終末論はほとんどの宗教に見出せる歴史観です。仏教ならば末法思想ということになるでしょう。キリスト教における終末論は、本来旧約聖書を貫く歴史観でした。旧約においては、世界の歴史は終末に向って進んでおり,終末においてイスラエルに救いをもたらすメシアが現れる、と考えたのがメシア待望の思想です。メシア出現の時が終末です。
旧約の話ですから、もともとはユダヤ教の終末論です。しかしキリスト教は、ユダヤ教の終末論に独自の解釈を与え,キリストと共に救いの時である終末はすでに始ったと理解しました。旧約聖書において預言されていた終末と救いを、イエス・キリストの生涯と死と復活のうちに見出したわけです。さらには、究極的な世界史の完成と神の国の到来を、キリストが人類の審判者として再び来る再臨の時として未来に待望します。ユダヤ教の終末論は、イスラエルの民(ユダヤ人)が苦難の道のりを歩む支えとなりましたが、キリスト教においては、再臨のキリストが人類の歴史の支配者として、神さまに対する不断の希望を生み出します。
この世の不条理や苦難に満ちた人生を生きる勇気の根源として、終末論はキリスト教信仰に不可欠なものになっています。きょうのテキストの背景も終末論です。11章の終わりから続いてきた終末に関するユダヤ教指導者との論争を締めくくる部分でもあります。
13章は神殿での一場面から始まります。イエスさまがエルサレム神殿の境内から出ようとしていた時、弟子たちの一人が、『先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう』とユダヤ教の総本山であるエルサレム神殿を賛美しました。それまでイエスさまがどれだけ激しい論争をしてきたか、そしてこの神殿が貧しい人たちのなけなしの金銭をどれだけ搾取して造営されたものか、というような視点はその弟子にはまったくありません。おそらくその時、イエスさまは “お前はこの巨大な建物を見て、そんなことを考えているのか、何と情けない” と思われたことでしょう。
そこではっきりと言われたのです。『これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない』。第一ペテロ書の 「人はみな草の如し、草は枯れ、花は散る」 という言葉を思い出します。この神殿崩壊の予告は弟子批判でもありますが、おそらく福音書記者マルコは、この記事に神殿礼拝を未だに続けているエルサレム教会の姿勢に対する批判を込めたと思われます。神殿崩壊を終末的な表現で言えば、この世はやがて神さまの審判によって終止符を打たれる、ということになるでしょう。
3節から場面は移り、オリーブ山になります。イエスさまはオリーブ山で、キドロンの谷をはさみ、エルサレム神殿と真っ正面から向かい合って座っています。前方には壮大な大神殿がそびえ立っていたことでしょう。四人の弟子たちがイエスさまに 『ひそかに尋ね』 ます。彼らの質問は「いつ神殿が崩壊するか」 ということと、「終末にはどんな徴があるか」 でした。
イエスさまはこの質問を足場にして、5・8節において重要な二点について答えられています。この部分はエルサレム教会の伝承だろうと見られている箇所ですが、答えの一つは、差し迫ったエルサレムの様子を述べることにより、世の終わりのことを前もって示されたということです。そうした場合、前兆として、宗教指導者としては偽キリストが現れ、政治的国際的には戦争が起こり、自然界には地震や飢饉のような災害が起こるだろう、と言われました。終末の徴です。
イエスさまには、紀元70年にローマ軍によってエルサレムが陥落するユダヤ戦争のことが頭にあったかもしれません。戦争のような混乱に陥る状況になれば、キリスト者がこの世的な力により迫害されるであろうことをイエスさまはご存知でしたから、弟子たちには、「惑わされないように注意しなさい」 と戒められています。つまり、終末を前にして、驚いたり恐怖に取り憑かれたり、大混乱が起こることを予告された上で、イエスさまは、『そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない』 また、『これらは産みの苦しみの始まりである』 という言葉をさし挟みながら、終末が今すぐにでも来ると信じて熱狂的になりやすいキリスト者の熱狂的終末接近信仰にブレーキをかけているようにも思えます。
また同時にそこには、ユダヤ教や弟子たちの姿勢を批判する視点もあったでしょう。9・11節では迫害と宣教について語られています。弟子たちにはやがて 『地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる』 ことと、『総督や王の前に立たされて証しをする』 ようになることが示されます。地方法院というのはユダヤ人の地方裁判所で、各町村に設けられていて、地方の小さな事件を扱っていました。もちろん懲罰を下す権限があります。いわばエルサレムの最高法院(サンへドリン)の地方版です。総督や王の前に立たされることは厳しいことです。イエスさまは終末に先行して、迫害があることに触れられたのです。
私たちは、それが現実になったことを「使徒言行録」で読んで知っています。「使徒言行録」に出てくる使徒たちの説教の多くは、それを聞くために集まった人々の前でなされたのではなく、迫害よる法廷でなされたものです。イエスさまは11節で、迫害されて弁明しなければならなくなった者に対しては、時に応じて聖霊の導きがあるから心配するな、と仰っています。
現代でもそういうことは起こると思います。たとえば、第二次大戦中にキリスト教は国体に反するとして、特高にひっぱられた多くの牧師がいました。それがどんなに大変な経験であったか、戦後生まれの私には実感がないのですが、答え方によっては命がけであったことは証言や記録で知ることができます。イエスさまは13節で、『最後まで耐え忍ぶ者は救われる』 と言われていますが、この最後までという表現は、世の終わりまでという意味ではなく、最大限の忍耐ということでしょう。
人は生きていればいろいろなことに遭遇します。信じられない出来事もあるでしょう。しかし、どんなことが起ころうとも、神さまに信頼して耐え忍ぶ時、神さまはその苦難の立場を、深い愛により祝福のうちに置いてくださり、最後の救いに入れてくださるということが述べられていると思います。キリスト者にとって、最後の救いとは神の国に入ることであり、永遠の命に与ることです。キリスト者はこの終末の希望のうちを歩む存在です。終末の希望に向けて歩めるように祈りましょう。