2019.03.03

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「臨死体験から救いの命へ」

陶山義雄

申命記34,5-12コリントの信徒への手紙二 12,1-10

 2か月ほど前までは、幼子イエス・キリストのご降誕を覚え、私達は喜びに溢れた心を分かち合うことが出来ました。顕現後第3主日が過ぎて2月に入ると、直ぐに今度は受難節を迎える準備にはいり、受難節前第3、第2と続いて、今日はその第1主日となりました。ご降誕に続き、キリストのご生涯を思い起こすのが順序である筈ですが、ご降誕から直ぐに主の受難に目を注ぐような教会の暦は、いささか、順序を外れているようにも感じます。しかし、出来事の経緯ではなく、生涯で最も大きく、大切で、また、私達人間にとって最も意味のある働きをなさった十字架の出来事があり、ご降誕は終わりから遡って意味が付けられたことを思うと、教会暦は実に良く出来ていることが分かります。実はご降誕のなかに、主の受難の出来事を重ね合わせて世々の教会は福音の証を立てていたことを、私達は忘れてはなりません。先ほどお読みしたコリント後書12章は、パウロが自分自身で体験した、云わば、死の渕まで追い詰められた所で、キリストに出会った出来事を語っておりましたが、これも、自分が受けた受難の出来事からキリストが自分の内に宿る、つまりキリストの降誕へと繋がる経緯を私達に伝えています。イエス・キリストを救い主として仰ぎ、自分の心に受け入れるのは、キリストの誕生からではなく、受難と十字架、死と復活の出来事を通して私達も、与かってきたのではなかったでしょうか。

 昨年の11月24日には明治学院大学グリークラブの創立70周年の記念公演が東京芸術劇場で開かれました。ヨハン・セバスチアン・バッハのクリスマス・オラトリオが70周年の記念公演に相応しく捧げられました。思えば池宮英才先生のご指導のもと、クリスマスに合わせて、東京女子大学のメサイアと並び、明治学院大学のクリスマス・オラトリオはこの季節に欠かせない公演になっておりました。私もこの記念すべき70周年のコンサートに参列を許され、改めてクリスマス・オラトリオに感動させて頂きました。ことに、今申し上げた、キリストの受難と苦悩から幼子イエスのご降誕を解き明かしているところに深い感動を覚えました。

 どのように幼子のご降誕、主をお迎えしたら良いのか、バッハのクリスマス・オラトリオ第一部で歌われる2つのコラールが語っています。最初は、第5曲目で歌われるコラール(讃美歌)です。

「私はどのようにしてあなたをお迎えしましょうか。 私はどうすればあなたにお会いできるのでしょうか。おお、世界の欠乏、おお、私の誉れ。おおイエスよ!私の心に明かりを灯して下さい。何があなたに喜んで頂けるか、私が弁(わきま)える事が出来るように。」

 第一部・終曲の第9番目で歌われるコラール・讃美歌はクリスマスには欠かせないルターの家庭讃美歌「いずこの家にも目出たき訪れ」の旋律に合わせ、歌詞は次のように歌われます。

