2019.07.14

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「Who is my neighbor? (私の隣人とは誰ですか?)」

(外国人の人権のために祈り、民族主義と平和を考える礼拝 )

Devorah Umipig-Julian
日本語訳: 廣石 望
⇒英語版(原文)

レビ記19,11-18ルカによる福音書10,25-37

I

 お早うございます。私が先月、廣石牧師から今日の説教を担当してくれないかというメール連絡を受けたとき、私の返答は「はい、喜んで。機会を与えてくださり、ありがとうございます。こうしたことで神に仕えることができるのは特権です」というものでした。

祈ります。私の口の言葉と私の心の瞑想が、我が主・我が贖い主よ、あなたの意に適ったものでありますように、アーメン。

II

 現在、世界中で6,500万人が居住地を追われています(UNHCRの2019年統計)。グローバルな規模の移民危機に直面して、合同メソジスト教会(UMC)を含む世界の諸キリスト教会は、6月のある主日を、世界中の移民と難民たちを覚えて彼らのために祈り、特別に基金を募るための日と定めました。そして代々木上原教会が今日の礼拝を、世界中の教会と連帯して働くための礼拝に選んだことを、私は嬉しく思います。

 私は「私の隣人とは誰ですか?」というタイトルを、同情と傷つきやすさというキーワードと共に、そのことについて熟慮するために選びました。そして一人の麻薬密売人が牧師に寄せたという、以前に読んだことのあるコメントを紹介することから、始めさせて下さい。「牧師先生、子どもたちが朝に目覚めて、学校に行こうとするとき、私はそこにいます。……子どもが遊びに行こうとするとき、私はそこにいます。私がどこにいるかを、先生、子どもたちは知っているのですよ。でも、あなたはどこにいるのですか?……」。

 「あなたはどこにいるのですか?」――私は牧師ではありませんが、この問いは私自身に向けられていると感じます。なるほど「悪」はいたるところにあります。でも、私はどこにいるのか? あなたは、そして私たちはどこにいるのか? イエスの教会はどこにあるのでしょうか?

 戦争についてのテレビ報道を見るたびに、同じ問いが心に浮かんできます。破壊がなされ、人々が亡くなり、無辜の家族が死に、子どもたちが巻き込まれ、飢餓が生じます。そのとき、さまざまなコミュニティー、教会、そして国家は深刻な仕方で分断されています。人々は互いに意見を異にし、互いを信頼しません。しばしば私は、そうした人々のことを気の毒に思い、「私にできることが本当に何かあるのだろうか?」という問いが頭から離れません。

 ウェブスター辞典には「同情compassion」の定義として、他の人と共に苦しむこととあります。「同情するとは、ただ誰かのことを気の毒に思うことに留まらない。それは、欠乏の只中にある人々のもとに降りてゆくこと、痛みの只中にある人々と共に苦しむことを意味する」。言い換えれば、「他の人と共に苦しむ」とは「痛みを伴う同情」です。痛みを伴う同情――よい表現ですね。そして、同時にとてもチャレンジングです。

III

 聖書における「同情」は、問題があるときに、その必要に促されて問題が生じているその場に行き、自らの手を汚しながら人々を助けよう、彼らの問題を解決しよう、その人々の生活をより高い水準にまで押し上げようと試みることです。

 このことが、よきサマリア人の譬え(ルカ10,25-37)で例証されています。時代を超えるそのメッセージとチャレンジに注目したいと思います。譬えのテクストの5人の登場人物に注目しましょう。

IV

 ストーリーは、律法家がイエスに質問するところから始まります。「永遠の命を得るには私は何をすればいいですか?」。私自身には、この問いは、「何々を得るにはどうすればいいですか?」という、教師が答えに窮するような問いかけに似ています。まるで、合格通知を手に入れるための書式をくれ!と言わんばかりです。よい教師であれば、きっとこの問いを嫌うでしょう。よい教師たちは、むしろ「私は何を学ぶとよいですか?」あるいは「私はどうすれば自分を改善できますか?」といった質問を好むでしょう。

 路上で突然、このような問いを発する人がいたら、それは純粋な質問だと思うのが適切でしょうが、こう問うたのは法律家です。聖書学者たちによると、法律家というものは、以前も今も、自分がすでに答えを知っていることについては決して問うてはならないものなのだそうです。法律家は答えをもっています。そしてイエスは、律法家がすでに自分で答えを知っていると思っていることを知っています。そこでイエスは「君は律法を知っている。自分からそれを言ってくれ」と返答します。

