2019.06.02

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「幸福への招き」−山上の垂訓講解説教 第1回

陶山 義雄

申命記33,1-4、29マタイによる福音書5,1-12

 今日の礼拝は「昇天後主日」と教会暦では呼ばれています。イエス・キリストが復活されたあと、天に昇られたことを記念して設けられたのが昇天祭で、今年は先週の木曜日、5月30日が昇天日となっておりました。これはルカ福音書記者の記述から来ています。使徒言行録1章3節では:

「イエスは苦難を受けた後、ご自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、40日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。」

 その話の情景をルカは自分が編纂したルカ福音書24章でまとめておりますが、先ほど賛美した讃美歌57番の4節で歌われている「エマオの出来事」もこの24章に記されています。弟子たちに現れた最後、24章51節でルカはこう締めくくっております:

「イエスは、そこから彼ら(弟子たち)をベタニアのあたりまで連れて行き、手を挙げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に挙げられた。」

 教会はイエス・キリストが復活に続く昇天をもって、もはやこの世では見えるお姿で私達と共におられないこと、信仰によって私達の信ずる神の国に昇られ、私達と何時も共におられることを、ルカは40日と云う数をもって一線を引いているものと思われます。昇天祭で歌われる讃美歌の一節がそのことを良く伝えています。(21−338番2節):

「この世においては人の姿で み国のもとでは仲保者として
主イエスは変わらず 今も執成す」

 実は、この歌を私は今年の年賀状で引用させて頂き、こう書かせて頂きました。新年の挨拶の後、J(ヤロスラフ).ワイダが作ったこの詩に心を合わせながら、与えられる生も死も御手に委ねて、人生の総仕上げに向かい、この年も歩んで行きたいと願っています。追伸として、「上記の写真右は2017年11月に召された、代々木上原教会の村上伸牧師です。」と註を入れました。その写真は2010年に引退された村上先生がこの講壇から語られた最後の日の出来事で、森友紀さんが撮影して下さったもので、礼拝後、私が先生にお礼の挨拶をしている情景の写真でした。私は82歳を迎えて、既に多くの友人、知人を御国へお送りして来ましたが、自分の番も程遠くないことを自覚して、ワイダのこの歌に共感を覚えていますので、年賀状にまで載せた次第です。今日、この讃美歌をご一緒に歌うことも選択肢にはあったのですが、主の昇天と信徒の天に召されることとを重ね合わせている更に良く合った讃美歌337番を選ばせていただきました(昇天祭用の讃美歌は336番から338番までの3曲です):

  1. たたえよ、この日、子羊イエスは、 御業を終えて 天に昇られた。
  2. 御国の扉 今こそ開け 死にうち勝たれ 主は帰られた。
  3. 十字架のイエスは 天に昇られて 御国の民の初穂となった。
  4. 高きにいます 主なるキリスト 地にある民を なお愛された。
  5. やがてわれらも 御国に昇り、神の右の座 仰いで歌おう ハレルヤ。

 この4節の所に(高きにいます主なるキリスト 地にある民を、なお愛された、その所に)今、私達は置かれています。程なく、5節に入る訳ですが、その先駆けであり、初穂となって下さっているのがイエス・キリストです。そして、今日はそのキリストの昇天を覚え、讃美し、その恵みにあずかる礼拝に私達は招かれているのです。

 なお、地上の勤めを託されている私達ですが、私が担当する講壇説教では、暫くマタイ福音書記者が、イエス・キリストの、教えの中の教えとして纏め上げた「山上の説教」に学びたいと思っています。そして今日はその序文とも云える有名な祝福の歌に注目したいと思います。英語では本日の箇所を The Beatitudes と呼んでいます。訳せば最高の幸福、至上の幸い、別の英語で云えば Bliss にあたります。ラテン語のBeataは幸福を意味しておりますが、それはただ、置かれている状態を指して幸福と云うのではなく、「幸福にする」と云う動的な変化のなかから生まれた言葉であります。そのことは、正にこの山上の説教の序文で歌われている「幸福」の内容から生み出されています。

 また、カトリック教会では死者に対して「天の祝福を受けた者の列に加わること 」、列福の儀、列福式をも指しています。正に昇天祭で私達が主の凱旋を仰いだように、私達も死によって与かる恵み、至福、最高の幸せをこの儀礼は表しています。私達にとって、死は、死に行く者にとっても、また、看取り、見送る者にとっても大変悲しいことですが、天上界から見れば、至福の時、神の祝福に与かる時である、と云うことです。これは信仰によって与かることのできる恵みです。

