2019.06.30

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「神の国の宴」

廣石 望

イザヤ書25,6-10ルカによる福音書14,15-24

I

 食事の席に「共に横たわっていた」人々のある者が、イエスの発言を聞いて、「神の王国でパンを食する者は誰しも幸いなるかな」と言ったのを受けて(ルカ14,15)、イエスは晩餐の譬えを語ったとあります。

 古代の食事には空腹を満たすためのものと、社交のためのもののがありました。譬えが「大きな晩餐」(16節)というとき、後者が考えられています。

 古代の晩餐は、公的な社会関係の表現でした。誰がどのような機会に誰を招き、どのような席順に座わるかが重要でした。通常は食堂に、三人一組で半身になって横たわる食事用の臥台を合計三つ、馬蹄型に並べました。ひとつの臥台は招待者たちのため、もうひとつはメインの招待客たちのため、そしてもうひとつが格下の招待客たちのためでした。格下の招待客はたいてい、招待者である主人をパトロンにもつ庇護民たちです。メインゲストとサブゲストでは食事の質も量も、まるで違っていました。晩餐は、社会的な格差を見せつけるための機会でもあったのです。それでも庇護民たちは、主人の晩餐に与ることを切望したそうです。

 現代にも、食事式は社交として用いられます。先ごろ開催されたG20大阪サミットの終了後、メンバー各国の首脳と招待国・招待機関の代表が、大阪城公園内の迎賓館の夕食会に招待されたそうです。食事する側と給仕する側ははっきり分かれているでしょうが、おそらく――古代社会とは異なり――ゲストの全員が同じ食事を食べたでしょう。それでも、誰を誰の隣りに座らせるかなどの席順については、それぞれが代表する国や機関の影響力や立場を考慮して、慎重に選ばれたに違いありません。

 私たちは晩餐を主催するとき、どのような人を招きたいでしょうか? またどのような人からの招きであれば、喜んで参加したいでしょうか? またそのとき、どのような序列の席に座ることを期待するでしょうか?――その答えが、私がどのような社会関係を営んでいるかを示すことになるでしょう。

II

 古代イスラエルにおいて、神が義人たちを招く宴として、究極的な救いがイメージされたことは、先ほど朗読したイザヤ書から知られます。この箇所はイザヤ小黙示録(24-27章)と言われる部分に属し、捕囚期後の成立であると言われてます。別の翻訳をご紹介します。

万軍のヤハウェはこの山(=エルサレム〔廣石による補足〕)の上で諸国民すべてのために、
脂身のご馳走、極上葡萄酒のご馳走、
脂の乗った脂身、よく漉された極上葡萄酒を整えられる。
またこの山で、諸国民すべてを覆っている顔覆いと、
諸国すべてに被されている被いを取り除き、
永久に死を取り除かれる。
主なるヤハウェは総ての顔から涙を拭い、
また己が民の汚名を全地の上から除かれる。
イザヤ書25,6-8〔関根清三訳〕)

 エルサレムのヤハウェ聖所が、イスラエル民族のみならず異教徒にとっても、救済をもたらす場所になります。そのことを表現する上で、多くの人々を招く「宴」というイメージはぴったりです。そのとき諸国民の「顏覆い」「被い」が、また「死」がとり除かれます。「顔覆い」「被い」が律法ないしヤハウェ神に対する無知のことであるなら、異教徒はヤハウェ崇拝者になることで、神との断絶がもたらす「死」もまた克服されます。他方で、「己が民」つまりイスラエル民族の「汚名」とは、異民族による被支配の歴史のことでしょうか。すると、異邦人に対しても開かれたこの宴の本来の主役は、やはり神の民イスラエルです。イスラエル・ファーストが基本です。

 さらに、もともと「神の王国」という象徴は、イスラエル民族の神が「王」として全世界に及ぶ支配権を確立し、ついに神の民イスラエルに真の世界支配を委ねるときが来るという希望と結合していました。そのとき、ユダヤ民族に圧力をかけてきた異教徒による支配は、神話論的にサタンによる支配と表現され、異教崇拝もろともに粉砕されることが期待されました。紀元1世紀のユダヤ教文書『モーセの召天』には、次のようにあります。