 法律家は律法を引用しつつ、「あなたの神である主を愛せよ、あなたの心のすべてをもって、あなたの魂のすべてをもって、あなたの力のすべてをもって。またあなたの隣人をあなた自身として愛せよ」。

 現代の言葉で言えば、イエスは「よくやったgood job」と評します。法律家は、「しかし私の隣人とは誰ですか?」と問いを返します。それは、「あなたはクリスチャンですか?」という問いに答えて、「はい、私は信じています。私は教会に通っています。私はキリストの教えに基づく価値観をもち、それは私の人生の選択にとっての導きです」と言うのに似ています。あるいは「あなたは救われていますか?」に対して「はい」、「あなたはイエス・キリストをあなたの主であり、救い主であると信じていますか?」に対して「はい」と答えるのに似ています。「よい反応だ。君はなかなかよろしい」。確かにそれが、すべきこととして律法が教えていることのすべてです。「でも、私の隣人とは誰ですか?」というような問いがあるとすれば、それはまた別の事柄なのです。

V

 さて、ストーリーはエルサレムとエリコの間の街道で起こりました。この街道は、昔も今も、危険な場所として知られています。エルサレムとエリコの間の街道は、狭くて岩だらけの17マイルの道のりです。曲がりくねっていて、盗賊が旅行者を襲うのに好都合な条件が整っています。この事情は、イエスのストーリーの元来の聞き手たちにとって、共通の知識であったかもしれません。こうして盗人たちが旅人を襲い、衣服を剥いで殴りつけ、半死の状態で放置しました。

 道端に横たわる人――この犠牲者について、私たちは何を知っているでしょうか。彼は人間です。この人がユダヤ人であるか異邦人であるか、お金持ちであるか貧乏であるか、保守的であるかリベラルであるか、良い人であるか悪い人であるかは分かりません。

 この人は裸に引き剥かれ、まったく傷つき易く、殴りつけられて、道端に横たわっている。この犠牲者について私たちが知っている唯一のことは、「この人は人間である」ということです。

VI

 側を通りがかった人々は、どうしたのでしょうか?

最初の通行者である祭司
――神の奉仕者、律法に通じた人。祭司が道端に横たわる人を見たとき、彼は道の反対側を歩いて行きました。関わり合いになるのを嫌ったのです。神殿での勤めがあったからです。もし死体に触ったら、自分が汚れてしまい、神殿での役目を果たせないことを知っていました。祭司は、倫理と神学の体系についてのルールブックに縛られていました。簡単に言えば、彼の生活は「せよ」と「するな」の体系でした。彼は立ち止まって助けることをしませんでした。自分の仕事を救いたかったからです。倒れている旅人のことを憐れとは思ったかもしれません。でも、仕事上のセキュリティーが妨げとなり、彼は正しい行いをできませんでした。

VII

第二の通行人であるレビ人
――神学者、神学博士、神の言葉の研究者、神の性格を知っていると思っている人です。レビ人が道端に横たわっている人を見たとき、彼は道の反対側を通って行きました。つまり、彼と関わり合うことを避けたのです。毎週の討論会に参加する予定でしたが、すでに遅刻しそうだったのです。レビ人には、祭司ほどには厳しい規則はありませんでした。傷ついた旅人を助けても、律法の点で問題が生じることはありません。それでも、彼がその人に近づかなかったことを私たちは見ます。ルカは、そのレビ人がその場所に来たと言います。

VIII

第三の通行者であるサマリア人
――サマリア人とは「いかがわしい奴」「役立たず」と言うのと同じであり、排除された集団でした。彼らについてよく言う人はいませんでした。じっさい彼らは会堂で日々呪われ、サマリア人が永遠の命に預かることのないよう願う祈祷が捧げられました。この混血の、憎まれたサマリア人がやってきて、そこに横たわる哀れな男を見ました。この人にまだ息のあることを見出したとき、サマリア人は手持ちの葡萄酒を取り出して、傷口に注ぎかけました。傷口を布で覆い、担ぎ上げてロバに乗せ、宿屋まで運び、一晩そばにいました。そして翌朝、ポケットからお金を取り出し、宿屋の主人に「もっとかかれば、帰り道に差額をお支払いします」と言って手渡しました。

