2019.01.13

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「イエスの洗礼」

廣石 望

イザヤ42,1-7マルコ1,9-11

I

 先週の主日、4世紀のキリスト教会において、イエス誕生祭と顕現祭を分けて祝うことになったさい、ローマ皇帝の誕生日と即位日が別々に祝われたことが並行事例としてあったことにふれました。そのことをよく示すのが、5世紀の東ローマ皇帝であったテオドシウス2世(在位408-450年)の治世下に編纂された『テオドシウス法典』に見られる次のような言葉です。

われらの主の誕生日、あるいはエピファニアの日もまた広場の喧騒なしに祝われることをわれわれは望む。皇帝の誕生日、あるいは統治の開始は〔クリスマスやエピファニアの祝いの場合と〕同様の畏敬をもって祝われることが相応しい。(同法典2,8,19,4の解釈部分)

 その王としてのキリストの即位を示す聖書テクストが洗礼であり、最初の権力行使を記念するのがカナの婚礼の物語です。

 本日の礼拝では、聖書が報告するイエスの洗礼の記事を手がかりに、それが洗礼者ヨハネにとって、また歴史のイエスにとって何を意味したか、そしてイエスの洗礼が私たちにとって何を意味するかについて考えてみたいと思います。歴史のイエスを視野に入れることで、皇帝の即位式に洗礼式を準えるという、やや権威主義的な仕方とは異なり、イエスの存在を私たちにぐっと近づけることができるのではないか、というのが私の予感です。

II

 先ほど朗読したマルコ福音書のイエス洗礼の記事では、イエスが「ガリラヤのナザレから来る」ことで洗礼エピソードが導入されます。洗礼行為そのものは「ヨハネからヨルダンへと沈められた」と受動形で語られますが(9節)、その後イエスは自ら「すぐに立ち上がり」、ある幻を見ます。「もろもろの天が裂けて、霊が鳩のように彼の中へと降る」というヴィジョンです(10節)。これは神の力が天上世界からイエスの中へと侵入したという意味ですので、これに続く神の声は、イエスの人格の内側で天から響いているのでしょう。「君こそが私の愛する息子である。私は君を喜んだ」(11節)。この表現は、旧約聖書で神が王を「息子」として任命するときの伝統的な言い方です。つまりマルコは、ヨハネによる洗礼をイエスの「神の息子」としての召命ないし任命場面として描いています。後の教会が、洗礼を王なるイエスの即位式と理解したのは、理由のないことではありません。

 もっとも、こうした描写のもうひとつの意図は、イエスをヨルダン川に沈めた洗礼者ヨハネよりもはるかに優れた存在、イエスこそが神の霊を受けた「神の息子」であることを強調することにあります。

 じっさいマルコ福音書を編集した福音書記者マタイは、洗礼者ヨハネに「私こそ、あなたから洗礼を受ける必要があるのに」と語らせ、イエスが「すべての義を満たすのは私たちに相応しい」と応答した上で(マタイ3,15f.)、イエスの指示通りに洗礼が執行されます。つまり、イエスは罪なき「義人」として洗礼されました。同様にマルコ福音書を編集したルカは、洗礼を授けるヨハネの名を明示しません。洗礼執行者であるヨハネを隠した上で、「すべての民」が沈められ、イエスもまた「沈められ、祈っている」ときに天からの聖霊の降臨が生じ、天からの声が「君は私の愛する息子である」と宣言します(ルカ3,21ff.)。

 ヨハネ福音書に至ると、近づいてくるイエスを見たヨハネが「見よ、世の罪を取り除こうとしている神の子羊だ」(ヨハネ1,29)と宣言し、自分よりイエスの方が「優れている」と明言します(30節)。あたかもヨハネは、イエス一人を待っていたかのようです。そして洗礼行為そのものには言及がなく、ただちに洗礼者ヨハネは「私は霊が鳩のように天から降ってくるのを見た。それは、彼の上に留まった」、「この人こそ神の息子だ」(32f.節)と証言します。聖霊降臨はイエスの人格の内側や外側で生じるのではなく、むしろ洗礼者ヨハネがその目撃証言を行います。

 さらに外典『エビオン人福音書』になると、洗礼者ヨハネはイエスの前に「ひれ伏して」、「主よ、お願いです。あなたがわたしに洗礼をお授けになって下さい」と懇願するほどです(断片F)。

III

 原始キリスト教は、イエスを罪なき神の息子にして救済者と理解しました。もっとも、いつイエスが「神の息子」になったかについて、新約聖書の描き方には多様性があります――死者たちの中から起こされたとき(ローマ1,4)、山上で変貌を遂げたとき(マルコ9,7並行)、洗礼を授けられたとき(私たちの箇所)、聖霊による懐妊を通して誕生したとき(マタイ1-2章ルカ1-2章)、そして世界が創造される以前からすでに(ヨハネ1,1ff; ガラテヤ4,4)。復活信仰から出発して、どんどんイエスの生前のできごとに遡りつつ、さらには誕生以前に遡りつつ、彼が「神の息子」であることが主張されたらしいことが分かります。

 それゆえにこそ、すべてのキリスト教伝承は、イエスが洗礼者ヨハネから「罪の赦しに至る悔い改めの水沈め」(マルコ1,4)を受けたという事実の衝撃を消し去ろう、ないし弱めようと努力したのです。この事実はイエスよりヨハネが偉大であること、またイエスに「罪」の自覚があったことを示唆するからです。

