c)と言わしめています。  正しい教えが、人を苦しめ、結局正しくない、という現象が起きています。本来神を賛美するための言葉そのものが、自分も他人も不自由にして、苦しめることとなるという皮肉です。

 さてヨハネ福音書9章では「罪を犯せばその報いがある」という教えとそこから派生した「病気の背後にはその人かその家族の罪がある」というドグマについての問題提起がなされていますが、そのドグマに対して新たなドグマを持ち出すことなく、新たな見方を提示しています。病気によって神の栄光を表わす、という未来指向の視点です。病気がその人への救いをもたらすだけでなく、それ以上の意味を持ちうる、という前向きな発想です。

 さてこのドグマの問題をわたしたちに当てはめて、少し広い視点で省みてみるならば、実はわたしたち自身に関わることであることに思い当たります。

 宗教的教えということだけなく、より広い意味での「正論」にわたしたちは縛られています。家庭環境、教育、時代的背景などにも起因しますが、わたしたちは様々な「思い込み」という不自由を無意識に持っているのではないでしょうか。その「思い込み」が自分も他人も苦しめることさえあります。

 そのような思い込みに加え、わたしたちは他者の気持ちに寄り添うことができないばかりか、他者を慰める場合にすら「人の上に立ちたい」という欲求がまとわりつくような、どうしようもない存在です。

 このような思い込みやあくまでも人と比較して優位に立ちたいという事柄が全くない人は少ないのが現実ではないでしょうか。

 キリスト教の本質は、このような「不自由さ」からの解放であるはずです。「神の栄光」が現われる所、人の不自由さが突破されます。さらに言えば、どうしても納得のいかないような人生における「マイナス」が、神にとってはチャンスであり、それはわたしたちにとってもチャンスである、そのような生き方を聖書は示唆してくれています。

 そしてわたしたちの経験としても、このような解放が今まで皆様の上にもあったでしょうし、これからもさらに大きな経験をさせてもらえることでしょう。「見えない者が見えるようになる」(ヨハネ9,39)というイエスと向き合うことにより、日々自由にされて歩むことができる、そのことに感謝してこの一週もそれぞれの場所でではありますが、主に在って共に過ごしていきましょう。


 
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