ルカによる福音書19章11節以下の箇所は本来二つであった物語を一つにしていると思われます。その二つの繋がりが不自然だからです。一つは、ある身分の高い人が王に即位するために遠い国に旅立つが、民はその者を憎み、即位に反対する、という物語。もう一つは一人一ムナ(現在の価値で100万円弱くらい)を預かった奴隷が、10倍、5倍に財産を増やす者と預かった財産を死守し増やすことはしなかった者とに分かれた、という物語です。前者の物語は、前4年にヘロデ大王の後継者の一人であったアルケラオスが即位のためにローマの承認を得ようと旅立ったが民衆は彼を支持していなかったという史実を題材にしている、ともされています。
11節に記されているように、ここでは終末がもうすぐ来ると思い、地に足のついた営みを怠っている人たちへの勧告としてこの箇所全体は記されています。一ムナ与えられているのに何もしなかった奴隷が焦点となっています。これを現代の私たちに応用するとするならば、キリスト信徒の間にある一種の原理主義的思考がそれに当たると言えるかもしれません。つまり「私たちは救われている」「私たちは天に国籍ある」と思い、この世の社会的問題などの営みを低く見る傾向を持つ信徒です。
ところで私たちは目に見えない何かを自分の「主人」として生きているという意味では、何かを信じて生きている「奴隷」です。あるいは「自分の力」あるいは「強いものこそ生きることができる」あるいは「運命論」などを信じていることなどがそれに当たります。
さて一ムナを活用しようとしなかった奴隷は、「主人は厳しい方なので怖かった」(21節)から、ただしまっておいた、ということです。マタイによる福音書の並行記事では「この奴隷は委縮した(または臆病だった)」(25:26 ギリシア語ではオケーロス)と説明しています。つまりこの奴隷の主人観が焦点となってきます。三番目の「失敗を恐れて委縮した」奴隷も、ある者を主人としていたことには変わりありません。この奴隷と対照的な人物を参照してみたいと思います。ルカによる福音書7章36節以下の「罪ある女」がそれです。イエスのために香油の入った壺を持ってきて、イエスの足を涙でぬらし、自分の髪で拭い、接吻し、香油を塗った人です。この人は何らかの罪を犯したことが周囲にも知られており、他の人々に対しても、イエスに対しても、委縮してもよさそうなものです。ところがこの人は大胆に行動し、イエスはそれを肯定しました(44−47節)。
なぜこの人はこのような行動に出ることができたのでしょうか。おそらくそれはこの人が「罪ある女」と自他共に認められたことと無関係ではありますまい。自分の失敗、弱さと向き合わざるを得なくなり、そのどん底でイエスと出会い、イエスがこわいだけの人ではなく、自分の弱さを包み込んでくれる人であることがわかったのではないでしょうか。この人は自分をごまかさなかった、あるいはごまかすことができなかった人です。そこで自分を取り繕うことなくイエスという方と出会い、そのことでイエスという人物を理解し、さらにイエスの弱さにも気づいたのでしょう。ここでいうイエスの弱さとは、イエスの死が迫っている、ということです。一ムナの奴隷と主人との距離感と、罪ある女とイエスの距離感との違いが浮き彫りになってきます。主人をどういう人と思うのかは、奴隷の姿勢と表裏一体だということです。一ムナの奴隷はある種のごまかしができた人と言えるかもしれません。そのため主人が怖いだけの人という理解にとどまっていたのです。
さてもう一つの物語である「遠い国に旅立った」主人というテーマですが、主人が見えない中でどう生きるかというキリスト信徒の在り方に示唆を与えてくれます。神やキリストは目の前に見えない存在だからこそ、インマヌエル(主はわれらと共にいる)という言葉が出てくるわけです。インマヌエルとは逆説的名称です。
多くの民が主人を認めない、認める者は少数である、という設定は、新約聖書時代のキリスト信徒にも当てはまりますし、現代の特に日本のキリスト信徒にも当てはまります。そこで27節で「私が王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、私の目の前で打ち殺せ」という言説をわたしたちはどう理解したらよいでしょうか。これを非キリスト信徒への裁き、あるいは排除と見るのではなく、私たち少数であることが間違っているわけではないという「はげまし」と理解するべきではないでしょうか。現代日本でキリスト信徒であることは極めてマイノリティであり、しかも信徒たちは社会の荒波の中で「もしかしたら自分たちは間違っているのではないだろうか」という疑問を抱くことがあります。それに対して、少数であるからといって間違っているわけではない、という意味での27節の言説ととらえてみるのです。
さてこの三人の奴隷の物語の私たちへの結論は、「進め」「臆することなく活動せよ」「私たちには皆何か託されている」「それを活用せよ」です。この世で生きる者たちにとって様々な主人がいますが、私たちキリストを主人とする奴隷は、恐れをもってではなく、大胆に活動していきましょう。