その時、彼(神)の国がそのすべての被造物のうちに現われるであろう。
その時、悪霊は終局を迎えるであろう。
そして、悲しみは悪霊とともに取り〔去ら〕れるであろう。
その時、み使いの手が充されるであろう。
彼は最高(の地位)に立てられた者、
彼ら(民)を直ちにその敵どもから解放する者である。
天的なかたが、そのみ国の玉座から〔立ち上が〕り、
その子らのための憤りと怒りをもって、
その聖なる住居から出てくるであろう。
……永遠にして唯一のいと高き神が立ち上がって、
異邦人に仇うちをするために公然と来臨し、
彼らの偶像をことごとく滅ぼすだろう……。
その時、イスラエルよ、……
あなたは鷲の頸と翼に乗り、
(鷲の翼は)みたされるであろう。
神はあなたを高く挙げ、
あなたを諸星の天に、
(諸星)の住居の場に留まらせるであろう。
(『モーセの昇天』10,1-3.7-9〔土岐健治/小林稔訳〕)

 イスラエルだけが救われ、異教徒は悪霊や偶像もろともに滅ぼされる――これを、古代の弱小民族による、覇権を求める民族主義の夢想と笑うことは容易です。しかし、もし私たちが、キリストを信じる者たちだけが天国に行き、信じない者たちは神によって滅ぼされると期待するなら、この発言と構造的には同じことです。

III

 以上のような神話的なオーラを伴う期待に対して、イエスはどのような態度をとったでしょうか? 次のような発言が伝えられています。

東から西から人々が来て、アブラハムとイサクとヤコブと共に、神の王国(の宴)で横たわるであろう。しかし王国の息子たちは、外の闇に投げ出されるであろう。そこには嘆きと歯ぎしりとがあるであろう。
ルカ13,28-29並行の廣石による再構成)

 「東から西から」やって来て「神の王国」の宴に参加するのは、おそらく異教徒たちです。つまりイエスは、イザヤ小黙示録に見られる、異邦人に対してオープンな態度を継承しました。同時に、『モーセの召天』のような異邦人を排除するイスラエル中心主義は拒否しました。さらに、「外の闇」に投げ出される「王国の息子たち」が、もともと宴に招かれていたはずの正統派ユダヤ人であるなら、イエスには、そもそもイスラエル・ファーストという立場すらありません。

 もうひとつ、イエスに特徴的なのは宴が行われる場所です。イザヤ小黙示録に見られるエルサレム中心主義が(イザヤ書25,6「この山で」)、イエスにはありません。彼が「罪人」たちと交わりの食卓をともに祝ったのは、辺境に位置するガリラヤの村落でした。

 以上のような神話の変更に符合する筆致は、「晩餐」の譬えにも現れます。

 「大きな晩餐」を計画した主人は、どうやら当初は自らのプレスティージアップを狙って、招待客を選んだようです。それが証拠に、招待客たちの皆が断ったせいで「怒った」とあります(21節)。怒りの原因は、社会的な面目をつぶされたことにあります。

 その最初に招待された者たちの謝絶の理由は、「畑」や「牛」の購入、および「妻」の娶りという、家政の運営にまつわる日々のしがらみです(18-20節)。つまらない理由という他ありません。この人々を、イエスの発言にいう「外の闇」に投げ出される「王国の息子たち」に重ね合わせると、この人たちは自分で自分を救いから排除しているという印象が浮かんできます。

 他方で、代理客として招かれる人々は、まず「都市の大通りと路地」から、次に「街道や障壁」から招き入れられます(21.23節)。ここではギリシア・ローマ風の都市内部の街路および市外の街道にまつわる語彙が使われており、福音書記者ルカが自らに親しい都市環境に即してそう記しているのでしょう。本来招かれざる者たちが招かれる者たちになることで、「私の家がいっぱいになる」(23節)つまり晩餐は成功する見通しです。譬えの中の代理客たちは、先のイエスの発言の「西から東から」来る人々に類比的です。

IV

 以上のような神話的期待への変更に加えて、とりわけルカ福音書のイエスは、既存の社会規範にも変形を加えます。

 晩餐の譬えが含まれるルカ福音書14章1-24節の全体の場面設定は、安息日にイエスがファリサイ派の指導者(ないし都市公職者)の家に「パンを食べる」ために入った(14,1)というものです。

