2019.03.31

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「葬りの日のために」

廣石 望

ヨブ記3,1-1ヨハネによる福音書 12,1-11

I

 この世界にあって有意味なこととは何でしょうか? どのような規準に基づいて、私たちは何かを、別のことよりも優先させるでしょうか? 分かりやすいものとして「好きだから」という規準があります。趣味を選ぶときなどがそうです。あるいは「よりよい結果が期待できるから」という規準もあります。受験勉強のプランや企業の事業戦略を立てるときは、そのように考えるでしょう。あるいは、もう少し倫理的になると、「私の価値観と一致するから」という規準もあります。価値観と行動が一致するのがよいという考え方です。

 本日のテクストである、ベタニアでのイエスへの油注ぎのエピソードにも、そうした優先規準が話題にされています。私の問いは、〈マリアはいったい何をしているのか?〉です。まず諸福音書の塗油エピソードの特徴について触れ、つぎにマリアとユダの文化史的な影響を踏まえた上で、このことを問うてみたいと思います。

II

 油注ぎのエピソードは、四つの福音書すべてに現れますが、それぞれに個性があります。

 最も古いマルコ福音書では(マルコ14,3-9参照)、「ベタニアのレプラ患者シモンの家」が舞台です。そこに「一人の女性」が登場し、イエスの「頭」に香油を注ぎかけます。人々がこれを「無駄遣い」と批判すると、イエスは彼女を擁護して、彼女が自分の「埋葬」を準備したのであり、福音が世界中で宣教されるとき、この行為も彼女を記念して伝えられると言います。

 他方で、マルコ福音書を増補改訂したマタイ福音書のヴァージョンでは(マタイ26,6-13を参照)、もったいないと言ったのが「弟子たち」に変更されています。他方で、同様にマルコ福音書を増補改訂したルカ福音書では、このエピソードはイエスの活動の初期に移され、赦しと愛についての譬えと結合されます(ルカ7,36-50を参照)。あるいは、よく似た別の話のゆえに省略されたのかもしれません。いずれにせよそこで、イエスは「ファリサイ派の人」と食事しており、登場する女性は「罪の女」つまり娼婦と暗示されます。彼女は涙でイエスの「両足」を濡らし、髪で拭って、香油を塗ります。「足」や「髪」というモティーフは、本日のヨハネ福音書のテクストと共通です。

 さて、そのヨハネ福音書の塗油物語の舞台は、マルコと同様に「ベタニア」ですが、マルタとマリアそしてラザロのきょうだいの家とされているのが新しい特徴です。イエスに油を注ぐのも、きょうだいの一人である「マリア」であり、この行為を批判するのは「イスカリオテのユダ」です。

III

 イエスの両足に高価な香油を塗り、髪でそれを拭うというドラマティックなマリアの姿は、後のキリスト教文化史の中で、マグダラのマリアの姿と同一視されてゆきました。マグダラのマリアには、「七つの悪霊」をイエスから追い祓ってもらったという別伝承があり(ルカ8,2参照)、ルカ福音書が香油を塗った女性を「罪の女」と形容していたのと組み合わせる仕方で、娼婦マリアには「淫乱」の霊がとり憑いていたが、悔い改めて聖女になったと理解されるようになっていったのです。その結果、悔悛するマグダラのマリアを主題とする宗教絵画がたくさん描かれました。たいていは長い髪をほどいた若くて美しい女性が涙を流す姿で描かれており、一種の美人画のトポスになっています。

 いくつかのことを考えさせられます。まず、かつて迫害者であったパウロや、かつてイエスを見棄てて逃げたペトロなどの男性弟子たちが、偉大な指導者として描かれることが多い一方で、女性であるマリアを「罪人」の代表的モデルにしてよいものか、と思わされます。涙を流して悔悛する若くてイケメンの男性弟子を描いた宗教画はあるのでしょうか? すぐには思い浮かびません。

 さらに、キリスト教にはもう一人の「マリア」がいることを思います。イエスの母マリアです。彼女は時代の進展とともに、永遠の処女なる「神の母」として、巨大な崇敬の対象になってゆきました。つまりキリスト教を代表する二人のマリアは、一方は艶っぽい元娼婦、他方は清く聖なる処女です。この対比的なイメージは、男性中心的な文化の中で生み出された、典型的な二つの女性イメージである可能性が高いと思います。

 つまり、私たちの物語のマリアに、その後の文化史の中で形成されたマリア・イメージを読み込む必要はありません。

IV

 続いて、イスカリオテのユダについて見てみましょう。福音書は彼に、いつも「イエスを裏切った者」という表現を付けます。ヨハネ福音書に独特なのは、ユダが会計係であったが、常々お金を着服してきたという描写です。そのため、「なぜ、この香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」という発言も、本当はそのお金も着服したかったのではないか、という連想が生まれます。

