2019.02.17

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「わたしの隣人とはだれですか」

田中健三

レビ記19,17-18ルカによる福音書10,29-37

 「善いサマリア人の譬え」で知られる本日の箇所は、様々な解釈の可能性がある内容豊かな物語です。少なくとも言えることは、律法の中心命題「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神であう主を愛しなさい」と「隣人を自分のように愛しなさい」を当然熟知している宗教的指導者への批判が含まれているということです。そういう意味で、読者は最初にここを読むとスカッとするかもしれません。本日は私自身の今までの愚かな歩みによってこの箇所を理解していきたいと思います。

 私はクリスチャンホームではなく、大学時代に人生の模索をしている際に、たまたま自宅にあった本を読んでからキリスト教に近づくようになりました。矢内原忠雄の『キリスト教入門』という本です。おそらくかつてミッションスクールに行っていた母が昔に買ったものだと推測します。その本に惹かれまして、聖書やキリスト教の著作を読み始めました。大学卒業後、社会人一年目に、矢内原の弟子である高橋三郎という人をやはり書物から知り、その集会に通い始めて今に至っています。私が無教会の集会に行ったのはそういう経緯でした。

 ところでキリスト教というものを学び始めると、その中心的教えである黄金律「神を愛し、隣人を愛する」を知るのですが、その「隣人を愛する」ということがどうも引っ掛かりました。私は高校時代に将来外交官になり、世界から核を廃絶するために働くという青い夢を持ち、大学は法学部に入りました。結局恥ずかしながら大学時代にあまり勉強しなかったので、外交官になる道はなくなりました。しかしキリスト教に接するようになるとその教えである「隣人を愛する」が、私の考えていた世界に羽ばたいて大いに活躍することと大分違う気がしました。キリスト教とはずいぶん身近な所で済ますのだなあ、という思いとともに、「隣人を愛する」とはどういうことなのだろう、と不思議になりました。

 大学卒業後、私は民間企業に就職し、働き始めましたが、大学時代に読んだカール・ヒルティにも影響されていた私は、「世俗の中で働き、その事によって自然に福音を証しする」という道をとりました。つまり先ずは私にとっての「隣人」は仕事で関わる人たちでした。

 32歳の時に、どうしてももっと直接的に伝道や教育に人生を捧げたいという思いに駆られ、会社を辞め、その後神学校に入学することになります。神学校卒業後、集会(無教会では教会と言わず集会と呼びます)の責任者(教会で言う牧師)になることはなく、中高生のバイブルキャンプや折にふれて日曜日の礼拝の説教などをする一方で、大学院に入り聖書学を学ぶことになり、研究の道にも足を踏み入れました。いずれにしても今のところ軸足をしっかりと一つのところに固定しているというわけではなく、いわば「隣人探し」を今までずっとやってきたような気がします。自分の天職とは何かという意味での「わたしの隣人とはだれですか」という探求です。ですから私は「キリスト教とは何か」という問いと「自分の天職は何か」という二つの問いにおいて「わたしの隣人とはだれなのか」ということを問い続けてきたのではないか、と最近気付きました。そう考えるとこの「善いサマリア人の譬え」の登場人物の中で私はまさに「律法の専門家」に該当しそうです。実際に追いはぎに襲われて傷ついた人の隣人になることはせず、「隣人とは誰ですか」と尋ねているだけの人です。

 永遠の命を受け継ぐための掟を熟知している律法の専門家に対してイエスが「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」(ルカ10,28)と言うのですが、29節で彼は「自分を正当化しようとして、『では、わたしの隣人とは誰ですか』」と発言します。ここで「正当化する」と訳されている単語は、ギリシア語で非常に重要な動詞ディカイオオーです。これは神が人を「義とする」という際に使われる動詞で、神の義認という究極的判決行為の言葉です。ここではもちろん救済論としてではなく、もっと世俗的な意味で用いられている(だから「正当化する」と訳されている)のですが、しかし「神が義とする」ということに対して、ここでは「人が自分を義とする」という言葉が使われていることは示唆に富んでいます。この背後に、神が神なのか、自分が神なのかという本質的な問題が潜んでいると連想してもよいのではないでしょうか。この律法の専門家も譬えの中で傷ついた者の前を素通りした祭司、レビ人も、自分の枠組みの中で「隣人愛」を理解したのです。素通りした宗教者は「隣人愛が大事」ということは百も承知していましたが、「今はその時ではない」とか「わたしにももっと大切な隣人がいる」という自分の義を優先させたと想像してもよいと思います。