 この社交の場でイエスは、まず、安息日であるにもかかわらず、その場に居合わせた浮腫を患う人を癒し、「律法家やファリサイ派」に向かって、安息日に命を促進することの適切さを論証します(2-6節)。ユダヤ教的な安息日規範の緩和が、第一の社会規範への変更です。

 続いてイエスは、招待された客たちが「上座を選んでいた」(7節)ようすを観察した上で、二つの「譬え」を、つまり典型的な状況についての警句を語ります。第一は、結婚式に招かれたなら、上座に座るなというもの(8-10節)、第二は、午餐や晩餐に人を招くなら、友人・兄弟・親戚・金持ちを招くなというものです(12-14節)。むしろ、

君がもてなしをするなら、極貧者たちと不具者たちと盲者たちと麻痺者たちを招け。そのとき君は幸いなるかな。彼らは君に返礼できないから。義人たちの立ち上がりにおいて、すなわち君に返礼がなされるであろう。(13-14節

 これが既存の社会規範に対する第二の変更であり、この要求はユダヤ社会やギリシア・ローマ社会のみならず、日本社会にも向けられています。

 招待する者に向けられたイエスの警句で、招く対象として列挙された人々のリストは(上記引用の下線部)、これに続く「晩餐」の譬えで、主人が奴隷に代理客として名指す人々のリストと文言がぴたりと一致します。

急いで、都市の大通りと路地へと出て行け。そして極貧者たちと不具者たちと盲者たちと麻痺者たちを、ここに導き入れよ。(21節

 まるで、譬えの話者イエスの声と、譬えの登場自分である主人の声がひとつに重なり合っているかのようです。これはほぼ間違いなく、福音書記者ルカによる構成です。

 同じ現象は、譬えの最後の文言にも現れます。

なぜなら君たちに私は言う、かの招待された男たちのうち、私の晩餐を味わう者は誰一人いないであろう。(24節

 この発言の声の持ち主は誰でしょうか? 譬えの主人でしょうか、それともイエスでしょうか? 「かの招待された男たち」とは譬えの中の最初の招待客でしょうか、それとも「王国の息子たち」のことでしょうか? 「私の晩餐」とは主人のものでしょうか、それともイエスのものでしょうか?――譬えの世界がイエスの世界に滲み出ている、あるいはイエスの世界が譬えの世界に映り込んでいると感じます。

 こうした現象を福音書記者ルカの水準で捉えるなら、次のように言えるでしょう。すなわち主イエスは、招かれれば下座に座り、招くときは社会的弱者を招くという、社会規範を転倒させる食事式を行うことこそが、キリスト教共同体の社交としてふさわしいとした、と。イエスのいう「私の晩餐」とは、教会共同体が行う食事式への暗示です。

V

 神はどのようにふるまうのか、また私たちはどのようにふるまうのか?――イエスの物語またイエスについての物語は、その両方を変換します。

 救済はイスラエルが独占し、異教徒は滅びるという神話的期待は、イスラエルによる自己排除と、社会的弱者やならず者というイメージで表象された異邦人の招きへ、つまり「宴」への自由な参加に変換されます。これは、神の強権的な主権が自分たちだけに利益をもたらす、という宗教的な夢想を放棄することを意味します。

 ちなみに「無理にでも人々を連れてきて」(23節、新共同訳)という翻訳は、新大陸の奴隷たちの強制改宗を正当化するためにも利用されました。しかし原語は、奴隷が「自らを強いて」つまり「がんばって」というほどの意味であろうと思います。つまり招きは強制でなく、自由です。

 他方で、とりわけ福音書記者ルカは、同時に社会規範の変換を強調します。「神の国の宴」のメッセージは、私たち自身のふるまいによって反復されるべきだからです。人から招かれたらどうふるまうか、つまりどのような社会的評価を私は望むか、また人を招くときにどうするか、つまり誰とともに生きることを私は望むかを、キリストに従う者たちは、自らの社会的なふるまいを通して、周囲の世界に向かって発信することが期待されています。

 さて、私たちはどうしましょう? 聖書は、そう私たちに問いかけています。


 
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