2019.06.09

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「聖霊が降り注ぐ教会」

村上 典子

使徒言行録2,1-13

 イエスさまは、十字架につけられ苦しみを受け、三日目に復活された後、見える人となって、弟子たちのところに戻ってきてくれました。それから、弟子たちと、とともにいてくださったのですが、40日がたつと、天に昇っていかれました。
イエスさまは天に昇って行かれる時、「私が一人の人間として、どんな風に人と出会い、どんな風に人を愛し、この世界を生きたか、お前たちは良く知っている。私は、一人の人間の中には二度と戻らない。これからは、時空を超えて、たくさんの人々、ひとりひとりの中に住もう。そして私の名のもとに集まった、人々の集まりの中に住もう。」と言われました。

 空気と火と水と大地は、そんなイエス様のお役にたちたいと心から思いました。
「イエスさま、私たちにできる仕事をください。」
イエスさまは、空気を自分の中に吸い込むと、ふぅーとはきました。
空気は風となり、聖霊となって、すべての国を吹きわたり、人々を集めに行きました。

 惟先生が、聖霊という言葉は、空気や風、息と同じ言葉だよと教えてくれたこと、覚えていますか? 聖書の初めに、創世の7日のことが書かれていますが、その第6の日、神さまは、神の姿に似せて、土で人をお創りになりました。神様が、土の人の鼻から、ふぅーっと息を吹き込まれると、私たち人間は、生きるものとなりました。聖霊は、その息吹と同じです。空気は、窓をしめてもドアをしめても、どこからともなく入ってきて、私たちの周りを満たします。空気は世界中のどこにでもあり、私たちが息を吸えば、体の隅々にまでいきわたり、私たちを生かしてくれます。

 さて、風は人を集めに行っただけでなく、弟子たちが集まって祈っている家の周りにも吹きました。それは、五旬祭の時のことです。弟子たちは、集まって祈ってはいたものの、イエス様の姿が見えなくなって、とても淋しい思いをしていました。イエスさまは、天に帰って行かれたのだから、しかたのないことだけれど、もう、触ることもできないし、一緒にご飯を食べることも、歌うことも、叱ってもらうこともできないのです。まるで、家の明かりが消えてしまったようでした。これからどうしようと、途方にくれました。イエスさまを置き去りにして逃げ出した、という事実も、弟子たちの心を重くしていました。自分たちがどんなに弱虫か、知っていたのです。その暗く重たい家の周り吹き抜けるわけですから、聖霊は、それはそれは、強く吹かけなければなりませんでした。

 弟子たちは、突然、嵐のような激しい風がふいてくる音を聞きました。そして、その音を聞くとはっとしました。イエスさまが、いつもそばにいると約束してくれたことを思い出したのです。
そうだ、イエスさまは、「私はいつも、あなた方と一緒にいる。」と言っていたじゃないか。イエスさまが、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなた方は力をうける。」と予言されたことも思い出しました。これはね、使徒言行録1章の8節にある言葉です。
イエスさまへの思いは、弟子たちの心の中の小さな火種を燃え上がらせました。小さな火種はね、みんなの心の中にもあるんだよ。その小さな火種が消えかかったとしても、聖霊が、ふっ、ふっ、ふつ、と息を吹きかけたなら、燃えだすの。心が熱くなるって、そういうことってあるでしょ。

 イエス様のことを思えば思うほど、弟子たちの心の中の火は燃え上がり、その火は目で見えるようにさえなりました。しまいに、ひとりひとりの弟子たちの頭の上に、炎の舌となって燃え上がりました。弟子たちは、迫害をおそれず、もう一度イエスさまのことを自分の言葉で語ろうと決めました。

 家の外に出ると、すでにそこには、風がいろいろな国から人々を呼び集めていました。本当に、いろいろな国からきた人々だったので、言葉は通じず、混乱していました。弟子たちが来たので、さて、何を語るのか聞こうと、耳を澄ませました。風も、静かになりました。燃えあがる炎の舌で、弟子たちは語りました。炎の舌が弟子たちに語らせた言葉は、なんと不思議なことに、そこにいる誰もが理解できたのです。自分の故郷の言葉で聞いたように、深くイエスさまのことがわかったんだって。
「いったいこれはどういうことなのか。」
炎の舌で語る言葉は、日本語とか、英語とか、それぞれのお国で使う言葉を超えるのだと思います。

 弟子のひとりのペテロが言いました。
「さぁ、水に入って洗礼を受けましょう。」
それを聞くと水は待ってました!とばかりに、喜びました。3千人がヨルダン川へと谷を下り、水で洗礼を受けました。

 大地が言いました。
「さぁ、私から岩を取り出し、教会を作ってください。あなた方がいつでも集まれるように。そしてその集まりの中に、いつもイエス様が戻ってこられるように。」
そこで、聖霊によって集められた人たちは、大地から岩を取り出し、教会を建てました。
これが、教会のはじまりです。
この日を記念して、ペンテコステと呼び、世界中の教会でお祝いの礼拝を捧げます。

 さて、ここ代々木上原教会にも、「生まれた時」があります。私は、この教会の生まれた時の話を聞くことが大好きです。みんなも、生まれた時の話を聞くのが好きでしょう。生まれるって本当に嬉しいことです。もう一度聞きたいなぁと思ったので、昨日雅子さんに電話をしました。雅子さんとは、私のお母さんで、この教会のはじまりを知っています。教会学校の先生だったので、雅子さんのことを覚えている子どもたちもいると思います。

 昔、この地に2つの教会がありました。ひとつは、「みくに伝道所」といって牧師先生はいるけれど、礼拝堂という建物をもたない集まりでした。もう一つの教会は、「上原教会」といって、建物はあるけれど、牧師先生のいない集まりでした。とても個性的な二つの集まるだったので、同じ日本語をしゃべっていたとしても、とても通じ合えるとは思えませんでした。でもね、ある時、そのふたつの教会が、「一緒にここに教会を建てよう。」ということになったの。「人智を超えて、神様のなさることは本当に不思議なの。」と雅子さんは言いました。私は、きっとその時風が吹いたんだ、と思いました。そして、出会った人たちは、自分たちのしゃべる言葉を超えて、お互いの心の中に、または頭の上に、形になった炎の舌を見たんだと思います。あ、あなたの心も燃えていますね。ええ、そちらも。1997年夏のことです。私が、「はじまりの頃のことで、一番心に火がともったことを教えて?」と聞いたらね、「峯さんがね、教会学校を始めましょうよ。できるわよ。」と言ったことだって。そして、はじまったばかりの、教会学校の楽しい話をたくさん、たくさんしてくれました。

 聖霊は、私たちがここにこうして集まる、今ここに降りそそいでいます。

お祈りします。

大好きな神さま

私たちがふたり三人と集まる中に、イエス様が下りてきてくださいますように。
そして、教会に集う時、聖霊がいつも降り注いでいることを
忘れずにいられますように。
私たちは、弱虫なのです。
だからどうか、いつもそばにいてください。
弱虫の私の心の火種が、形となって大きな炎となりますように。
暖かい、伝わる言葉を語れるひととしてください。
今日ここに来ることができなかったお友達の上にも、
神様が直接語りかけてくださいますように。
この小さなお祈りを
イエスキリストの名によって神様に捧げます。

アーメン


 
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