 さて、これら三人のうち誰が、欠乏の中にあった旅人の真の隣人になったでしょうか?――祭司、レビ人、そしてサマリア人。

IX

サマリア人についての観察(1):彼の行為は人としての義務をはるかに超えていた。

 現代の私たちが、殴りつけられて路上に横たわる人を見れば、まず119番に通報し、救助が来るまでの間にできることをしようとするでしょう。エルサレムからエリコへの山中を下る、曲がりくねった街道に救急医療技師(EMT)はいません。この人の命が救われるためには、サマリア人がすべての責任を自ら負うほかありません。つまり関わり合いになるか、あるいはこの男性が死ぬか。その他の選択肢はどうやらなさそうです。私たちであれば、多くの者が躊躇していたことでしょう。最終的に、私たちはしなければならないことをし、行かなければならないところに行き、会わなければならない人に会います。今の時代にあって、忙しくない人など見たことがありません。生活の重荷は、私たち皆の上に重くのしかかっています。それでも私たちは世界を救うことはできません。とにかくできないのです。どんなにたくさんの世話をしようと、どんなに懸命に働こうと、どんなに必死に祈ろうと、すべての人々を救うことはできません。それは、ただ不可能なのです。それでも、神があなたの眼前に置いた人を助けない理由は、どこにもありません。では、祭司とレビ人が道の反対側を通り過ぎた後で、サマリア人がこの人と関わり合いになった理由は何だったのでしょうか?

 それは、仕事や準備にまつわることではありません。彼はアウトカーストの出身であり、そのために、より容易に人間的な必要に反応できたと論じることができるかもしれません。それはありうることだと思います。

X

サマリア人についての観察(2):彼の同情が行動を促した。

 ある特定の瞬間に、この特定のサマリア人は、強盗に遭い、殴りつけられ、半死で放置されたこの特定の男性を見ました。そして関わり合いになることを決断したのです。もし10人の男たちが路上に横たわっていたら、あるいは100人が剥ぎとられ、殴りつけられ、路上に放置されているのを見たとしたらどうであったか、と問う必要はありません。彼がじっさいに見たその人のために十分なことを彼はしたのです。それだけが重要です。

XI

サマリア人についての観察(3):サマリア人は何に巻き込まれることになるかを知りえなかった。

 私たちであれば、サマリア人のように行動する者はわずかしかいないであろうことは、すでに述べました。しかしポイントは次のこと、すなわち路上の男性を見たとき、彼は明らかに「この人の宿代を支払ってやろう」などと、心の中で計算していません。そう思ったのは、宿屋に移動する途中のどこかであったことでしょう。じっさい問題として、彼は何が求められているかを知りえませんでした。なすべき決断はただ、「この人と関わり合いになるべきか、それとも道の反対側を通り過ぎるべきか」でした。

 同情は、ときに私たちに多くのことを要求します。事前にあまりに計算すべきでないのは、そのためです。私たちが提供する助けはときに小さく、簡単なことです。そうでない場合、必要なことは長期間に亘り、担うのが大変であることが判明するでしょう。

XII

サマリア人についての観察(4):サマリア人はずっと傍にいて、怪我人が回復するまで介護したわけではない。

 サマリア人は、傷ついた旅人を宿屋の主人にゆだね、自分の道を進みました。多くの場合、私たちはすべてのことを自力でやってしまえるわけではありません。全部のことをできる人などいません。誰も、すべてのことをするよう求められていません。でも私たちは、なにがしかのことをすることができます。

 ストーリーでイエスは、「行って、同様にしなさい」と言います。現代にあって、本当の問いは「私の隣人は誰ですか?」ではなく、「今日、私が出会う人々のうち、どの人の隣人に私はなりたいか」であると思います。言い換えれば、このストーリーは私やあなたに向けられたものであり、欠乏の中にある人々に向けられたものではありません。助けるチャンスがあったのに助けなかった人々についてのストーリーなのです。

 周りを見回してください。あなたの隣人たちはすぐそばにいます。あなたの通りで彼らは暮らしています。その人たちといっしょにあなたは学校に行き、同じ店で買い物をし、同じレストランで食事し、同じ通りを車で通ります。毎日同じ電車に乗り、隣人たちといっしょに仕事をします。教会に来れば、その人たちと会うことでしょう。

 もしイエスが、この聖書箇所から黄金律(神と隣人を愛せ)を家に持ち帰るよう私たちに望んでいたなら、この譬えのタイトルは「よい人」であったことでしょう。しかし、そうでなく、タイトルは「よいサマリア人」です。これは譬えであり、譬えには常にショッキングで、驚きを含む、予期せぬ要素が、つまり謎を引き起こし、それと取り組むことを求めるような要素があります。それがこのストーリーでは、よりによって期待されていない、拒絶されているサマリア人が、彼の敵に同情を示すという要素です。

