2018.11.04

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「聖なるヨベルの年」

秋葉正二

レビ記25,13-28フィリピの信徒への手紙4,10-20

 もう亡くなりましたが船戸与一という作家がおります。私は30年以上前からこの人の作品を愛読してきました。中でも特別印象に残っているのは、「砂のクロニクル」という作品です。日本冒険大賞と山本周五郎賞を受賞した作品ですが、主な舞台はイラン、背景にはイラン・イスラム革命があります。登場人物は、イラン革命防衛隊の若者やメンバー、少数民族クルド人の独立のために武装蜂起をするゲリラ、グルジアマフィアそして日本人武器商人などですが、各章で主人公的な人物が活躍するのですが、全編を通しての主人公はいないような気がします。 一人ひとりがそれぞれの思惑を持ってそれぞれの正義のために戦う物語なのです。

 壮大な物語ですが、興味しろいのは巻頭で作者が物語に関連する暦についての注釈を数ページにわたって書いている点です。暦が作品全体の軸として設定されています。まず西暦。これはニカイア会議でローマ教皇グレゴリウスが制定したキリスト教の暦です。それまではユリウス暦ですが、そこに混入していたユダヤ教的残滓を一層するための政治的宗教的な世界制覇を宣言する暦でした。各章の初めに登場人物の誰をメインにしているかを示すために西暦の他に、ペルシャ暦(ジャラリ暦)・イスラム暦(ヒジュラ暦)による日付が記されています。なぜ暦について述べているかと言いますと、きょうのテキストであるレビ記の中にも暦に関わる事柄が出てくるからです。

 レビ記と聞いて、「ああ、礼拝・儀式に関する法が沢山出てくる書物か」 と、諦めないでください。25章は神聖法集と呼ばれる一部でして、安息年とヨベルの年についての規定が記されています。暦は時の流れを支配する支配軸によって規定されます。きょうのテキストで言えば、神さまがイスラエルの人々の日常の時の流れの中に介入される話なのです。もちろんイスラエルにはユダヤ暦があるのですが、神さまはそこに天体の動きとは別の新しい視点とも言うべき暦を持ち込まれて、時の流れをちょっと変えられました。それが安息年とヨベルの年という時間の流れを変えてしまう問題提起です。

 これらについては1-7節及び8-17節にそれぞれどういうものなのかが書かれています。 安息という表現のルーツはもちろん創世記の天地創造物語です。神さまが天地を創造されて7日目に休まれたというあの記事です。また古いものとして出エジプト記23章10,11節に安息年の説明が載っています。 これは週単位ではなく年単位で時の流れを捉えた考え方です。6年間自分の土地に種を蒔いて産物を取り入れよ、しかし7年目は休閑地にして土地を休ませると共に、自然と実ったものは貧しい人や野の獣に与えよ、と書いてあります。 ヨベルの年は、この安息年をさらに7度数えよというもので、7年×7年で49年、その49年目の第7の月(ユダヤ暦チスリ)の10日に雄羊の角笛を吹き鳴らして、そこから50年目の聖なる年に入るぞと宣言せよと言うのです。この雄羊の角笛がヨベルです。

 で、きょうのテキストですが、その安息年について補足的に語られています。内容は土地の扱い方の規定です。土地の問題はユダヤ人にとって今に至るまで非常に大きな問題です。アブラハム一族の旅は土地を求めるものでしたし、荒野を放浪したモーセ一行も乳と蜜の流れる土地を目指しての旅でした。後にパレスチナと呼ばれるカナンの地は、文字通りユダヤ人にとって祝福を意味する場所です。このはるか昔の古い話を現代に持ち込んで、強引にイスラエル共和国を建国したことがパレスチナ紛争を生み出したわけです。

 千年単位の長い歴史では土地の状況もすっかり変貌しますから、昔の話をそのまま現代に当てはめることは土台無理な話なのです。確かに、神さまの民族に対する土地の祝福を二千年の間忘れなかったユダヤ人の信仰は大したものだとは思いますが、土地問題を長い時の流れを経て呼び起こすことにはやはり無理がある、と私は考えます。