 さて教団の犬養光博牧師は、同志社大学時代に九州の炭鉱の町筑豊の子ども会に行き、そこで炭鉱の人々と出会い、大学卒業後に筑豊に行き、そこで50年間牧師として、筑豊の人々と共に生きた方です。学生運動盛んな時期に、学生運動の視野にも入っていなかった筑豊という場所を知り、その日本経済を支える底辺のような人々と出会い、その隣人となった「善いサマリア人」です。私のような者からするとキリスト教の黄金律を守った方なのですが、犬養牧師にとってもこの「善いサマリア人の譬え」は重要な物語だそうです。そして犬養牧師はある時、この物語の登場人物の中で自分は「強盗」だったということを発見するのです。日本社会のしわよせがこの炭鉱の町に来て、この炭鉱の人々を襲っている。その日本社会の縮図である教会も、そして自分自身も筑豊の人々を襲った「強盗」だというのです。私からすればそれ程までに彼は筑豊の人たちの隣人になった、ということです。筑豊の人たちの身になったからこそそういう理解に至ったのです。  犬養牧師の話をうかがうと自分などはもう立つ瀬がなくなる気がします。隣人探しの旅をしているようなわたしはもう論外に思えてきます。

 しかし犬養牧師は自分が「善いサマリア人」として隣人愛の黄金律を守ったと必ずしも思っていないふしがあります。彼は「この善いサマリア人の物語は今もずっと自分のテーマです」と述べています。自分はもう隣人愛の掟を守ったということではなく、隣人愛は今に至るまで現在進行形で自分の課題だという意味でしょう。

 そして現に犬養牧師は筑豊で過ごすうちに、筑豊の人々に対する考えが次第に変化していきます。初めは「奉仕の対象」であった筑豊の人々が、次にイエスの福音を伝えるための「宣教の対象」になり、そしてついてそのような考えは間違っていたことに気づきます。むしろ「イエス・キリストがそこにいることに気づく」場として筑豊がある、自分が伝える前にすでにイエスが筑豊にいらして、自分はそのことに気づき、そしてイエスと共に歩む者に徹するのだ、という考えに達します。筑豊の人々と共に歩むことによって、隣人というものの理解が変わると共に、キリスト者として「先んじて筑豊にいらしたイエスと共に歩む」ということが加わるのです。犬養牧師でさえ、隣人愛は常に現在進行形の出来事であり、そしてやはりイエスと共に歩むことと不可分です。最近出版された『筑豊に出合い、イエスと出会う』という本の題名が文字通りそれを示しています。そういう意味で、隣人愛と神への愛はやはりセットでなくてはならないと思います。

 ところでこの物語の「傷ついた者を見て素通りするのではなく助ける」ということは、考えてみれば、特別な功徳を積むようなことではなく、人間として当たり前のことです。隣人愛とは特別なことではなく当たり前のことをすることだというのは、レビ記19,17-18の文脈でもそうです。つまり隣人愛の教えとは、「当たり前の人間になれ」「自然な人であれ」「本当の人になれ」と言い換えることができると思います。この人間として自然なことがなかなかできないのが実情なのですが。

 そしてそれに付随することとして「自分の正義」を過信するのではなく、「神のもとに在ることに気づき、意識する」ということが「人になる」ために重要になってくることも、この箇所から読み取ることができます。「隣人を愛する」ということを「自然な人間であれ」と「自己中心ではなく、大いなる存在のもとにあることを意識せよ」という二つのことに言い換えることができると思うのです。

 そのように思い直す時に、私のように隣人を素通りし続けてきたのではないか、隣人とじっくり関わり合わずに来たのではないかと思われるような人も、再びこの黄金律に向き合うことが可能になります。イエスと共に自然に生き、そして人として他者と当たり前に関わり合う。与えられた家庭、職場、教会、様々なコミュニティーで出会う人々と人として自然に接する。そのような営みの中で、人それぞれの「隣人」と出会うということなのだと思います。そして現実に傷ついた人の前を素通りしてしまったとしても、神に「ごめんなさい。隣人を愛せませんでした。素通りしてしまいました」と打ち明けるならば、新たなチャンスが私たちに与えられるでしょう。今ちょうど入学試験シーズンで、残念ながら不合格になる人たちもいます。しかし神は人を一度不合格にして終わりではなく、何度でも再チャレンジを可能にし、必要な力や新たな出会いを与えてくれる存在であるはずです。

 そのように考えることでこの隣人愛が合格不合格の指標となるような「試験」として脅迫的に私たちに課せられるものではなく、大切な目標として、祈りとして、そして感謝として受け止めることができるものとなります。今の時代は、人が物のように扱われ、人が当たり前の人と扱われないような風潮にあります。そのような時代にあって、当たり前の人として隣人と接するということが、この世をどれ程明るくするでしょうか。私たち、私たちを超える大いなる存在の下にあることを自覚する者は、その大いなる見守りの中で「世の光」となり得ることを再確認したく、今日の話を終わります。


 
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