XIII

 ここ何年も移民や難民のために働く中で、私はさまざまなチャレンジングな状況に直面しました。その中で私は、よい信仰の人になるべく教えられます。忘れることのできないケースがあります。それはオリヴァーについてであり、彼にはよいサマリア人になるべき理由はほとんどありませんでした。オリヴァーは難しい家庭で育ちました。お父さんはアルコール依存症でした。彼は「父が教えてくれたことのすべては、自分は彼のような人間にはなりたくないということだった」と言ったことがあります。しかしオリヴァーが日本に来たとき、彼の人生と心を変える何かが起こりました。彼は外科手術を受けなければならず、そばには親族も友人もおらず、彼はとても怖がっていました。そのとき「心配しなくていいよ」「何が起こってもそばにいるから」という、多くの祈りと同情ある思いが彼を励ましたことを、オリヴァーは覚えています。そしてオリヴァーが退院したとき、私たちはその言葉を守り、彼と共にいました。それは長いストーリーなのですが、短く言えば彼は力をとりもどし、仕事に復帰することができました。

 数年後の2011年の3月、建設労働者のオリヴァーは建設現場の多重事故に遭遇しました。一人の男性が瓦礫の中に墜ち、その人を助け出そうとしたとき、オリヴァーはその人に「心配しなくていいよ」「ぼくはここにいる。どこにも行かない」と語りかけたのです。そのときオリヴァーは、どれほど難キ連が彼の世話をしたかを、同じことを彼に言い、決して見放さなかったのを思い出していたと後に聞きました。

 その数日後、難キ連への路上で、オリヴァーは彼が出会った患者たちが助けを必要としている、と私に訴えてきました。「何の助けもないまま、あんな状態のまま彼らを放置することはできない」と彼は言いました。

XIV

 世界的な難民危機は、キリスト者に対する深刻な呼びかけです。私たちは、私たちの信仰が教えるところに従って、これに反応すべく求められています。人々は死の前から逃げ出しています。私たちはそのことを、イエスがしたのと同じように物事を見るよう求められています。すべてのことができる人はおらず、誰もすべてのことをするよう要求されていません。しかし私たち皆が何かを、いっしょにすることはできます。

 私たちの生活の中には、あなただけが提供できる助けを必要とする人々がいます。その中には励ましの言葉を必要としている人がいて、その言葉を与えることができるのはあなただけです。ある人々は重荷を背負ってよろめいており、その人々の肩から重荷を持ち上げることができるのは、あなただけです。ある人々は諦めかけていて、その人々が走り続けるよう励ますことができるのは、あなただけです。ある人々は信じられないような試練に打ちのめされていて、その人々が歩み続けるよう導くことができるのは、あなただけです。

XV

チャレンジ

 あなたは、どうやって世界を変えますか? プログラムによらず、遠くでなされた説教を通してでもなく。あなたはある時に一つの心を変え、ある時に一つの人生を変えるのです。個人的でない同情は、同情でありません。同情の人になり、人を傷つける世界へと出てゆき、それに触れるよう助けて下さるのは神です。  同情は、それについて話題にすべき何かではありません。同情は、あなたがなす何事かです。あなたの隣人関係が変わることをあなたが望むなら、関わり合いにならねばなりません。あなたの隣人関係は変わるかもしれない。でも、そのためには困難な道、時間のかかる道、沈黙の道、先の見えない困難な道を通らなければなりません。しかし神の救済計画にあって、それがうまくゆく唯一の道です。

 わが子よ、と主は言われます。君は君の心のすべてをもって私を愛さねばならない。そして君は君の隣人を愛さねばならない。そして隣人と言うとき、それは君が信頼していない人々、好きではなく、そばにいて欲しくない人々のことだ。また隣人と言うとき、そのような人々が君にとっても隣人であることを、君がそうさせることを意味する。君がその人々に仕えるのと同様に、その人々にも君に仕えさせなさい。私に、君を愛させなさい。憐みをもって君に仕えること、君が落ち込んだ穴から君を救い出すこと、君に癒しを与えることを、わたしにさせなさい。そして子よ、君も行って同様にしなさい。

祈りましょう。

 主イエスよ、あなたの言葉は私たちの足の灯、私たちの道の光です。あなたの光の中で生き、あなたの真理の中を歩むことができることを感謝します。あなたが啓示した言葉、また私たちがよきサマリア人の譬えから学ぶことができた考えが私たちの心の中に宿り、私たちの行動を促しますように。必要とする人々に対するあなたの手足として、抑圧された人々へのあなたの肯定のメッセージ、また孤独な人々を慰めるあなたの腕として、私たちを用いて下さい。あなたの王国をこの世界にもたらすための道具として、私たちを選んで下さり、ありがとうございます。私たちの主にして救い主であるイエス・キリストの尊い御名によって、私たちは祈ります。アーメン。


 
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