2018.11.18

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「恐れるな」

秋葉正二

創世記22,9-12ヘブライの信徒への手紙11,17-29

 「ヘブライ人への手紙」は手紙とありますが、いわゆる個人的な私信ではなく、公の公有書簡です。あえて言えば説教を文書の形にまとめたものと言えます。内容は多様な議論や勧告などがありますが、大祭司論は皆さんにもお馴染みな部分だと思います。きょうのテキストのテーマは《忍耐》と表現してよいでしょう。信仰生活にも忍耐が必要なことが勧告され、信仰による忍耐ということが旧約聖書の信仰の英雄たちのいろいろな例を通して述べられています。で、結論は忍耐をもって信仰の生涯を走り抜くようにという勧めになります。

 ヘブライ書にはもともと旧約の引用が多いのですが、そこに解説が付いていまして、それがまた重要な役割を果たしています。その旧約の解釈も、ある時はキリスト論的に、ある時は予型論的にと展開されていまして、結局著者はキリスト教がユダヤ教と連続していることを示しながら、キリスト教はユダヤ教よりも優れていますよ、と結論づけるのです。別な言い方をすれば、旧約聖書の啓示はまだまだ不完全で、これが新約聖書において完全なものとなるという主張でもあります。

 旧約と新約の間にはいろいろな相違がありますが、連続している部分としては、旧新共にイスラエルの生ける神さまの働きが創造の業以来続いているという点が挙げられます。さて、先ず17節に、創世記22章にある有名なアブラハムによる 《イサクの奉献》の物語が取り上げられます。アブラハムは神さまから 『あなたの愛する息子独り子イサクを連れてモリヤの山で彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい』 と命じられます。普通に考えれば子供の命を取れということですから理不尽極まりない話ですが、ここにアブラハムの信仰が絡みます。

 その件を読んでいきますと、アブラハムの心には神さまの言葉を疑うというようなことが何もないことに気づきます。ストーリーはイサクを屠ろうとした直前に神さまがアブラハムを制止されるのですが、その時神さまはアブラハムに、『あなたが神を畏れる者であることが、今、分かった』 と言われて、『あなたは自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう』 と約束されています。

 この物語はパウロもロマ書で引用しています。また、19節には 『アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです』 とあります。この部分もパウロはロマ書(4章)で引用しました。ヘブライ書の著者は、アブラハムがなぜ神の理不尽な命令に従ったかの理由を、アブラハムが神の創造的な力を信じていたからだと捉えています。

 この点を聖書学者たちの中には、それは来るべきイエス・キリストの死と復活を前もって示しているのだ、と解釈する人もいます。創造の神に対する確固たる信仰をアブラハムが持っていたとするならば、それは私たちにとっても確かに神さまを信じる一つの信仰の見本になります。なにしろ命を生み出される神さまなのですから。イエスさまを十字架の死から甦らすことのできる神さまなのです。

 そして20節からの話の展開は、イサクとヤコブの故事に移り、族長の系譜を辿りながらヨセフの物語にまで至ります。ヨセフはご承知の通り、紆余曲折を経てエジプトの宰相にまで上り詰めた人ですが、その臨終の際に、『信仰によって、イスラエルの子らの脱出について語り、自分の遺骨について指示を与えた』 と記されています。ヨセフはエジプトに父ヤコブや兄弟たちまで呼び寄せていますが、心はずっと故郷、神の祝福である約束の地カナンにあったということでしょう。

 そして23-29節はヨセフの臨終の言葉を受けるように、モーセのエジプト脱出の顛末が要約されて語られます。勿論ハイライトは、民を引き連れてエジプトを脱出後、エジプトの追っ手に迫られながら、紅海を渡るシーンです。29節にはこう書いてあります。『信仰によって、人々はまるで陸地を通るように紅海を渡りました』。ヘブライ書の著者にとって族長物語もモーセ物語も、慣れ親しんできた自分の信仰に確かな導きをもたらしてくれる故事だったのだと思います。

