2019.07.28

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「マイカル神父の祈り」

中村吉基

コヘレトの言葉 3,1-8ローマの信徒への手紙 14,7-9

7わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。
8わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。
9キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。

 アメリカの長老教会が子どもたちのために信仰について分かりやすく書いたカテキズム(信仰問答)が20年前に出されました。そのタイトルは『わたしたちは神様のもの』というものでした。そしてその本を開くと第一番目の問いに

「あなたはだれですか?」

と書いてあります。

 「あなたはだれですか?」と聞かれて皆さんだったら何と答えるでしょうか。

「私は人間です」 「私は◯○(名前)です」

さまざまなことを言われるかもしれません。それではこの問いの答えにはこうあります。

「わたしは神様の子どもです」

たったこれだけなんです。でも私はとても美しい響きを持っていると思ってここを読んでいます。なんて素晴らしいことだなあ、としみじみ思わされます。同じようにプロテスタント教会で長く読み継がれてきた『ハイデルベルク信仰問答』という書物がありますが、この第一番目の問いはこうです。

「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」

答えは

「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです」。

 今日の聖書の言葉でパウロは「わたしたちは神さま(主)ために生き、神さま(主)のために死ぬ」と言っていますが、この「主のために」を直訳すると「神さまに生き、神さまに死ぬ」となります。これはどういうことかというと神さまとのかかわりの中で、自分は生き、また神さまと結ばれて自分は死ぬのだということです。

 ではこれとまったく正反対の人生の人はどんな生き方をするでしょうか。パウロはそのことを7節に書いております。

「自分のために生きる人」「自分のために死ぬ人」

です。パウロはここでは神さまに結ばれている人、すなわち言い換えれば神の子とされている人は、そんな生き方は「しない」のだと言っています。人間が自分だけのために生き始めたら、どうなるでしょうか? まず私たちを創られた神さまに感謝をしなくなるでしょう。この世でいちばん偉いのは自分ですから、神さまだって、他人のことだってお構いなしになるでしょう。そしてその中で他人を攻撃するでしょう。自分と合わない者を排除したり、差別したり、みんながみんな、自分の考えていることがすべて正しくて、すべて絶対となって行きます。そうなると世の中がだんだんおかしくなっていって、戦争だってテロだってこういうところから始まっていくのですね。

 2001年にアメリカ同時多発テロがありましたが、この「911」の最初に認定された死亡者はマイカル・ジャッジというカトリックのフランシスコ会に属する司祭(神父)でした。NYのワールド・トレード・センタービルのツインタワーが崩壊した時にその下に一人の神父がいました。彼はニューヨーク消防署付きのチャプレン(牧師・神父)でした。欧米では病院にも、警察署、軍隊にもチャプレンがいます。同時多発テロの日もマイカル神父は真っ先に現場に駆けつけて、消防署付きの神父ですから、消防車と一緒に現場に向かいました。そしてまだあのビルが崩壊する前に、このマイカル神父さんは現場で亡くなった人、亡くなりかけた人に聖なる油(病者の塗油=カトリック教会の秘跡)を授けたのです。その時近くの消防士の上に女性が一人飛び降りてきて、その消防士に当たって二人とも亡くなりました。まさに地獄のような状況でしたが、そこで彼がその消防士とその女性に最後の儀式を行っているところへ、瓦礫が落ちてきて彼も亡くなりました。どんなに危険なところでも、神さまが一緒にいてくださるから平気だと出かけて行ったマイカル神父でした。

 あのような恐ろしい出来事、地獄の現場に救いはないかというと、そうではない。そこにマイカル神父のように「神のために生きて」「神のために死んだ」人がいました。私はこの話を聞くと、この世界は救われているのだと思います。マイカル神父はその目に見えるしるしとなりました。彼はとても尊敬を集めている司祭でした。今、ニューヨークには彼の銅像も建っているほどです。消防署のある通りは「マイカル・ジャッジ通り」と名前を変えました。

