2018.09.23

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「負債を免除しなさい」

秋葉正二

申命記15,1-11マタイ福音書26,6-13

 一節の冒頭にある断言的命令の言葉 『七年目ごとに負債を免除しなさい』 から15章は始まりますが、この命令が全体の基調をなしています。負債を抱えて喘いでいる人はどの時代にもたくさんいたはずですが、現代社会では何の見返りも求めず負債を免除することなど、まったく考えられません。街を歩けば、あちらこちらにプロミスとかアイフルなどのカードローン会社の広告看板が目に入ります。クレジットカード一枚でサラリーマンや学生は簡単にお金が借りられるので、つい手を出してしまうのでしょう。その結果、大きな負債を抱えるはめになります。現代は法外な利子でお金を貸し付けることは一応法律で禁じられています。そこで、債務者が命を絶つなどの破滅に追いやられないように、自己破産という免責を得るための法律などもあるにはありますが、あくまでもそれは債務者自身が自分に対して破産宣告を求める行動です。誰も助けてはくれません。

 しかし古代イスラエル社会では限られた時代に限定されるにせよ、「負債を免除しなさい」と、債権者に神さまの声でもある律法で命じているのですから驚きです。この命令のルーツは、イスラエルの民にとって、農耕生活で七年目に畑を休耕させたことに由来しています。出エジプト記23章10-11節にはこうあります。 『あなたは6年の間、自分の土地に種を蒔き、産物を取り入れなさい。しかし、七年目には、それを休ませて、休閑地としなければならない。あなたの民の乏しい者が食べ、残りを野の獣に食べさせるがよい……』。

 12部族連合の時代まで遡ると、農地は共同体所有です。7年目ごとに民が集まったところで、耕地が新たにくじ引きで割り振られたのです。休閑地にするというのは、もちろん地力を回復させる知恵です。そうした農民の制度が王国時代に申命記で大胆な再解釈を加えられて、負債の免除という形になっていったわけです。4節などには、『あなたに嗣業として与える土地において』 という表現で、もともとは土地をめぐる問題であったことが昔の名残として残っています。

 とにかく申命記においては最早イスラエルは単なる農耕社会ではなくなっていました。貨幣経済、都市生活が前提です。当時は奴隷制がありましたので、借金を返せなければ、娘を売る、あるいは自分が奴隷となって身売りしなければなりませんでした。日本の江戸時代などもまさに同じような状況です。良寛さんが手毬をついて遊んだ女の子たちの幾人かは、やがて上州の宿場町へ飯盛り女として売られていく運命にあったという話を以前したことがありました。国や時代を超えて同じパターンなのです。古代イスラエルの王国時代は、都市貴族が商業の発達に伴い貨幣財産をますます蓄積し、他方では農民層が彼らによって搾取されていくという階級対立が始まっていました。

 こうした貨幣経済による共同体の分解という危機に直面してイスラエルの人々は、負債を免除することによって社会的な平等をなんとか生み出そうと努力したわけです。しかもそれは神さまの言葉である律法を通して命じられました。換言すれば、イスラエルは自分たちの神さまがそのような方向に社会を導いてくださるお方だと信じた、ということです。

 2節には負債免除の仕方が載っておりまして、それによると、負債が免除される対象は同胞の隣人であり、外国人は排除されています。この外国人はノクリーという言葉で表される外国人のことで、寄留の他国人と一般的に訳されている定住外国人のゲールではありません。ゲールは神との契約に参加すべき正式の一員です。このあたりの記述には、イスラエルの民族意識がはっきり出ています。外国人が排除されてしまうというのは、時代や民族の限界を示しています。しかし、はるか昔の奴隷制が当たり前であった時代に、きょうのテキストは少なくともゲールを排除していないという点で、単一民族思想から既に一歩抜け出しているように思います。