 さてテキストです。ヨベルの年には人間が土地所有欲から解放されるという理念が、具体的な実例によって示されます。その際、そうした土地に関する手引きの根本には、「土地は神さまのもの」というイスラエルの信仰上の大前提があることを忘れてはなりません。ヨベルの年には、他人に譲り渡した土地が元の所有者に返還され、奴隷も解放されました。人間社会は長い年月の間に必ず社会的階級的地位の不均衡を生み出しますから、これを修正し貧富の差を極力解消しなければならない、という考え方が紀元前の世界に確立されていたということは本当に驚きです。

 イスラエルの民は、それが主なる神さまの意思なのだと信じました。ですからヨベルの年は神さまが命じる社会的不平等や貧困からの解放宣言なのです。貧しくて土地を売った人が、土地を買い戻すことができましたし、手もとにお金がなければ、親戚の者がお金を払えば買い戻せました。土地を売買するときは、お互いに損害を与えてはならないとあります。土地の売買の際、ヨベルの年が基準として設定され、土地の値段はヨベルの年までの年数によって計算されました。買い戻す力がない場合でも、ヨベルの年には、無償で返却されたのです。

 当時のイスラエルの農民には土地を買い戻す権利が保証されていたということです。農民にはその土地の所有件が与えられていました。イスラエル人にとってカナンの土地は、「嗣業の土地」(列王上21,3)と呼ばれた先祖伝来の所有地ですから、あだやおろそかに扱うことなどできません。土地の真の所有者は神さまという基本線がありますから、農民にはその土地の使用権が与えられていた、と考えればよいでしょう。嗣業の土地として先祖に賜ったものを自由に他人に譲り渡してはなりませんでしたが、借金を負った場合には認められました。そういう結構現実的な考え方も入り込んでいます。

 ルツ記を思い出してみてください。モアブの女性であるルツが夫亡き後、姑のナオミとベツレヘムへ戻りますが、そこでナオミの夫エリメレクの土地を最も近い親戚の者に買い取ってもらうという記事がありました。あの箇所は嗣業の土地については親戚も義務を負うのだという話です。土地の売買について具体的な物語を手引きとして加えることによって、人々は神さまから与えられた土地や物品を、私利私欲のまま自分の利益追求の道具にすることはできないことが言われているのです。

 ヨベルの年を軸として、居住地・売買・貸借などの活動が行われることにより、主なる神さまが約束の土地の最終的権威者であり、その神さまを心から畏れることが一切の動機づけであることが示されています。もう一点、7年目の安息年には種も蒔かず、収穫もしてはいけないという記事が20節に載っています。これは土地を休ませて収穫を確実にするという農業上の実利を重んじると同時に、休閑地となっている畑に自然に生じた作物を奴隷や寄留者や雇い人、さらには家畜や野生の動物のために供するためでした。

 この規定に対する疑問が出されています。もし安息年に種まきも収穫もできないとするなら、どうして食べていけるだろうか、という心配です。正確に言うと、安息年とヨベルの年が重なり2年続いたら飢えてしまうのではないかということです。これに対しては、6年目に祝福を与え、その年に3年分の収穫を与える、とあります。自然に生えたものと倉庫に蓄えたものを食べて、十分にこの期間を乗り切ることができるという約束です。

 これは安息年とヨベルの年が、信仰的な決断の対象としてイスラエルの民の前に置かれているということでしょう。主なる神の法に従わなければ罰せられるのです。もしイスラエルが不信仰を示すならば、神さまはご自分の手で地に安息を与えられるということでもあります。どうですか皆さん、ヨベルの年は食べていくという問題だけでなく、社会的に恵まれない人々に対する配慮を尽くした規定なのです。この他者に対する基本的なスタンスは時代を超えて通用する考えだと私は思います。お祈りします。


 
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