 キリスト教文化史の中で、ユダはキリスト教徒たちの大きな憎悪の的になってゆきました。そのプロセスは、もしかするとすでに福音書の段階で始まっているかもしれません。すなわちマルコ福音書によれば、復活のイエスはユダにも現れた可能性が残されていますが、マルコ福音書を増補改訂したマタイおよびルカによる福音書では、ユダはイエスが復活する「前」に変死を遂げます。まるでユダにだけは、復活のイエスとの出会いが許されてはならないと言わんばかりです。そのさいマタイとルカではユダの死に方が異なり、一方は首吊りで他方は飛び降りです。おそらくユダの変死という伝承があり、マタイとルカはそれを別々に具体化しつつ、イエス復活以前の段階においたのだと思います。

 キリスト教文化史におけるユダの理解は非常に多様ですが、憎悪の対象という意味では、13-14世紀のイタリア詩人ダンテ・アエギエーリの『神曲』に、地獄の一番底でユダが悪魔ルシフェルにぼりぼり貪り食われるという凄惨な場面が登場します。こうしたユダ描写は、キリスト教徒が、自分だけはイエスを裏切るユダのような者でありたくないという、抑圧された恐怖と憎悪の外在化であると、つまり絶対に自分では認めることのできない陰の感情を外部に向かって投影していると見えます。

 じっさい「キリストの殺害者」というユダのイメージは、キリスト教的な反ユダヤ主義を助長してきました。ヨハネ福音書そのものは少数派である自分たちのアイデンティティーの獲得を目指して、自分たちを会堂の交流から排除した「ユダヤ人たち」を批判的に描いていると思われますが、その描写は後の時代に、反ユダヤ主義的に大いに利用されました。私たちは、そうした影響史に自覚的であるべきです。

 イエス殺害との関連では、私たちの物語には、イエスとともに食事の寝椅子に横たわる者の一人として、ラザロが登場します。ラザロは先行する11章で、死の三日後にイエスによって「起こされた」人物です。そして私たちのテクストの末尾では、イエスと彼が蘇生させたラザロを見るために大群衆が押し寄せるのをみた「祭司長たち」が、イエスと同様に、ラザロをも殺害することを決議したとあります(10節)。ラザロの殺害について証言はありませんが、イエスを殺すことができるのであれば、ラザロをも殺せるだろうと思います。こうして私たちのエピソードは、憎悪と殺害の意思にとり囲まれています。

VI

 以上にマリアとユダそしてラザロの姿を、主として私たちが無意識に前提している文化史的な視点から見てきました。では、この物語で、マリアはいったい何をしているのかを問いましょう。

 「なぜ、この香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」(5節)というユダの発言は、それ自体としては、300日分の労働賃金のより有効な使い方を目指しており、暗黙裡にマリアの行為を単なる「無駄遣い」と評価しています。最大限の有効性を目指す、合理的な規準が提示されていると言えるでしょう。

 他方で、イエスは彼女の行為を、「わたしの葬りの日に向けて、彼女はこの勤めをなすであろう」(7節)と評価します。これを、冠婚葬祭は日常的合理性によっては把握できない、という意味に理解してよいでしょうか。興味深いのは、私たちの物語では、イエスの死が私たちに救いをもたらすという有効性を伴う贖罪死であることはとくに強調されず、また彼女がイエス(の頭)に香油を注ぎかけることで、無意識的にであれイエスを王なるメシアとして叙任するという神の意思を実行したとも言われていない点です。  マリアの行為は、彼女が「非常に高価なナルドの香り油の石膏壺をとり、彼の両足に塗り、自分の髪で両足を拭った。家はその芳香で満たされた」(3節)と描写されます。マリアは何をしているのでしょうか? 彼女はイエスに集中していると言ってよいでしょう。そして彼女は、日常的な計算や合理性を超える仕方で、個別的な存在としてのイエスを思いつく最大の仕方で飾っています。「家はその芳香で満たされた」という描写が、その意味を描いていると感じます。

 考えてみれば「葬りの日」とは、日常のビジネスや義務を中止して、あるいは合目的な判断を停止して、その人がこの世界に与えられたことを飾る日です。マリアは、そのような仕方でイエスを尊んでいます。そしてイエスは「この人のするままにさせておきなさい」と言って、彼女を認めます(7節)。ギリシア語原文は、もっと単純に「彼女を解放せよ」、つまり好きにさせなさいという意味です。

 私たちは合理性や有効性を重んじますし、そのための協議もします。その一方で、互いに個別的な存在を尊び、これを飾る自由も与えられていると思います。


 
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