 マイカル神父は弱い者の味方でした。エイズに苦しんでいる人達とかホームレス、LGBTの人達…そういう弱い者の味方だった神父。また航空機事故など、大きな災害があった時に、亡くなった方の家族達の心の傷を癒す、そういうケアの仕事の第一人者としても尊敬されていたのです。誰もが「神なんかいない」と神さまの存在を疑うようなテロの現場で「神のために生きる」マイカル神父の姿があったということは奇跡の出来事だったといえます。

 実はマイカル神父が、いつも悲惨な現場をはじめ、人々のところへ出かけていく前に、必ず祈っていたお祈りがあります。そのお祈りが「マイカルズ・プレイヤー」と呼ばれている短い4行の祈りです。

「主よ、私をあなたが遣わしたいと思うところに遣わして下さい。あなたが会わせたいと思う人に会わせて下さい。あなたが語りたいことを私の口を通して語らせてください。私があなたの道の邪魔をしませんように」。

 私はどこの教会や学校の礼拝に伺っても、このお祈りをして皆さんを礼拝堂から送り出すことにしています。この祈りを唱えてあのテロがあった日にもマイカル神父は出かけていって亡くなりました。「あなたが遣わしたいと思うところ」があの現場だったのです。神さまのみ心がどこにあるのか、私たちにはわかりません。しかし「神さまによって生きている」私たちも毎日の生活の場に出かけていかなければなりません。

 マイカル神父はあの時、鉄骨が落ちてきて亡くなってしまったのですが、ビルの中で消防隊と一緒にいるシーンが画像として残っているのですね。緊張した面もちで消防士と一緒にヘルメットかぶって。もう周りには次々と人が落ちてくる状況で、祈るためにヘルメットをはずした時に落下物に当たって神父は亡くなりました。911ミュージアムでも運び出されるジャッジ神父の遺体の画像が展示されています。「マイカル・ジャッジ」と検索してくださると日本語のウィキペディアが出てきます。そこからアルファベットの名前で検索していただくと、遺体の画像が出てきます。初めて見たときに私は絶句しました。精一杯奉仕して生きている時の神父の姿、そして一瞬後には神さまに召されて目を閉じている姿。最期の一瞬、本当に命がけで奉仕しているその姿は輝いていました。

 あの世界貿易センタービルの中にいて火事で、崩落で、あるいは下敷きとなって亡くなって行った方々が約2800人。この方々も神さまが、どこまでもかかわりを持ってくださっている中で生き、そして死んでいった方々です。こう聞くと不思議に思うかもしれません。中にはキリスト者ではない仏教徒の人も、ユダヤ教の人もさまざまな宗教の人も、宗教の嫌いな人も、また神さまのことをまったく知らずに死んでいった人もいたはずなのに、どうして神さまは「別け隔て」をされないのかと思うでしょう。しかし、神さまは人間がどう思おうとも、決して神さまのほうを向いていないときにも一人ひとりにかかわり続けられるのです。それが私たちの神さまです。そして今日ここにいる皆さんお一人お一人を神さまは愛しておられます。

 神さまは、ご自分がかかわりを持った、その手を決して離すことはなく、常に御顔をその人たちに向けておられたのです。それゆえに私たちはその方々をも、祈りに憶えなくてはなりません。また私たちはそれらの方々のお名前も知らないし、どのように生き、どのように死なれたのかもわかりません。そしてどんな人生を送り、その人の人生にどんな意味があったのかということも知りません。けれども一つだけ確かなことは、神さまが、それらの一人ひとりと徹底的にかかわって下さり、恵みのみ手を差し伸べ続けていて下さったということなのです。そのことを信じて、私たちは神さまをほめたたえるのです。そして同時に覚えるべきことは、その恵みが今ここにいて生きている私たちに同じように与えられているということです。この神さまを信じて、私たちの存在をこの神さまの方へと向けていく決断、それを信仰といいます。そこに、

「生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」(8節

という、本当にすばらしい人生が始まっていくのです。


 
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