テキストは洗礼者ヨハネ(バプテスマのヨハネ)について記しています。私は高校生の時、CSのお手伝いをしていて洗礼者ヨハネの紙芝居を見たことがあります。とても印象的な絵で、ヨハネは毛皮を身につけて、顔中ヒゲだらけでした。最初に出会った絵の印象は強烈で、そのイメージから解放されるには相当年月が必要でした。有名なロゴスの賛歌につながるように、ヨハネ福音書はすぐに洗礼者ヨハネについて記しているわけですから、記者は相当ヨハネの役割について気を配っています。もちろん伝承があったわけですが、編集作業の中で、彼をどのような人物として描こうか、その存在をどう位置づけるか、かなり気を揉んだことでしょう。
ヨハネ福音書では、共観福音書のようにいきなり洗礼者ヨハネが荒れ野で激しさを感じさせるような悔い改めの説教をする、というシーンはありません。ヨハネの役割を描くことだけに特化されているような気がします。一言で云えば、洗礼者ヨハネの使命はひたすら主イエスの証人であることです。戦後クムランの洞窟で「死海文書」が発見されて、いろいろなことが分かるようになりました。イエス時代までも遡る文書ですから、当時洗礼者ヨハネをメシアあるいは預言者のように仰ぐグループが存在していた、と考えられています。死海文書からクムラン教団の存在が注目されるようになり、エルサレムのような都会から離れた、例えば荒れ野のような場所で、彼らは信仰生活を送っていたらしい、というようことも見えてきました。洗礼者ヨハネはクムラン教団と関係があるのではないか、とも言われます。
それはともかく、見る角度を変えると、キリストが真の光としてこの世に来たり給う時に、神様は時を同じくしてキリストを証明する人物を世に遣わされた、ということです。つまりイエス誕生に重なるように、神様は洗礼者ヨハネをこの世に送られたのです。ところがこの世の人間にはなかなかキリストという真の光が見えなかったように、洗礼者ヨハネの実体も分からなかったようです。そのことがエルサレムの宗教指導者たちが当時の様々な宗教運動に対して神経質になっていて、ぞくぞくと洗礼を受ける人たちがヨハネのもとへ集まっていたことを無視出来なかった、ということに表されています。また、そうした状況がヨハネのもとへ出向いて行ったいろいろ質問したという記事の背景です。
『あなたはどなたですか?』 という質問に対して、ヨハネの答えは 『わたしはメシアではない』 です。『エリヤですか?』 という問いにも 『そうではない!』 と否定しています。世の終わりにメシアが出現する前触れとしてエリヤは見られていたわけですし、『預言者か?』 という問いの中にも、メシア出現の前には預言者が現れて、神の国とメシア出現に対して悔い改めを宣べ伝えるという考え方が関係しています。
ですから洗礼者ヨハネをメシアのように捉えていた人は当然いたと考えられます。そういう当時の状況に対して、この福音書の記者は、洗礼者ヨハネこそが、イザヤ書40章にある 《荒れ野で叫ぶ声》 だと指摘します。最初に 「記者はヨハネの役割について気を配っている」 と言いましたが、もう少し丁寧に言うと、とても目立つヨハネの存在の積極的役割をひたすら否定しようとしているのです。洗礼者ヨハネはあくまでも神様からの前触れの声、つまり証人です。
24節には 『遣わされた人たちはファリサイ派に属していた』 という表現があるのですが、19節にあるように祭司やレビ人がヨハネの許へ遣わされたはずですから、いくら何でも祭司やレビ人がファリサイ派に属しているはずはありませんから、この辺の記述は記者の中に何か混乱があったのかもしれません。とにかく最初の質問をまとめるようにファリサイ派の人たちは、『あなたはメシアでもエリヤでも預言者でもないのに、なぜ洗礼を授けるのか?』 と尋ねています。
ちょっと意外なのは、この質問に対して洗礼者ヨハネは質問の内容には直接答えずに、 『わたしは水で洗礼を授けるが、あなた方の知らない方がわたしの後から来られて、わたしはその方の履物をひもを解く資格もない』 と言い、さらに今日のテキストに続く部分で、『その人は聖霊によって洗礼を授ける人だ』 と言うのです。ですから 『あなた方は知らない』 という言い方の中には、『あなた方は聖霊を受けていない人だ』 ということが暗黙のうちに含まれているのでしょう。
イエスさまは洗礼者ヨハネよりも後に生まれています。その公の活動もヨハネの活動の後です。そのヨハネはなぜ自分の後から来たイエスさまをメシアとして信じたのでしょうか。福音書記者はその第一の理由を預言者イザヤの言葉に置いています。イザヤの 『わたしは荒れ野で叫ぶ声である。“主の道をまっすぐにせよ” 』 に触れた時に、ヨハネは自分がその声であり、イエスその人こそがメシアであることを確信したのでしょう。その時こそが、ヨハネに聖霊が降った時だったのです。
来週はいよいよイエスさまの誕生を祝うのですが、救い主の誕生に対して、洗礼者ヨハネという準備する人が必要だったのです。私たちもただ漫然とクリスマスを迎えるのではなく、自分なりの準備をすべきだと思います。洗礼者ヨハネが宣べ伝えたように、悔い改めて罪の赦しを乞うことも大切ですし、ヨハネがこの世的な贅沢を一切取り除いた生活をしたように、断食的な備えをすることも有意義でしょう。自分にはどういう準備ができるのかをよく考えながらアドベントを過ごすことには意味があります。
世の中のクリスマスは既にその意味を失っています。世の人が準備するのはクリスマスに名を借りた歳末商戦であり、どれだけおいしい飲食物にありつけるか、だけでしょう。クリスマスの本質を貶めてはならないと思います。神様は私たちの生も死もそのみ手の内に握っておられる方です。そのことがどんなに感謝すべき素晴らしいことか、それを知らしめるために独り子イエスさまを私たちの世に送ってくださり、その前備えに洗礼者を遣わしてくださいました。そのことをしっかり受けとめつつ、クリスマスをお祝いしましょう。 祈ります。