 ところで、申命記の31章に「7年ごとの律法の朗読」と小見出しがつけられた箇所があります。その10-11節にモーセがイスラエルの民に命じて言ったことが書かれています。曰く、『7年目の終わり、つまり負債免除の年の定めの時、仮庵祭に、主の選ばれる場所にあなたの神、主の御顔を拝するために全イスラエルが集まるとき、あなたはこの律法を全イスラエルの前で読み聞かせねばならない』。

 これは7年目の終わり、〈許しの年〉のことであり、仮庵の祭りの時のことです。仮庵の祭りは七日間にわたって行われましたが、そこでは申命記の中心部分である5-26章がじっくりと読まれました。それは5章で契約に始まり、26章で契約に終わるという申命記が、「契約の書」と呼ばれるにふさわしい内容です。王国時代には経済的諸関係の変化に伴い、7年が経過すると仮庵祭の場で、公にこうした内容が告知されました。つまり負債免除の制度が〈ゆるしの年〉として成立していきます。

 〈ゆるしの年〉は免除されるべきイスラエルの貧者に対し、生活保護のためになされた貸付でもあり、なされた仕事に基づいての代価の支払いの請求は帳消しされてはなりませんでした。ですから、〈ゆるしの年〉は明確に社会的性格を帯びています。テキストの7節以下にあるように、〈ゆるしの年〉があるにも拘らず、貧者をなお援助しなければならないという義務は、とりわけ厳しく命じられました。やがて〈ゆるしの年〉は〈安息の年〉に結びついていきます。具体的に言えば、イスラエル出身の奴隷は、7年の奉公の後、解放されなければならない、という規定になっていきます。

 これはきょうのテキストに続く部分、12節以下に詳しく書かれています。大枠で申命記を俯瞰すると、ゆるしの3形態とも呼ぶべき事柄について展開されていることが見えてきます。すなわち、[1]土地所有権の放棄 [2]負債の免除 [3]奴隷の解放です。この3形態は後の時代にまずイエスさまの言葉や行いによって方向づけられ、教会がそれぞれの時代の中で具体的な形に置き換えられて、実践していきました。こうした3形態から始まった、いわば信仰に裏打ちされた精神がどれだけ時代の中で実践されたかについては、一人ひとりがゆっくり考えて具体例として見出すしかないでしょう。

 とにかく王国時代においては、申命記法は、きょうのテキストからも分かるように、イスラエル人負債者の過酷な状況を何とか軽減しようと努力したことは確かです。負債免除の規定が実際に実行されたかどうかを判断する資料はありません。でもバビロン捕囚後に、ネヘミヤが負債の解消に努めたことがネヘミヤ記の5章10節10章32節に書かれています。私たちの国の歴史では、鎌倉・室町時代に出された「徳政令」を思い出します。そこでは債権と債務が破棄されました。農民の一揆もこうしたことと絡んでいます。江戸時代には徳政令に似た棄捐(きえん)というのがありました。

 聖書の〈ゆるしの年〉の特徴は、律法という神さまの意思につながっていることが最も重要です。私は長年外キ協で活動してきましたが、活動の根拠を問われるとき、真っ先に思うのは申命記の内容です。時代的民族的制約がありますけど、王国内に居住する神さまヤハウェの戒めを守る義務から除外される者がいないことは、特筆すべきことだと思っています。最後に新約聖書とのつながりを考えておきます。イエスさまは律法を超えて新しい契約を示してくださった、という考え方がありますが、これについてパウロはコリント後書3、6でこう言っています。『神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします』。

 また「主の祈り」の一節を思い出してみてください。マタイ福音書で言えば、6章12節です。こう書いてあります。『わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように……』。ここには、人間は神さまに本来「負債」を負う者であって、その神さまの側からの「負債免除」宣言があってこそ生きていける、という教えが示されています。それは最終的に、人間の罪を赦すイエス・キリストの十字架の贖いにつながっていきます。イエスさまの生き方に倣って、自分に負債ある者を自らすすんで赦すという、観念ではない私たちの実際の行動がなければ、私たちは究極的赦しである十字架の贖いにつながった生き方はできませんよ、ということが示されているように思います。祈ります。


 
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