I
とりあえず死ぬまでのことを、私たちは考えつつ暮らしています。先ごろ金融庁が、90歳まで生きるなら2千万円の預金がないと、公的年金だけでは足りないという報告書を政府に提出しようとして、おそらく不要な不安を煽るという理由で、麻生金融大臣から受け取りを拒否されました。この試算が本当なら、要するに早く死ねば、せめて私のことは何とかなるかしら、と思ってしまいます。
しかし今日のテクスト箇所は、まだ年金制度などなかった時代の生と、そして死後の運命について物語る譬えです。おそらく19-26節までが古いストーリーであり、27-29節と30-31節は後から付け加えられた拡大であると思われます。なので、主としてその古いストーリー部分の意味について、そして最後に短く、後の拡大と思われる部分も加えながら、ごいっしょに考えてみましょう。
II
登場人物は、父祖アブラハムを扇の要として、一方には富裕者そして他方には極貧者ラザロからなる三者によって構成されています。富裕者とラザロは直接交流せず、それぞれがアブラハムとだけ接します。二人ともアブラハムを父祖にもつユダヤ人ですが、社会的な境遇の点でたいへん対照的です。その対比が、導入部分で描かれます(19-21節)。
導入場面にアブラハムはまだ登場しませんが、イスラエル民族の父祖として、この対照的な二人の共通の先祖です。旧約聖書ではアブラハムは、モーセを介してシナイ山上で律法が与えられるより以前の世代の人物です。それゆえ彼は、まだ律法を知りません。それでも旧約聖書以降の時代のユダヤ教伝承によると、アブラハムはモーセ律法を完全に順守したと主張されます。例えば穀物の初穂の祭や仮庵の祭を行うなど、「書かれていない律法」を実行し、それをイサクやヤコブに伝えたました。アブラハムは律法への忠実さのモデルです。
他方でアブラハムは、すでに旧約聖書においてイシュマエルとケトラの子孫(創25,1-6)を含む複数の民族の父祖であり、イエス時代のユダヤ教証言によると、少なくともユダヤの周辺地域の異民族、さらにはアフリカとアラビアの諸民族までがアブラハムの子孫と見なされました。
さらにアブラハムは、農耕その他の文明のもたらし手であり、天空の星々の事情に通じ、知識の故郷エジプトに留学した哲学者であり、また高貴な生まれの、平和を愛し、人々に救いをもたらす理想的な支配者でもありました。およそ尊いと思われることは、すべてアブラハムに託して語られたと見えます。
III
ユダヤ民族の自己理解の点では、二つの対照的なアブラハムのイメージが並んで存在しました。
外典文書『アブラハムの黙示録』(紀元1世紀末?)は、イスラエル中心的で民族主義の色濃いアブラハム像を示します。神と契約を結んだアブラハムに、神は「来るべき世界の幻」を見せます。そこには、終局時に神が「選ばれし者」つまりメシアを派遣して神の民を救う一方で、罪人たちを滅ぼすようすが含まれます。
他方で、同様に外典である『アブラハムの遺訓』(紀元2世紀前半?)は、諸民族に対して開かれたアブラハム像を提示します。死を目前にしたアブラハムの希望に沿い、御使いミカエルは彼に世界を見せます。そのとき、罪なき義人アブラハムは、行く先々で罪人たちを断罪するのです。ミカエルは旅を中断し、アブラハムを裁きの場に連れてゆき、アベルが死者たちの行いを注意深く秤にかけているさまを見せます。こうしてアブラハムは、神の憐み深さを、つまり他者への寛容と世界市民的な姿勢を学びます。
イエスのアブラハム理解は、個別・民族主義的なアブラハム・イメージと普遍主義的なそれの、どちらの系列に属するでしょうか? 明確に後者です。すなわち、
アブラハムを筆頭とする父祖たちは「神の王国」の宴の招待者として、「東から西から」来る人々、つまり異邦人たちを迎え入れます。他方で、ユダヤ人による救済の独占を主張する「王国の息子たち」は外に「投げ出される」のです。
IV
私たちの物語の極貧者ラザロは、このアブラハムが主宰する宴に参加します。
ラザロが「アブラハムの懐の中に」いるとあるのは、古代の正式の晩餐会で、主要ホストのすぐ隣に主賓が横たわるための席があったからです(22.23節――新共同訳は「宴席にいるアブラハムのすぐそばに」と上手に意訳)。ラザロは、偉大なる父祖アブラハムの宴の主賓です。また富裕者は、ラザロが「指先を水に浸し」、その水滴で彼の舌を冷やすようと願い出ます(24節)。この指先を水に浸すという所作は、晩餐式で新しい皿が出るたびに、ナイフとフォーク代わりに使う指先をボールの水で洗うか、あるいはナプキン代わりのパンで指を拭うかしたからです。
このようなラザロの幸福なさまの描写には、富裕者に境遇の逆転を見せつけ、アブラハムとの対話へと促す役割があります。つまり物語の主人公は富裕者であり、ラザロは主人公の葛藤を引き出す脇役でありましょう。
V
続く危機の場面では、富裕者は死後の運命が逆転するのを目の当たりにします(22-23節)。
体ができものに覆われて皮膚から体液が染み出すために、おそらく祭儀的に不浄であり、また穢れた動物である犬たちに身体を舐められていたラザロの埋葬には言及がありません――このような人は神に呪われた者と分類される可能性があります。その彼は、しかし意外にも、御使いたちによってアブラハムが主宰する「神の王国」の宴へと運び上げられます。