 つまり事実としてのイエスの洗礼は、洗礼者ヨハネが宣教した「来るべき怒り」が自分にも迫っていることをイエスが認め、「水沈め」によって象徴的にいったん死に、それによって「罪」赦されることを彼が望んだ結果でした。洗礼は、歴史のイエスにとっても「罪の赦し」だったのです。

IV

 イエスの師である預言者ヨハネが直面していたのは、領主ヘロデ・アンティパス統治下のガリラヤにおけるイスラエル宗教の危機でした。アンティパスは穢れた墓場の上に新しい都ティベリアを建設し、きらびやかな王宮の居室にユダヤ教では禁じられていた動物たちの彫像を飾り、あろうことか兄弟の生前にその妻ヘロディアと再婚しました。これらは、すべて許されざることであり、その下で暮らす民には深刻な汚染が及んでいました。ヨハネは民族のアイデンティティーの危機に直面して、神の裁きの審判を呼び寄せ、民の悔い改めをもってこれに応えようとしたのでした。

 それは、ほぼ同時代の革命家であるガリラヤのユダが、ローマ帝国への税金貢納が第一戒への違反に当たるとして、イスラエルに神権政治を確立することを目指して、対ローマ武装闘争を煽ったのと対照的です。ガリラヤのユダは外部者ローマを攻撃することで、つまり「他罰」的な解決を目指しましたが、洗礼者ヨハネは同様の危機をいわば「自罰」的に、民族の罪責意識と悔い改めの要求へと転じたのです。

V

 では、イエスにとって「罪」とは何であったのでしょうか?

 確かなことは分かりません。――イエスはヨハネから洗礼を授けられますが、後には師ヨハネから袂を分かち、独自の「神の王国」宣教を開始します。そのさいイエスは、師であるヨハネの基本思想を継承します。強烈な一神教信仰、悔い改めと審判思想、またイスラエルの民族的な特権喪失などです。イエスにあっても、人は神の前でとても小さな存在であり、自力で神の前に立つことはできません。

 他方、「神の王国」を宣教し始めたイエスは、荒野に留まったヨハネとは対照的に、村々を訪ねて回り、「極貧者たちは幸いなるかな。神の王国は君たちのものだから」と宣言しました。「あなたの罪は赦された」と言いつつ人々の病いを癒し、悪霊を祓いました。また「罪人」とされた人々と、神の王国の前夜祭としての交わりの食卓を祝いました。

 すると例えば、次のように考えることができるかもしれません。――イエスは、審判を下す神の前で自分が「罪深い」存在であるという自覚をもってヨハネのもとに馳せ参じた。あるいは神殿に詣でることすら憚られるほど「穢れている」と見なされた人々が、「罪の赦し」の最後のチャンスを求めてヨハネの下に赴くのを見て、これに深く同情し、自分も彼らの一人になろうと思ったのかもしれません。次にイエスは、自分のための清らかさを願うあまり、結果的に穢れた人、貧しい人、病いにとりつかれた人々を排除するのを止めて、むしろ彼らをこそ清める神の恵みの力を宣教するに至ったと。つまりイエスはまずは清くあることを切望し、次には清さへの憧れに潜む罪を乗り越えたのです。これは自罰でも他罰でもない、新しい態度です。

VI

 新約聖書がイエスに下ったと語る「神の霊」、それがイエスを真の「神の息子」にしたというキリスト信仰は、こうしたイエスの信仰上の変遷をも包み込む仕方で、理解してよいはずです。

 つまり罪の自覚をもつイエスが「神の息子」であることは、洗礼を通して、〈人間が自分自身について自覚できる以上に、神が真の意味で人間的になる〉ことを意味します。「神の息子」は、たんに人間を超越したスーパーマンのような救済者でなく、私たちが自分に近くあるよりもさらに近い存在として、私たちの罪責を自らのものとする者です。

 使徒信条では、キリストに関して「黄泉に下り」という告白がなされます。この告白は、キリストが私たちの一人として、私たちと同じ罪を背負い、共に地獄に下ったと理解できるでしょう。ならばキリストは、私のことをわが身に知っておられる。これに応えて私たちは、神の前で真に人間らしい人間になってゆくことが求められます。

 洗礼者ヨハネが開始した洗礼という象徴行為を原始キリスト教は継承し、やがてそれはこの新しい宗教共同体の入信儀礼となってゆきました。もちろん、私たちの洗礼執行者はもはや預言者ヨハネではなく、教会共同体です。その目的も、もはや迫りくる最後の審判という緊急事態への対応でなく、生まれ変わって神の民に新しく加えられるためです。私たちはもはや「ヨルダン川」でなく、「イエス・キリストの名の中へ」、つまりキリストが創り出す新しい現実空間の中へと沈められます。つまり私たちは、キリストの霊の注ぎを受けるのです。そのことによって、私たちはキリストと共死共生の関係に歩み入ります。

 そこで、次のように言うことができるしょう。イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けて「神の息子」として即位したのは、私たちがキリストの名に向けて洗礼を受けることで、罪赦されて「神の子ら」になるためであったと。そのさい、歴史のイエスについて私が予想したことがそれなりに当たっているなら、「罪の赦し」とは、私から見て穢れている、劣っている、間違っていると思われる人々にも及ぶ神の恵みを承認することを含みます。確かに、そうして初めて、私たちは真の意味で人間らしい人間になってゆけるでしょう。


 
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