 モーセは自分の死に際しても、預言者として神の側にたって、去り行く身でありながら、別れを悲しむ同族の民に向かって、神に代わって彼らを祝福している情景を、私達は先ほど、申命記の記述を通して学びました。祝福とは、まだ、未完成な状態の中で、人が完結に至る狭間に置かれながらも、完成へと招き入れられる呼び掛けの祈りであります。丁度、礼拝の終わりで牧師が捧げる祝祷と同じように、礼拝で頂いた恵みを携えて今から後、完成へと向かい、祝福に与かるための働きへと散らされて行く祈りを意味しているのです。先ほどお読みした申命記33章の最後の節、即ち29節ではモーセによる祝福の言葉の結びが収められています。:

「イスラエルよ、あなたは如何に幸いなことか。」

 これはギリシャ語に訳された所謂70人訳聖書では「幸い、汝、イスラエルよ」となっています。この言い回しは山上の説教でイエスが語られた祝福の言葉と大変良く似ています。と云うよりも、そもそも祝福では動詞がなく呼び掛けの文章になっているのです。直訳すれば:

 このように「山上の説教」の冒頭では、幸福への招きが7つ列挙されています。7つに膨らませたのはマタイ福音書であり、イエスが語られたのは3つであったと思われます。それはルカ福音書6章20節から22節にかけて残されています。「山上の説教」に対してルカの方は「平地の説教」と呼ばれています。 そこでは12弟子を選ばれたあと、「イエスは(弟子たちと一緒に)山から降りて、平らな所にお立ちになった」(6,17)と云う情景の説明に続いて、「さて、イエスは目を上げて弟子たちを見て云われた」(6,20)と説教を始めるに際して、このような前置きがあるからです。平地の説教でも冒頭に幸福への招きが語られています。:

 この後、ルカもマタイと同じように迫害にあう時、あなた達への幸いが語られています:

「人々があなた達を憎む時、差別し、嘲り、人の子のためにあなた達の名を悪しき者として投げ捨てる時、あなた達は幸いである。その日には喜び踊れ、あなた達の報酬は天にあって多くある。彼らの先祖たちも預言者たちにしていたのである。」(6,22-23

 ここでは、迫害されるあなた達は幸いで「ある」と云うbe動詞が付けられています。明らかにマタイでもルカでもイエスご自身が語った祝福の言葉としては「幸い」とだけ記されていたのに、後の世に、迫害に晒されていた教会が付け加えた祝福には、幸いで「ある」となっています。

 イエスの呼び掛けは、あなた方貧しい人たちは「幸い」で終わり、その後に「である」が何故ついていないのでしょうか。それは申命記のモーセもそうでしたが、祝福とは現在の状態と未来の状態の間に入るものであることが、伝統的に受け継がれていたからです。そのことをイエスご自身もわきまえておられたからです。「今貧しい人たちは幸い」、「今飢えている人たちは 幸い」、「今泣いている人たちは幸い」と云ったあとに来るべき動詞を語らない中で、与かるべき方向に向かって招き入れられていることを、聴いている人々はわきまえていたからです。「幸いになるだろう」なのか、「幸いである」なのか。祝福とは、その間にあって呼びかけられているのです。「貧しい人が幸いである」筈はありません。貧しく、飢え、泣いている人がどうして幸いであり得るでしょうか。しかし、こうした人が「幸いになるだろう」と云う未来形だけでは、いかにも頼りなく、絵にかいた餅でしか過ぎなくなってしまいます。祝福は二つを結び合わせてこそ意味を成すのです。「今、貧しく、飢えており、泣いている人達は、豊かになり、満腹し、笑うようになる」。神の国はそう云う目標に向かって人々が希望をもって手を携え、共に働く所である。だから、幸福へのイエスの呼びかけはそう言う動的な運動のなかで呼び掛けられておられるのです。

 マタイ福音書ではルカ福音書のような「貧しく、飢え、泣いている」物理的欠乏の状態から、精神的な欠乏の状態に置き換えられています。これは恐らく、イエス時代の後、教会の交わりに集まる人たちの階層が極貧者(πτωχοι)ではなくなっていたからであろうと思います。それは今、私達の教会にも当てはまります。世の中に極貧者がいないわけではありません。教会にも来ることが出来ないような状態の人たちがいます。それを見て見ない振りをする時、それは精神的な貧しさになります。また、物質的欠乏を抱えて苦しんでいる人たちの飢えや涙に対して配慮と支援の手を差し伸べる教会の教えに耳を貸さない人たちは義に飢え渇いている人であり、憐みを持たない人になります。マタイ記者は教会のそういう状況にイエスの祝福・メッセージを置き換えています。こうして私達にルカ福音書とマタイ福音書の両方に、「幸福」を巡る祝福の招きがあることは実に素晴らしことであると思います。私達には物的な欠乏があり、精神的な欠乏の両方があるからです。イエスと教会に感謝しなければなりません。同時に、また、幸福を考える場合に、私達は物的な面と精神的な側面の両方から、この問題を検討する必要があることも気付かせているからです。

