新約聖書の主人公はナザレのイエスと呼ばれた人です。キリスト教は世界人口の30数%を占める世界宗教ですが、なぜそこまで広がったか、その一番の理由は、イエスと呼ばれた人が 「人間は死んで消滅してしまう」 という人間誰もが悩んだり苦しんだりする問題に対して、「そうではない」と言う新たな希望を与えたことです。死は私たちにとって大きな問題で、死ぬのは自分だけでなく、愛する人もいずれ死んでいなくなります。人を愛さなければ生きていけない私たちにとって、死別ほど酷な現実はありません。愛情が深ければ深いほど死別の苦しみは増します。きょうは召天者記念礼拝ですが、私たちはこの世で死別した愛する人たちのお写真を持ち寄って並べました。
イエス・キリストは「死んで終わり」どころか、「死後にまた会える」というメッセージを確信として、当時の人々に、また現代人にも残してくれました。イエス・キリストに真実に出会うことができると、嘆き悲しむしかない苦しみが再会の希望へと変えられるのがキリスト教の信仰です。ナザレのイエスはそのような真理を伝えるお方として活動されました。私たちキリスト者は敬称愛称を込めて主イエスあるいはイエスさまと呼びます。きょうはヨハネ福音書からそのイエスさまの、死を凌駕する「永遠のいのち」について学びます。
それにしても死は本当に厄介な事柄です。先の戦争では多くの人たちが死にました。戦争はまさしく死を現実化する出来事です。日本は戦争に負けて、戦後満足に食べられない時代を体験しましたが、食べられない状態は何をもたらすかと言えば、「とにかく生きたい」という強烈な意識を日本人にもたらしました。空腹の中では、「生きる価値とは何か」といったようなテーマを考える余裕はなかったと思います。「食いたい」が「生きたい」となり、強烈な生存意欲を生み出したのが、終戦直後の時代です。空腹が「必ず訪れる死」を意識させなかったと言うことができると思います。高度成長時代には反戦思想などが盛んで、これまた「必ず訪れる死」について充分に落ち着いて考えさせませんでした。私など団塊の世代は少なくともそうです。
なぜこんなことを語っているかと言いますと、実はきょうの聖書テキストで述べられていることが人間の命とか死に関することだからです。イエスさまは 『わたしは命のパンである』 と言われ、『これは天から降ってきたパンであり、これを食べる者は死なない』 とも言われています。興味深いことですが、この一年以上私は「祈り会」の聖書研究でヨハネ福音書を読んできたのですが、この福音書は「信仰」を名詞的に表現せず、いつも信じるとか信じないとか動詞形で表現するのです。動詞形で表現するということは、「信仰」を信仰箇条とか教義のように論理的に、知的に扱わないということではないでしょうか。
ヨハネ福音書において信仰は、人間の主体的行動を問うものだと思います。イエスさまの前に立たされて、私たちは「主よ、信じます」あるいは「信じることができません」と決断を迫られるのが、ヨハネ福音書の「信仰」です。どの宗教もだいたい教義を持っています。その確立された固定的な教えを信徒の方達は一所懸命に理解しようと努めます。その場合、信仰は何か知識を身につけるように所有するものになるのではないでしょうか。
キリスト教も信仰告白とか使徒信条のように、たくさんの信仰箇条を持っています。それを基準にいわば信徒の信仰度を測るものとして、「信仰告白を尊重せよ」と声高に叫ぶ人が出てきます。ヨハネ福音書はどうもそういう信仰の捉え方はしていないのではないかと思うのです。イエスさまはきょうのテキストで 『わたしは命のパンである』 と言われ、『わたしの与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である』 と言われます。与えると訳された原語(希,ディドーミー)は英語のgiveの意味ですが、辞書を引くと「引き渡す」「捨てる」という意味もあります。この意味で訳すと、「世のために引き渡す(捨てる)わたしの肉」となって、福音書記者はここにイエス・キリストの十字架の死、贖罪の死の意味を込めたのではないかと思えるのです。つまりイエスさまは世(希,コスモス)を生かすためにご自分の肉/体を「引き渡す、捨てる」と言われていることになります。そしてここから、天からのパンを食べるとはどういう意味なのかという話を展開されて行くのです。
また、51節以下の部分には、当時紀元1世紀に行われ始めていたいわゆる聖餐式の式文が反映されているという見方もあります。聖餐式はご存知のようにイエス・キリストの体と血を想起してパンとぶどう酒を頂くキリスト教の重要な儀式です。イエスの肉を食べ、血を飲むと言えば、非常にどぎつい表現になります。ユダヤ教では血の中に人や動物の生命があると考えましたから、血を飲むことは禁止されていました。そうした伝統の中でイエスさまは54節にあるように、『わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる』 と言われたのですから、ユダヤ人たちは到底受け入れられなかったでしょう。この意味でイエス・キリストの福音は、明らかに反ユダヤ教です。ヨハネ福音書は、イエス・キリストが単に神の御旨を深く伝えたというだけでなく、イエス自らが神に代わって人を赦し、また裁き、奇跡を行い、自らの言葉と行為を神の言葉と行為とされた、と強調しています。父なる神とイエスが一体となるなど、ユダヤ人にとっては神の冒涜以外の何物でもなかったのです。ユダヤ人たちがイエスを殺そうとした理由はそこにありました。
キリスト教の福音の中心は、ナザレのイエスとしてこの世に生まれた方が、十字架にかかり、復活されたというその生涯自体が神のみ心と行為であったという点に集約されます。ご自分で十字架への道を決断されたことに、人を愛される父なる神とイエスさまの姿がよく示されています。52節にある 『どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか』 というユダヤ人たちの議論は、イエス・キリストの真相を知らない愚かな人間の代表としての姿です。先ほどヨハネ福音書は信仰を動詞的に表現していると言いましたが、信仰は私たちが自分の知恵や力で所有することができません。聖霊と呼ばれる神様の働きを求めつつ、「神様、私は信じます」 と決断的に口にすることから信仰的な歩みが始まります。私たちは「命のパン」がキリストの十字架上の血と肉を指し示している、と受けとめてよいと思います。少なくともキリスト者はそう信じて歩んでいます。
きょうのテキストに続く部分では、この話を聞いて弟子たちの多くが離れ去ったと書いてあります。その時イエスさまは12人の弟子たちにこう言われました。“あなたがたも離れて行きたいか”。筆頭弟子のペトロが応えます。“主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます”。12人はこの「永遠の命」をイエス・キリストの中に発見し、失敗を繰り返しながらも、みな殉教の道を歩みました。私たちはこの十字架と復活の福音を聖書から示されています。先に召された多くの兄弟姉妹方は、この福音を信じて生き抜かれました。お一人お一人の生涯が、それぞれ十字架と復活を証しする生涯でした。先達の信仰から、私たちも自らの生き方を学びたいと願っています。
お祈りします。