2019.01.06

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「他人のことに〔も〕」

廣石 望

イザヤ45,20-25フィリピ2,1-11

I

 キリスト教会の暦で、本日は顕現祭あるいは公現日と呼ばれます。顕現祭の成立は、キリスト生誕祭つまりクリスマスの成立と関係があります。4世紀前半に西方教会は、12月25日をキリストの誕生祭として正式に祝うことを決めました。新約聖書も原始キリスト教も、まだイエスの誕生祭を知りません。 そしてこれに影響を受けた東方教会は、同じ4世紀の中ごろ、以前は別々にさまざまな日付で祝われていた誕生祭と洗礼祭の二つを統合し、1月6日――もとは処女神コレーの息子アイオーンの誕生祭――を「エピファニア(顕現)」祭として祝うようになりました。

 そして同世紀の後半には、1月6日が、西方発祥のクリスマスを受け入れた東方地域では誕生祭の要素を除いた、洗礼その他の要素を含む「顕現祭」として、他方で、東方発祥の顕現祭を受け入れた西方教会では、洗礼祭を「異邦人への救いの告知」という意味に変更して祝うようになりました。キリストの誕生と洗礼に別々の祭日を当てることは、ローマ皇帝の誕生日と即位日が、それぞれ別の日に祝われたこととパラレルです。(以上、保坂高殿『ローマ史のなかのクリスマス』教文館、2005年を参照)

 もっとも東方教会には、誕生祭と洗礼祭を合わせたかたちの顕現祭を、現在に至るまで保持している流れもあります。例えばベツレヘムの生誕教会で有名なアルメニア教会その他のパレスティナやエジプトの諸教会がそうです。彼らにとっては今日がキリストの誕生祭、つまりクリスマスです。

II

 しかしイエスの洗礼については、次週の礼拝でとりあげることとし、今日は私たちの教会の洗礼式で信仰告白として朗読される『フィリピの信徒への手紙』のキリスト賛歌(フィリピ2,6-11)、その導入部分(1-4節)に注目したいと思います。

 キリスト賛歌そのものでは、神のかたちをもつキリストがその地位を放棄して奴隷のかたちをとって十字架の死を死に、神によって天高く引き上げられて「主」という名を与えられたと歌われます。そしてこの賛歌を導入するのが、その直前に置かれた「めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです」という勧告です(4-5節)。つまりキリストの行為と運命が、信徒たちのふるまいのためのモデルとされています。

 私たちが洗礼式の信仰告白として用いるキリスト賛歌は、どのようなふるまいのモデルなのでしょうか?

III

 その導入部分を、試しにギリシア語原文に沿う仕方で訳すと、およそ以下のようです。

もし何らかのキリストにある語りかけが、もし何らかの愛の励ましが、もし何らかの霊の交わりが、もし何らかの共感共苦が(あるなら)、
2a 君たちは私の喜びを満たせ、君たちが同じことを思うようになるように
――2b (i)同じ愛をもちつつ、魂を分かち合う者たちとして、ひとつのことを思いつつ、
(ii)何ごとも敵愾心によらず、虚栄心によらず、むしろ低き思いで互いを自分より優れていると考えつつ、
(iii)それぞれが自分の事ごとでなく、むしろ各人が他者のことに[も]目を向けつつ。

 パウロはまず「もし何らかの〜があれば」という仮定的な言い方をします――もし何らかの「キリストにある語りかけ」「愛の励まし」「霊の交わり」「共感共苦」があるなら(1節)。このことは、私たちが互いに信頼をもって生きるのは必ずしも自明のことでなく、その前提ないし根拠となるものが、いくばくかなりとも前もって与えられている必要があることを示します。

 冒頭の「キリストにある語りかけ」とは、おそらく〈キリストを通して神が私たちに語りかけている〉という実感です。これは、信頼をもって生きようとする者たちが、自力で作りだせるものではありません。むしろそのような人々が、神から等しく受けとったものです。「愛の励まし」も〈神が人間を愛し、励ます〉という経験が前提にあり、それに応答しつつ人間同士が愛し、励ますということでしょう。それが証拠に「霊の交わり」と言われるときの「霊」とは、まず間違いなく神の霊のことです。その「交わり」とは、神の霊を〈共有〉すること、この世の限界を超える神の創造的な力に共に与ることです。それが、私たちの間で「共感共苦」――原文は「腸と胎」と訳してもよい相互の連帯を表す強烈な身体言語です――として具体化するのでしょう。 続いてパウロは、フィリピ教会のメンバーたちに、「私の喜びを満たす」よう願います。その内容は、「君たちが同じことを思うようになる」ことです(2a節)。

 これは、パウロによる信徒たちのマインドコントロールを意味するでしょうか。いいえ、そうでないことは、「同じことを思う」が具体的に何によって達成されるかを述べる、直後の発言から分かります。すなわち「同じ愛」とは、神とキリストとパウロと信徒たちを相互につなぐものであり、信徒たちは「魂を分かち合う者たち」として、ひとつのことを思うよう期待されています(2b節)。これは思考の画一性を意味しません。むしろ愛と魂と思いの共有です。