他方で、生前は「紫(の上着)と亜麻布(の下着)に包まれ、日々華燭の宴を愉しんでいた」、つまりたいそう祝福された生を送ったはずの富裕者は、おそらく立派に「埋葬」されたものの、死後は普通に死者たちの国「ハデース」へと降り、今は責め苦の中にいます。
紀元1世紀中葉のエジプト民話に、有名なよく似た話があります。セトメ・カモイスは、裕福な人の壮麗な葬儀を目にした一方で、極貧者の遺体が死に装束も着せられずに墓場に運ばれるのを見ます。息子から、貧者のようになってほしいと言われて、訝しく思ったセトメが冥界に降ってみると、なんとその貧者は白い亜麻布の服を着て、オシリスのすぐそばに座し、オシリスは富裕者の埋葬品を貧者に与えるよう命じたのです。その理由は、貧者の善行が罪よりも多数であり、その報いを地上で受けていなかったことにあります。他方で富裕者はより多くの悪行をなしたがゆえに、死者の国の入り口で、右目に釘を打ち込まれるという罰を受けます。
つまり、運命の意外な逆転というモティーフはイエスの譬えと共通します。異なるのはイエスが、この逆転を例えば生前の善行と悪行の数量比較などによって、倫理的に根拠づけないことです。富裕者は極貧者ラザロの窮状を無視したという印象はありますが、両者の倫理的行為についてはとくに言及がありません。
VI
最後の解決場面で、富裕者はアブラハムと対話を交わします(24-26節)。
富裕者はアブラハムに頼んで、自分がいるハデースにラザロを派遣してもらい、炎の責め苦を少しでも軽減しようと試みますが、アブラハムは一度別れた運命の間では――「遠くから」見えたり、話したりはできるものの――人の移動はもはや不可能であると答えます。
ユダヤ教外典『エチオピア語エノク書』22章では、西方の岩山の中に四つの窪地があり、そこに死者たちの魂が最後の審判までとどまります。四つの窪みは、それぞれ別タイプの人たちのためであり、ここでも越境は不可能です。すなわち各々の窪みは、(1)義人たちのための窪みには泉があり、上方には光が輝く。以下は、すべて生前に裁きを受けなかった罪人たちのものであり、(2)呪いを発する罪人のための窪み、(3)罪人の時代に殺害され、それを告発する罪人たちのための窪み、そして(4)極悪人であり、裁きの日にもその魂が殺されることなく、処罰を受け続ける者たちのための窪みです。 こうした冥界イメージの背後には、いわゆる分配の正義つまりプラス・マイナスをゼロにする正義を求める気持ちがあるでしょう。
ただし、エノク書で四つの窪地が等しく冥界にある一方で、私たちの物語では垂直軸の上方にアブラハムの宴が、そして下方にハデースがイメージされています(富裕者が23節で「ハデースで彼の両目をあげて」とあるのを参照)。
さて、死後の運命の再逆転が不可能であることは、ユダヤ教に類似の発言が現れます。
他方でユダヤ教には、アブラハムにはその子孫をゲヘナから救出できるという理解もありました。
違反は律法違反によって、つまりはモーセ律法に基づいてカウントされます。そして、神の民イスラエルはくりかえしモーセ律法に叛きました。それでも、悔い改めれば救われると彼らが信じ続けることができたのは、ひとえにアブラハム契約があるからです。そのアブラハムが救済できない、とイエスの譬えは告げています。
つまりイエスは、一方では倫理的行為にもとづく善悪の応報論理にも合致せず、他方で民族に与えられた最終的な救済根拠であるアブラハム契約の有効性にも符合しないストーリーを語ります。このような演出から透けて見えるのは、以下の二つのことです。すなわち第一に、伝統的な基準であるモーセ律法に即せば「穢れている」と見なされるはずの社会的な無資格者に対して、神は圧倒的な無条件の救済意志を示します。そして第二に、この神は、イスラエルの既得の民族特権にもはや拘りません。
VII
最後にごく短く、以上のようなイエスの譬えに後になってから付加されたと思われる27-29節と30-31節を見てみましょう。
まず27-29節では、自宅の兄弟たちに警告するためにラザロを派遣してくれるよう願う富裕者に対して、アブラハムは「彼らはモーセと預言者たちをもっている。彼らに聞くが良かろう」と返答します。兄弟たちもまた「このような責め苦の場所に来ることのないよう」という動機づけは、明らかに因果応報の論理にもとづく倫理です。モーセ律法の倫理的使用を肯定する、ユダヤ人キリスト教による付加であると思われます。
次に、30-31節で「死者たちの中から誰かが立ち上がる」と言われるのは、イエスの復活への暗示でしょう(ルカ福音書24章を参照)。復活したイエスは、弟子たちに「モーセとすべての預言者から初めて聖書全体にわたり」、それが自分の受難と復活を預言するものであると説明しました(ルカ24,27)。それにもかかわらず、「説得されない」ユダヤ人がいることは、同じルカが書いた使徒言行録に何度も報告されます。この部分を付加したのは、おそらく福音書記者ルカです。
さて、全体を見渡すと、この譬えの父祖アブラハムの姿は、神の創造性と慈しみの象徴です。そして貧困は無条件の救済対象であり、救いは喜びと慰めに満ちた「宴」のイメージで表現されます。他方でハデースは、とりたてて神による処罰の場所とは描かれていません。こうして私たちには、イエスを自らの命の中に引き入れた神への信頼に基づいて、倫理律法をも重んじつつ、富裕者の姿を反面教師としつつ弱者を具体的に支援する姿勢が求められていると思います。