I
人は「変わりたい」という夢をもちます。子ども向けの漫画やアニメ、あるいは特撮物のテレビ番組や映画には、たくさんの「変身」ものがあります。大人にとっても同じことです。高い身分の主人公が仮の姿をまとい、決定的瞬間にそれを明かして難事件を解決するというパターンの、いくつかの時代劇シリーズがありますね。
それだけではありません。行政も企業も学校も、そして場合によっては教会も、「変わらなければならない」と言われます。国家や自治体が行う行政改革、業績のV字回復を目指す企業戦略、受験生に選んでもらえる学校になるための入試や学部改編、そして教勢を伸ばすための伝道戦略などです。そのような場合にはたいてい、「私たちは変わりたい」という願いと「いま変わらねば滅びる」という切迫感のふたつが混じり合っています。
変身という夢は、古代にもありました。ギリシア・ローマ神話の神々は自在に変化します。「魂の遍歴」の教説によれば、人の魂はそれが宿る先の身体を次々に乗り換えます。例えば、すでに古代において伝説的存在であったピュタゴラスは、前世に別人として生きていたときの記憶を保持していたそうです。
では、古代ユダヤ人はどうでしょうか。ユダヤ教では魂と肉体は分離されず一体のものであり、人は一回きりで反復不可能な人生を生き、世界史もまた天地創造から最後の審判にむけて直線的に進む、と教科書は説明します。しかしユダヤ教においても、人が大きな変貌を遂げると想定されていた事象が二つあります。それは、死者からの復活と天界旅行です。
本日の聖書箇所でパウロが、復活にさいして「私たちは変えられる」というとき何を考えていたのか、それが私たちにどのような意味をもつのかについて、ごいっしょに考えてみましょう。
II
1世紀後半に成立したユダヤ教文献である外典『シリア語バルク黙示録』は、世界の終末における人間の変貌について次のように語ります(51,1-3; 9-10)。
バルクは、前7世末から6世紀前半に活躍した預言者エレミアの書記でした。本書は、その過去の偉人の口に託して書かれた偽書ですが、シリア正教では旧約正典、いわゆるペシッタ語訳聖書に含まれます。
いま読んだ箇所によると、終末に死者たちは復活し、最後の審判によって「罪人」と「義人」が分けられた後、罪人たちは永遠の拷問に備えてどんどん醜い姿になる一方で、義人たちは祝福に備えてますます美しい存在になってゆく、と言われています。「顔」「栄光」が「光に照らされて」変化し、不老不死の身分を獲得し、天空の星々の間に住み、天使に似た者になるのです。
イエスもまた復活問答の中で、「死者の中から復活するときは、娶ることも嫁ぐこともなく、天の御使いのようになる」と発言しています(マコ12,25)。
では、天界旅行はどうでしょうか。同様に、原本が1世紀末の成立とも言われる『スラブ語エノク書』によると、第七の天に到達して神の前に引き出されたエノクに、つぎのようなことが生じます(22,8-10)。
エノクとは、創世記のアダムの系図で、「神が取られたのでいなくなった」(創5,21)とされている伝説的な人物です。後に、彼は天に引き上げられたと理解されるようになり、彼の口を通して天上界の秘密を伝えるという設定の書物が何冊も書かれました。『スラブ語エノク書』もそうであり、『エチオピア語エノク書』はエチオピア教会の旧約正典に含まれます。
エノクの変容は、「地上の着物」から「栄光の着物」への着衣交換のモティーフを通して、また香油を塗るというモティーフによって表現され、後者には「偉大な光」と「芳香」が伴います。そして、『シリア語バルク黙示録』におけると同様、変容後のエノクの姿は「栄光の天使」のそれに等しいとされます。
本日の聖書箇所で、パウロは「朽ちるものが朽ちないものを着る」と述べて、同様に着衣のモティーフを用います。さらにパウロ自身が、天界旅行の経験者でもあります。彼は天上世界の最上階である「楽園」にまで引き上げられ、「人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉」を聞いたと証言しています(2コリ12,4)。