 そのことはさらに、「〜でなく、むしろ〜」というnot, butの構文で、二通りに言い換えられます。すなわち〈敵愾心や虚栄心によらず、自分を低くして互いをより優れた者と認める〉ことによって(3節)、また〈自分のことでなく、自分でない者たちのことに目を向ける〉ことによって(4節)。これらの勧めは、共同体の一致を目指していると思います。

 この勧告は、古代ローマ社会のとりわけエリートたちの間で〈常に上を目指す〉というメンタリティーが支配的であったこと、〈威張る〉のが当たり前であったこと、また自分たちの間で派閥争いをし、場合によっては陰謀や粛清によって政治的な敵を抹殺していたことと、みごとに対照的です。

IV

 4節後半の「他者のことに[も]」の「も」がカギ括弧に入っていることに、ご注目下さい。現代のあらゆる聖書翻訳の底本として用いられる、ギリシア語新約聖書の校訂本でそう表記されています。この記号は、新約聖書の写本に「もkai」があるものとないものがあり、両方の読みについて諸写本の重要さのていどが拮抗しているので、どちらが元来のものであるか判別がつきかねるという意味です。

 日本語訳聖書では、この括弧表記は――煩わしいのでしょうか――あっさり無視されます。そして新共同訳聖書でも、つい先ごろ公刊された協会共同訳聖書でも、まったく同一の文言でこう訳されます。

めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。

 じつは「も」のあるなしと並んで、「自分のことだけでなく」という訳文の「だけ」も原文にありません。つまりこの翻訳は「も」を生かすために、原文にない語である「だけ」を新たに補って、つまりはnot only, but alsoの構文の意味に理解しています。

V

 そのようにパウロの発言を理解するとき、全体は次のような意味に理解されるでしょう。すなわち〈まず自分のことは自分でしっかりやりなさい。でも、それだけでなく、できれば他人の面倒も見なさい〉と。これは世間の常識にも合致する、まっとうな教えです。〈やがて人の役に立てるよう、まずは私自身がしっかりしなくっちゃ!〉という意味にとれば、若者の向上心や自立心を育てることにもつながると思います。

 しかしながらその場合、何も私たちが愛や魂や思いを共有したり、他者を「自分より優れている」と考えたりする謂れは、必ずしもないように感じます。まずは私自身が自分を確立し、他人にもよいことを提供できるという意味では、他人より優れた存在になることが優先されるはずですから。ましてや、神のかたちであるキリストが、自分を「虚しく」して奴隷のかたちをとったり、あろうことか自らを「卑しく」して十字架の死を死んだりしなければならない必然性はさらさらありません。天の高みから下界を見下ろし、〈人間たちよ、自分の世話は自分でしろ。そして他人の面倒もたまには見てやれ!〉と命じればすんだはずです。

 では、「も」がない本文は、どのように理解できるでしょうか? 私に思いつくのは、not just, but rather に近い構文理解です。つまり〈ただ自分のことを考えるのは止めて、むしろ他人のことを気にしなさい〉。たしかにパウロ自身が、直前の文脈で次のように発言しています。

一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと(私は)熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。(1,23f.

 パウロは個人的な願望よりも、共同体の要請を優先することにしたのでした。キリストについても、有名な日本の賛美歌で次のように歌われます。

食するひまも うちわすれて、
しいたげられし ひとをたずね、
友なきものの 友となりて、
こころくだきし この人を見よ (『讃美歌21』280番、第2節)

 こうしてみると、「も」を含まない読みは、内容的に見て、本来のものである可能性が十分あります。

VI

 歴代のキリスト教徒たちは、この箇所を、いまご紹介した二つの意味で読んできたと思います。つまりnot only, but alsoの読みは、個の確立を前提に、他者への配慮を勧めており、これはこれで立派な倫理です。他方でnot just, but ratherの読みは、自分よりも他者への配慮を優先させており、パウロやキリストはこれに即して生きました。しかし他者を優先させる生き方は、なかなかリスキーです。私が他人のお世話をしても、誰も私のことをかまってくれなかったら、私はまるまる損をするだけではありませんか!

 パウロは自分でアルバイトをしたり、あるいは義援金をもらったりしながら、キリスト教共同体内外の他者のために懸命に働きました。そのさい、彼が自分の世話を最優先しなかった、ないしそうせずとも何とかなったのは、同じように他者への配慮を優先させる仲間たちが、愛と魂と思いを共有し「互いを自分より優れていると考える」者たちが、つまり志を同じくするサポーターたちがいたからです――例えばフィリピ教会のメンバーたちのような。

 私たちもそのような共同体に近づきたい、少なくともそのような生き方をよしとする心意気をもって互いを重んじる姉妹兄弟たちになりたい、そして、そこから生まれる平和を世界に向かって証ししたいと願います。


 
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