「ああ、私が心から愛するイエス様、私はあなたに清く、心地よい寝床を作ります。私の心を住まいとしてお休み下さい。そうすればあなたを忘れないようになるでしょう。」

 クリスマスは救い主が私の心、また、それぞれの心に宿る時です。それはどのようにして実現するのでしょうか。基本的には上より与えられる恵みですが、恵みに与かる準備は私たちの勤めであります。礼拝に集い、御言葉を聴くことも、恵みに与かる自らの備えであると信じます。先ほどご紹介したクリスマス・オラトリオ・第一部で歌われている2つのコラール(讃美歌)は恵みに与かるための準備を良く伝えています。「私はどのようにしてあなたをお迎えしましょうか。私はどうすればあなたにお会いできるのでしょうか。」この問いに答えるかのように、バッハはこの歌詞を、同じくバッハが作った「マタイ受難曲」で何回も用いられ、受難節と受難週になると歌われる有名な讃美歌・コラール:「血潮したたる主の御頭」が有りますが、クリスマス・オラトリオでもその旋律(メロデイー)に合わせて歌わせている、その所に注目しなければなりません。旋律の背後には暴虐、苦難、十字架、死の縄目が裏打ちされています。そしてそうした苦難を乗り越えて勝利を収めた「救い主」の姿が歌われています。クリスマス・オラトリオの第一部・第5曲の歌詞では「おお、世界の欠乏」と歌われていた内容、それを「血潮したたる」と云う受難のコラールでバッハは思い起こさせることによって、私達が救い主に出会う途を示唆していることが分かります。実際、このクリスマス・オラトリオの第6部の、オラトリオ全体を締めくくる第64曲のコラールもメロデイーは「血潮したたる」・受難の讃美歌ですが、歌詞は救いの喜びが歌われているのです。もちろん、勝利の賛歌ですから、マタイ受難曲で用いられるような重いテンポや調子ではなく、トランペットとテインパニーが加わって合唱とオーケストラで華やかにまた、軽快にしめくくられて、クリスマス・オラトリオ全体が閉じられています。

「あなた達・人類の上に君臨していた敵の軍勢を、救い主は打ち破って下さった。死も悪魔も罪も黄泉も完全に力を失い、あなた達・人間全ては神の許で過ごすのです。」

 このように「救い主・幼な子」と私達が出会う途は、自分を縛り上げている暗闇を見つめるところからはじまります。 新約聖書のおよそ半分近くを書き残しているパウロは、私達とおなじように、ベツレヘムも馬小屋も見ていません。彼が救い主と出会ったのは、今の言葉で言えば「臨死体験」であったことが、先ほどお読みした聖書に綴られています。「パウロは楽園にまで引き上げられ、人が口にすることを許されない、言い表し得ない言葉を耳にしたのです。」と彼自身がコリント後書12章4節で述べています。臨死体験と云う言葉はElizabeth Kuebler Ross が『死ぬ瞬間』シリーズ(続『死ぬ瞬間』それは成長の最終段階)と云う本の中で、交通事故や、病気で死線をさまよった人々から聞き取った出来事を紹介する中で使われていた言葉です(Near Death Experience)。その中には小さな子供たちも紹介されています。臨死体験者に共通している告白は、まるで蛹が蝶になったように、自分の体を離れて、体を脱ぎ捨てて上からそれを見つめながら、トンネル、もしくは川を渡ると、光り輝く別世界に招かれて行ったという体験です。そこでは、もはや今までの苦しみは無く、安らぎと幸福感に満たされた状態に変えられている、と臨死体験者は告白しています。そのままそこに留まっていたいと思う反面、今までの人生が走馬灯のように思い出されて、そちらに魅かれているうちに目が覚めて元の自分に帰っている、これが臨死体験に共通する内容である、とロスは報告しています。

 立花 隆と云う作家は『臨死体験』と云う上下2巻の著書の中で、ロスの報告に加えて独自に調査した体験者たちの報告から臨死体験を4つのステップに纏めています。体験者は先ず「対外離脱」(自分を離れて外から自分を見つめている)の段階を迎えます。次に暗闇から光の世界へと移される段階。この光との出会いは文化や宗教的背景によって異なるのですが、西欧では圧倒的にキリストや神との出会いであります。 また、東洋では仏や観音様になりますが、総じて神的存在との出会いです。次に人生のパノラマ回顧と呼ばれるような、今までに体験出来た様々の想い出が脳裡を巡り、第4段階の「安らぎと幸福感」へと導かれます。ロスは、誰もが人生の終わりにこのような楽園に導かれると云う結論を出しておりますが、何と素晴らしいことでしょうか。そのように考えるだけでも死は決して忌まわしいものでなくなります。

