I
一昨日と昨日、アメリカとロシアが、中距離核戦力全廃条約(INF)からの離脱を相次いで表明しました。この条約は1987年、当時のレーガン米国大統領とゴルバチョフソ連共産党書記長が署名し、1988年に発効した核軍縮条約です。東西冷戦の終わりを告げるできごとのひとつでした。しかしその後、中国による核配備や第三国への核技術の流出が続き、かつての「相互確証破壊」システムの構築による核抑止論は通用しなくなりました。核兵器を「持てる」国々の間の相互不信が、これから大きくなりはしないか心配です。
他方で2017年には、核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)が推進した核兵器禁止条約が国連で採択されたばかりです。核兵器を「持てる」ないし「持ちたい」国々と「持たないのがよい」とする国々の間の相互理解が、この条約をめぐる論争というかたちで難しくなるのではと心配です。
互いに不信感を抱く者たち同士の「和解」、基本的な生存のあり方について意見の違う者たちの共存は、どのようにして可能なのでしょうか。
II
新約聖書の特徴は、人間同士の平和に先立って、神と人間の間の平和と和解について語ることです。例えばパウロは、ローマ書簡で「私たちが敵であったとき、彼の息子の死を介して、私たちは神と和解させられた。そうであるならば、和解された者として、彼の命にあって私たちはますます救済されるであろう」と言います(5,10)。そしてそれを受けて、都市ローマのキリスト教コミュニティーに向かって、こう呼びかけます、「ならば私たちは平和の事々、また相互の構築の事々を追い求めよう」(14,19)。
同じパウロが、第二コリント書簡で「和解」というイメージを用いてキリストがもたらす救いについて語る聖書箇所に、ごいっしょに耳を傾けてみましょう。
III
「和解」「和解する」という表現は、新約聖書ではパウロ真正書簡とパウロ系列の文書にのみ、しかも信仰義認論と結合して現れます。パウロが初めて言い出した表現である可能性があります。
「和解」「和解する」と訳されるギリシア語は、もとは「交換する」という言葉です。例えばある品物とお金を「交換する」という具合に使われました。つまり経済用語です。後に、転じて多くは集団の間の、そしてまれには個人の間の敵意・怒り・不和を、友好・愛情・平和と「交換する」という社会行為、例えば敵国同士の間での和平締結や、過去の罪責を不問に付すことで達成される宥和を意味するようになりました。個人の経済活動についての表現が、政治や外交の領域に属するものになったのです。
パウロに先立つヘレニズム・ユダヤ教の時代に、これが神と民族の関係に転用されました。例えば、神が「君たちの願いを聞き入れ、君たちに対して和解されるように」(第二マカベア書1,5他)。「和解される」と受動態が使われているのは、民族の側からのイニシアティヴによる和解行為の対象が神であるからです。つまり、祈りや悔い改めなどの人間からの働きかけがまずあり、これを受けて神が「和解」を受け入れたり、あるいは拒否したりします。
IV
これに対して、パウロの言い方はかなり独特です。その前提は、今日の段落の前半で言われる「キリストの愛」にあります。私なりの翻訳をご紹介します。
キリストの愛が、次のように判断する私たちを支配する。すなわち、一人の者(キリスト)が万人のために死んだがゆえに、万人が死んだ。そして彼が万人のために死んだのは、生きる者たちがもはや自分自身でなく、万人のために死んで起こされた者(キリスト)に生きるためであると。(14-15節)
キリストの愛に捉えられた者たちは、キリストと同様に死と再生を遂げ、キリストに生きる者になる。――これは、ダマスコ途上で復活のキリストに出会うことで、神の律法のために闘うという自覚に生きた自分がいったん死に絶え、異邦人の使徒として再生を遂げた、パウロ自身のキリスト体験の解釈でしょう。つまりパウロは、自分の体験が「万人」を代表すると理解しています。
