今月初め、祈り会の聖書研究でヨハネ福音書全21章を60回にわたり、一年八ヶ月かかって読了しました。読んでおりましてあらためて感じたことは、共観福音書との明らかな違いでした。とりわけ最初の1章には、誰でも驚かされると思います。「初めに言葉があった」と、創世記を彷彿させる表現にまず共観福音書にはない異変を感じます。言(コトバ)と訳されている原語は、ロゴスというギリシャ語です。言の他に理性とか議論とか原理とかとも訳されます。このロゴスが神と共にあった、あるいは万物はロゴスによって成った、とか続きますので、最初は何のことやら訳が分からなくなります。ロゴスキリスト論などと呼ばれていますが、どうもこのロゴスなる存在は、最初のうちは神様の創造の業における道具みたいな存在だなと思っていると、読み進むに連れて、どうもそれだけではなく、生ける人格として、神様とは区別されながらも、どうも神様とは同一らしいということを感じられるようになりました。私の経験です。
ヨハネ福音書記者がこのロゴスへの賛歌を福音書の冒頭にもってきたのは、おそらく初代教会には既にロゴス賛歌なるものがあって、それをこの福音書の記者が取り入れたということだと思います。1章の18節まではこのロゴスへの賛美が続いています。ロゴスは永遠の初めからの存在であり、天地創造における役割などが述べられた後、きょうのテキストで、ロゴスが肉をとって救いを完成させる、という喜ばしい出来事としてまとめられています。
私はロゴスを神様、イエス・キリストと同一と捉えてこの福音書を読み進めました。有名なドイツの神学者が、この福音書と当時大きな影響力をもっていたグノーシス思想との関連を論じたので、グノーシス思想との関係を追求する研究も盛んになりましたが、この方向で考え始めると、グノーシス思想に不案内な私などにはまとまりがつかなくなりそうでしたので、私は基本的にロゴスは神でありイエス・キリストである、と位置付けて読み進みました。
で、きょうのテキストの内容ですが、キリスト教用語で言えば、まさしく「受肉」ということに尽きます。14節には 『ロゴスは肉となった』 とはっきり書かれています。この部分を取り上げて、キリスト教は伝統的にロゴスの受肉こそがヨハネ神学、あるいはヨハネのキリスト論の中心だと見なしてきました。私はそれは間違いではないと思っています。しかし中心はむしろ18節におかれているのではないか、という見方もあり、それによれば、ロゴスが神であり、かつイエスであり、また独り子なる神であるという理解が論理的な結論になると思います。これもまた正しい見方だと思います。
15節で福音書記者は洗礼者ヨハネを取り上げて、彼の役割について語り始めるのですが、この一連の流れには逆説的な発想が込められているような気がします。『言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。』 とありますが、逆説ということを考えると、「わたしたちの間に宿られた」ということは、人間イエスがまったく無力で貧しくみすぼらしい姿でこの世に現れたことにつながってきます。罪に満ち溢れた人間世界に、それこそ私たちの現実の歴史の真っ只中に、一人の人間として、ロゴスは高々30年ほどの人生を生き抜いたのだ、という逆説です。
福音書記者の脳裏にはロゴスの背後にイエス・キリストの姿が明確にあったと思いますが、ロゴスが神であり、イエスであり、神の独り子だという見方は、どう考えてもユダヤ人には受け入れられなかった思想でしょう。人間には想像もつかないほど隔絶された絶対者である唯一神としての存在に、少しでも疑義を挟むような考え方は許されないことでした。ロゴスにしろイエスにしろ、ユダヤ人には神とつながるような別の存在を発想すること自体が神への冒涜です。
神様を父と呼び、自分とのつながりを強調されたイエスさまの在り方は、どうしてもユダヤ人たちの神観とぶつからざるを得ませんでした。ところがヨハネ福音書記者が捉え、私たちも信じている神様は、ご自分の方からグッと私たちの方へ近づいて来てくださる神だったわけです。そのことを福音書記者は、ロゴス賛歌にあてはめながら強調したと思われます。
私たちキリスト者にとってイエスさまは優れた預言者の一人といった存在ではありません。私たちにとってイエスさまは、あえて言えば、終末論的に、神様ご自身が自らの独り子の神をこの世にお遣わしになり、文字通りまったき一人の人間として、この世に誕生させてくださったお方です。このお方が通られた十字架と復活こそが人類を贖う最終的な救いとなったことこそが、私たちの信仰のエッセンスです。この事実を証しする人物として洗礼者ヨハネはテキストに登場しています。
ユダヤ教やイスラム教の唯一神と私たちキリスト教の唯一神の違いを理解する鍵として、私は三位一体という理解の仕方が一番有効だと思っています。ただ神とか絶対者とか言っても、漠然として捉えどころがありませんが、子なるイエスと聖霊が一体なのだと分かると、神様という存在が、俄然自分の方に近づいて来るのです。ヨハネ福音書記者はこのことを多くの箇所で強調しています。
三位一体なんて聖書のどこにも書いてない、と主張する教派もありますが、私は素直に聖書を読んでいれば、とりわけこの福音書を読み進んでいけば、身近なお方である神様を自然に感じられると思いました。17節には 『律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた』 という表現があります。モーセはイスラエル民族の中で最大の人物と言ってよいでしょう。非常に高められ神秘化されている点に注意する必要がありますが、族長物語に比べればはるかに史実性も高い存在です。福音書記者はこのモーセをイエス・キリストと比較しているのです。
律法は言うなればユダヤ教のすべてですが、この旧約の律法をはるかに乗り越えた神様の恵みと真理が、イエス・キリストを通して与えられたと言っています。神様の恵みはよく分かりますが、真理という言葉が多少分かりにくいかもしれません。 真理はアレーセイアという語です。これは人間の感覚により覆い隠されている真の現実を、理性の眼をもって見るという哲学用語で、覆われたものを取り払うという意味で使われています。旧約聖書ではエメスという語ですが、これは律法に添った神様が欲する状態を意味します。正義とか公平とか救いとかと軌を一にする言葉です。
旧約では、この神様のエメスを信じ、これを告知する預言者の声に耳を傾けることが人間にとり最も大切なことだ、という意味で使われます。ヨハネ福音書は、この理解の延長線上に、イエス・キリストを位置付けます。そこでは預言者の言葉に耳を傾ける以上に、十字架と復活のイエス・キリストを通して、真実なる神様に出会うことが一番重要なのだと言うのです。十字架と復活のイエス・キリストがもっともよく主なる神様を表しており、そこでは神様がこの私をどのように見て下さっているかが、はっきり分かる、というのが福音書記者の言いたいことだと思います。
私たちはこのクリスマス、この神の独り子イエス・キリストの誕生を祝いました。明日は大晦日ですが、信仰生活の新たな一年はすでにスタートしています。来たる2019年も、信仰の確信に満ちた歩みを進められるよう、ご一緒にお祈りしましょう。