 モーセの紅海を渡る物語については、私にも忘れられない思い出があります。鹿児島時代のことですが、地区の中高生たちを毎夏いろいろな所に引率して行って、共に学びました。ある夏、薩摩半島の突先近くにある指宿教会の会堂を宿泊場所にして夏期修養会を開きました。指宿の海岸には沖合に知林ヶ島という無人島があります。この島は潮が引くと島まで通じる陸地が現れます。この潮の満ち引きを利用して、私たちスタッフはモーセの紅海を渡った記事を体験しようと呼びかけて中高生たちを引き連れて島まで渡りました。「ああ、モーセはこんな感じで紅海を渡ったに違いない」と中高生たちが納得してくれました。

 さて島からの帰り、時間が少し遅れてしまい、渡っている途中で潮が満ちてきて、全員ずぶぬれで海岸に辿り着きました。その時また一人の中学生が 「エジプトの追っ手に迫られる気持ちが分かりました」 と感想を述べてくれました。一同でモーセの故事を追体験したひとときでした。

 それはともかく、旧約の物語を読む場合、その場にいるつもりで読んでみるというのは結構大事なことではないかと思うのです。ヘブライ書の著者もそういう気持ちで物語の中に入っていったのではないかと思いました。書かれていることは信仰に関することですから、たとえ荒唐無稽な筋書きであっても、そこから信仰的な真理を取り出すことは可能なのです。

 ヘブライ書の著者はそうした調子で次から次へと旧約の故事を書き連ねて行きます。娼婦ラハブの話が出てきたかと思うと、ギデオンやサムソンたち士師たちが登場し、ダビデやサムエルも出てきます。その上で著者は言うのです。『また預言者たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう……』。しかしそう言いながらも、『信仰によって、この人たちは国々を征服し、正義を行い、約束されたものを手に入れ……』 と、再び留まる所を知らぬかのように語りが続くのです。

 しかし今度は35節後半から調子が一転して、主人公たちがとんでもない目に遭遇していく様子が語られ始めます。拷問にかけられたり、嘲られたり、鞭打たれたり、鎖につながれ投獄される目に会ったり、とあります。挙げ句の果てに彼らがどうなったかと言いますと、石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、荒れ野や岩山をさまよい歩いた、と記されています。

 これは勝手にいい加減なことを書いたのではなく、言い伝えや伝説に基づいた記述なのです。たとえば、イザヤは木製ののこぎりで引かれたし、剣で切り殺されたのはエリヤの時代の預言者たちです。イエス時代に近づくと、ギリシャの神ゼウス崇拝を命じたシリアのセレウコス朝に対し、自分たちの信仰を守ろうと戦った自由の戦士たち、マッタテヤとかユダ・マカビーとかが、羊や山羊の皮を着て岩穴や地の割れ目を転々としながら厳しいゲリラ戦を繰り広げました。エレミヤの最後は鎖に繋がれエジプトに連行され殺されたと伝えられています。

 つまり旧約の信仰の勇者たちはほとんど殺されているのです。38節の終わりに 『世は彼らにふさわしくなかった』 とありますが、それは神のいないところに成立した人間社会は、たとえ一時的に信仰者を受け入れたとしても、その動機は信仰とは無関係なのだということを語っています。拷問にかけられて殺されていった信仰の英雄たちを例に挙げれば、著者はそこに、彼らは死そのものを克服して、復活を信じて耐え抜いたのだ、という強固な信仰を見て取っています。こうした信仰者の姿が新約時代になって、ローマの圧政に殉教していった教会指導者たちの姿に重なっていったのは自然なことでしょう。

 イエス・キリストの十字架と復活の信仰が確立していく道筋に旧約聖書があることは確かです。それはイエスさまの言葉の端々に旧約聖書の言葉が裏付けられていることと共通です。だから私たちは旧約聖書をしっかり読まなければなりません。旧約の信仰者たちに約束された救いは、イエスさまによって確証されて、新しい約束・すなわち《福音》として新約聖書の時代に世界中に告げ知らされています。旧約の信仰者も新約の信仰者も同じ神さまの許に繋がっています。どちらもイエス・キリストにおいて完全な救いへと導かれている……ヘブライ書の著者はこのことを言いたかったのではなかったのかと思います。祈ります。

 


 
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