キリストの死と復活のできごとは、パウロにも死と再生をもたらしました。そして新しく「キリストに生きる」ようになった彼は、もはやキリストをも人間をも「肉に従って」認識することを止め、むしろ「新しい被造物」と捉えます。「古きものは過ぎ去った、見よ、新しいものが生じた」(17節)。神に敵対する挫折した偽メシアとしてイエスを捉えるのでなく、万人の死と再生をもたらす者と認識するとき、人間に対する態度も変わります。つまり「ある人がキリストにおいてあるなら、(その人は)新しい被造物だ」(17節)。
V
この新しい創造のできごとを、パウロは「和解」という外交用語で説明します。「和解」はもともと、人間相互の行為を意味しましたが、パウロはそれを神による人間に対するイニシアティヴに転用します。神は「キリストを通して私たちをご自身と和解させ、私たちに和解の奉仕を与えた」(18節)。先に引用したヘレニズム・ユダヤ教の発言では、〈人間が祈りその他によって神との和解を達成する〉という理解でしたが、ここでは〈神がキリストを通して人間との和解を達成する〉とされています。和解はもはや人間でなく、神の行為です。
続いて、神は人々に「その違反を勘定せず、私たちの間に和解の言葉を立てた」と言われます(19節)。これは神のイニシアティヴについての説明の続きです。過去の罪責を不問に伏すことは、人間同士の「和解」にもありました。しかしここでは、神が人間の違反を勘定に入れないことが、神の敵対者である人間たちからの和解の申し出に先行しています。「私たち」が、「和解させる」という動詞の受動態の主語であることに注意しましょう。和解は、神の側からすでに生じています。
したがって、パウロが「キリストに代わり、私たちは求める。君たちは神と和解されよ」というとき、それは私たちが悔い改めて神に和解を乞い求め、神がそれに合意してくれるようにという意味ではもはやありません。そうではなく、神の側から一方的に実現した和解を、いわば事後承認するようにとの勧めです。
この点に、神の和解が私たちの和解に対してもつ長所がよく表れます。私たちの和解は、つねに条件闘争です。いかに自分が正しく、相手が間違っているかを互いに主張しつつ、「落としどころ」を探る以外に手がありません。これに対して、神が提示する和解を前にするとき、私たちのネゴシエーションは不要です。
そしてパウロはこの驚くべき交換のできごとを、信仰義認論の用語法と結びつけます。
彼(神)は罪を知らなかった者(キリスト)を、私たちのために罪とした、他ならぬ私たちが彼にあって神の義となるために(21節)。
こうして「罪」と「義」が、「キリスト」と「私たち」の間で交換されます。このことを宗教改革者ルターは、人間の罪に対して怒る神が、イエスの十字架において罪そのものを罰したと理解します。それは、キリストの義が私たちを満たして私たちを新しい存在に変貌させるためであり、同時にキリストの死が私たちの罪深さを示すためであると。
V
最後に、神が「罪を知らなかったキリストを、私たちのために罪とした」という独特な表現について考えてみたいと思います。
この発言は、キリストの十字架の死を念頭に置いているように見えます。しかし、そのような無残な虐殺の死に極まったイエスの生の全体を指している、と考えてもよいでしょう。すると、「和解」を目指して分断された人々の間を歩み、苦しみ続けたイエスが、人々の無理解や相互不信、否、そればかりか神に対する敵対関係という「罪」と、むごたらしくも一体化したできごとが彼の十字架の死であったと言うことができると思います。つまり「わが神、わが神、なぜあなたは私を見棄てた」(マルコ15,34)というイエスの叫びは、争いと不信がもたらす苦しみを我が身に経験した者の「うめき」であると言うことが。本物の和解は、そうした苦しみを介して初めて、達成される可能性もあります。つまり「罪とした」とは、神はキリストを人間の罪がもたらす死の運命と一体化させ、他方でそのようなキリストの生が、私たちを義と一体化させました。「交換」とは、そのような意味です。
ならば神は、今もこの世界にあって、キリストの苦しみを通して、私たちに「和解の言葉」を託します。この「和解の務め」を担う私たちが、自分でなくキリストに注目することによって新しい被造物になり、世界の中の相互不信がもたらす苦しみを共に担うことで、その愛に応えることができますように。