III
さて、そのパウロは、私たちのテクストの直前で、「私たちが土的な者のかたちを担ったのと同様に、天上的なかたちをもまた担うだろう」と言います(1コリ15,49)。したがって彼が「朽ちるものが朽ちないものを着る」「死すべきものが不死なるものを着る」(53-54節)と言うとき、それは私たちの人格が地上的な〈アダムのかたち〉から天上的な〈キリストのかたち〉に変容するという意味です。
『シリア語バルク黙示録』や『スラブ語エノク書』によれば、それは天上界で光り輝く天使のような存在への変身です。しかしパウロにあっては、天上界のキリストに向けての変身です。キリストが、私たちの人格変容のゴールなのです。
バルク黙示録では、天使のような存在への変身は「不老不死」の身分を獲得することを含みます。パウロもまた、世の終わりにおける一瞬のうちに生じる私たちの変貌をさして、それが死の克服であると言います。
じつは、この言葉にぴたりと一致する旧約箇所は見つかりません(「死を滅ぼす」というモティーフがイザ25,8に、死に嘲りの問いかけを向ける文体がホセ13,14にそれぞれ近いていど)。しかしいずれにせよ、これは死と再生を反復することによる、一時的な死への勝利ではありません。むしろ死の最終決定的な克服、死に対する死の宣告です。天使によって、これを達成することはできません。彼らは不死なので、死に触ることができません。そのためには、いったん死んだ人間が死から奪い返される必要があり、そのことがキリストを通して実現しました。
IV
だからパウロは、復活したキリストを信仰者たちの「兄弟」と呼び、私たちの変容はキリストと「共なるかたち」への変身であると言います。
私たちは、たんに「天使のように」なるのではなく、キリスト(の身体)と「共なるかたち」をもつことで、キリストの人格に参与する、ないしこれを共有します。キリストは「多くの兄弟たちの中で最初に(天上世界に)生まれた者」、つまり私たちの「兄弟」として、私たちの一人なのです。
V
さらにもう一歩進んでパウロは、今は天上界にあるキリストを通して、私たちはすでに現在にあって変貌を遂げつつある、と言うこともできました。
天上界のキリストの顔は神の輝きを映し、そのキリストの輝きを私たちは地上界にあって反射し、主の霊によって変貌してゆきます。それは、「光あれ」という世界創造にも匹敵するできごとです。
そのさい、たいへん大切なことが、ひとつあります。それは、私たちの変貌がキリストの「栄光」と同じかたちに向けてのみならず、彼の「死」と同じかたちにも向けて生じることです。
パウロが「キリストを知る」と言うとき、その目的は彼自身が「死者たちからの立ち上がり」に到達するためです。そのために、キリストの「立ち上がりの力」のみならず、彼の「もろもろの苦難の共有」をも知る必要があります、キリストの「死と共なるかたち」にされることを通して。
VI
最後に、「死の棘は罪、罪の力は律法」(56節)という発言について考えましょう。
「死の棘は罪」と言われるとき、「死」は生物学的な死ではありません。それは、私が犯す「罪」によって、他者や神との関係が破壊されることです。
他方で、「罪の力は律法」とはユダヤ人にはあるまじき発言です。律法は、神が恵みとして与えたものだからです。でも、パウロの個人史には、この発言が妥当する側面があります。すなわち彼は一時期、律法への狂信的な熱心に基づいて、同じ民族同胞であるイエス派を暴力的に迫害しました。自分が律法の名によって死を周囲に振りまいていたことを、パウロはキリストに出会うことで自覚し、律法に暗い側面があることに目を開かれたのです。キリストの「死と共なるかたちにされつつ」と言うとき、パウロは罪が律法を通して力を発揮する危険性を同時に考えていると思います。
ならば私たちも自らの変貌プロセスの中にあって、「これが絶対に正しい」とか「私が神の名によってなした決断を他の人々も受け入れるべきだ」などとは、ゆめゆめ思わないことです。そのことが、「私たちは変えられる」ことに含まれると思います。