 聖書に帰って、本日取り上げたパウロの記述は正に臨死体験そのものであることが分かります。自分の体を離れて楽園に導かれ、安らぎと幸福感に満たされたパウロは、生前・自分を煩わせていた「体の棘」に触れながら、光の源である主に向かって、これを取り除いて下さいと3度も主に求めたと語っています。この「パウロに与えられた体の棘」とは何であったのか、本人は語っておりませんが、使徒言行録9章では、ルカの記述によれば、「サウロが旅をしてダマスコに近付いた時、突然、天からの光が彼を襲い、彼は地に倒れると共に視力を失った」(9章4〜9節)時であるかも知れません。キリストを拝し、回心をしたパウロの姿を今日のテキストから読み取ることが出来るようです。楽園で幸福感に満たされたパウロは、体の障害を主から受けた恵みとして捉え直す者へと変えられます。そして体の障害、弱さは逆に、強さへと転換されていることを喜んでいます。そして、わたしは弱いときにこそ強い」(同12章10節)とまで告白できる存在へと変えられています。

 受難節には、パウロの体験と同じように、私達が光であるキリストに出会うことによって、自分にとって今まで限界と思われて来た負の遺産がむしろ生きる力となるような変化が与えられる時であります。モーツアルトは9歳と云う若い時、死ぬほどの体験をしています。それは1763年から家族全員で1766年までパリ、ロンドンに演奏旅行をしている最中の出来事でした。姉・ナンナルが先ずロンドンで腸チフスきかかり、65年7月にはロンドンからオランダに移動した中で、今度は弟のウォルフガングが発病し、こちらの方は重症で一旦は両親も諦めて死の準備(司祭を呼び終油)までした病人が助かった訳ですが、これも今の言葉で言えば臨死体験にあたると思います。何より、その後のモーツアルトに大きな影響を与えています。1787年4月4日、父・レオポルトに宛てた手紙の一節にも現れています:

「死はわれわれの一生の真の最終目標なのですから、私は数年この方。人間のこの真の友と、とても親しくなって、その姿が私にとってもう何の怖ろしいものでもなくなり、むしろ多くの安らぎと慰めを与えるものとなっています。・・・私はまだ若いのですが、もしかしたら明日はもうこの世に居ないのではないかと考えずに、床につくことは一度もありません。・・・そして私は毎朝、(新しい命が与えられていることに対して)創造主に感謝し、そしてそれが隣人の一人一人にも与えられるようにと心から願っています。」

 モーツアルトの作品はどれも軽快で明るさを讃え、カール・バルトも天使の音楽であると賞賛している所がある一方では、仄かな哀調を感じさせる所もあります。あたかも悩み、苦しみと闘う地上の命と救いに与かっている天上の楽園を行き交うモーツアルトの人生が描き出されているような印象を私は持っています。臨死体験を通して彼は既に素晴らしい楽園に一方では生きていたのではないでしょうか。この二重線があるから、モーツアルトの作品は私達に慰めと共感、安らぎを与えてくれるのであると私は感じています。

 クリスマス・オラトリオで先に挙げた3つのコラール(讃美歌)に加えて、このオラトリオで歌われている「死から命」に向かう救いのメッセージを他に紹介しておきますと:

  1. 第38曲「あなたを憧れ求めます。」 「その果ては死が私にどんな恐怖を抱かせるでしょう。我が主よ、たとえ私は死んでもこの身が滅びないことを知っています。あなたの御言葉が私の心の内に書かれて、それぞれが死の恐怖を追い出すのです。」
  2. 第39曲(ソプラノ詠唱とエコーのソプラノ) 「私は死を恐るべきなのでしょうか?」
    「いや、あなたの甘美な御言葉があります。」
    「むしろ私は死を喜ぶべき、なのでしょうか?」
    「そうです。Ja, ja」

 イエスの名前は人に死の恐れを抱かせるのではなく、まことの喜びを人々に得させるのだ、と云うことをイエス自身が「ヤー(ja)」(然り)と云っておられます。

 受難節に始まる主の十字架は私達もこのような天の恵み、死を乗り越えて生きる永遠の命に出会う時節です。どうか、これより始まる主の受難を覚える時節が、そのように恵まれた時となりますよう、共に祈りながら、救い主をそれぞれの心に迎える準備を致しましょう。


 

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