 私達が幸福であると思う状態の先ず、第一は欠乏が満たされた状態であります。欠乏のことを英語ではwant と云います。欠乏は欲求をも意味しているからです。つまり、欲求が満たされた時、私達は満足感として幸福を味わいます。欲求の基本は食べて寝ることです。私達が生きて行く上で、欠かすことの出来ない営みです。生きているとは「欠乏が満たされること」、「欠乏を満たすこと」が生きることであり、そこに幸福感が関わっています。どなたもお気付きのように、私達は欠乏を満たすために何でも良いわけではなく、その質を問題にし始めます。第一の欠乏充足が身体的快楽であれば、第二の質を問題にするのは精神的快楽へと発展します。目指すものが手に入った時、目標が達成された時に抱く幸福感があります。しかし、これには問題があります。それはなかなか手に入らない、と云うことです。手に入ったとしても、ごく僅かの間しか持続しなかったり、更に上を目指し、目標は際限なく高くなってしまいます。カール・ブッセが作り、上田 敏が訳した「幸福について」の有名な詩をご存知でしょう(上田敏『潮海音』訳詩57編、1905年):

「山のあなたの空遠く、幸い住むと人の言う。 ああ われ人と とめ行きて
涙さしぐみ 帰り来ぬ。 山のあなたの なお遠く、 幸い住むと 人の言う。」

 この歌はもはや、翻訳された詩と云う域を超えて、上田自身が創作した歌になっているように私には聞こえます。実際、ブッセの本文と比べても原作者を超え出ているように思えます。私は、高校時代にドイツ語の授業でこの歌を目にして以来、上田訳に一層魅かれています。

Ueber den Bergen weit zu wander, Sagen die Leute wohnt das Glueck.
Ah, ich ging im Schwarme der Andern, Kamm mit verweinten Augen Zurueck.
Ueber den Bergen weit weit drueben, Sagen die Leute wohnt das Glueck.

 幸福でありたいと願う私達は、第一の欠乏充足(物質的幸福感)と第二の欠乏充足(精神的幸福感)を時計の振り子のように渡り歩きながら生きて来ました。その中で聖書は第三の幸福への道を私達に顕してくれました。それは宗教的幸福とでも言ったら良いでしょうか。第一と第二を、土台から支える「恵みによって与えられることを感謝し、受容する幸福」です。今、生きている事、或いは、死を迎えているその時にも、神から頂いた恵みとして命も死も、病気も、苦しみも、喜びも、究極的には神から頂いた恵みとして受容する「幸福」です。これは、宗教的幸福感と名付けたく思います。その内容については。本日の週報コラム「牧師室から」の欄「幸福について」で触れさせて頂きましたのでご参照下さい。

 「幸福」に当たる英語の言葉 Happiness は Happenedness から出来た言葉です。それは「起きたこと、起こされた事」を意味しています。起きた事、起こされた事を受容する心の中に「真の幸福」があるからです。英語のLet it be もこの生き方を表しています。それが良く示されている箇所は先ほどご一緒に交読したマタイ6章25-34節です。山上の説教のクライマックスで語られています。これを教えて下さったイエス・キリストはご自身がゲッセマネの園で語られた祈りの言葉にも示されています。

「アッバ父よ、あなたは何でもお出来になります。この杯を私から取り除けて下さい。しかし、私が願うことではなく、御心に叶うことが行われますように。」(マルコ14:36/マタイ26,39/ルカ22,42

 今日は「山上の説教」の序論に当たる所で、全ての人に通じる「幸福への招き」を共に学びました。これより、私が担当するこの講壇では、教会歴で特別な行事に当たらない場合には、イエスの教えの中の教えとしてマタイ福音書記者がまとめてくれた「山上の説教」に沿って講解説教 (serial sermons) を、支障がなければ続けて参りたいと思います。

祈祷
父なる神様
あなたがそれぞれに相応しく備えて下さった命と働きを、あなたから切り離して独り占めして来た罪をあなたの御前で懺悔します。そのような私達をもなお、あなたの招きと祝福の内の置いて下さり、御言葉に立ち返ることを許して下さった恵みに感謝します。どうか、生きるにも死ぬにも、あなたの御名を称え、仰ぎながら、欠乏や限界のなかにも希望と喜びをもって、あなたを信ずる群れの中で証を立てて行くことが出来ますように、主の御名によって祈ります。


 
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