ヨセフ物語から学びます。ヨセフはエジプトを舞台に活躍しますが、そのことはイスラエル民族に決定的な意味を与えた「出エジプト」という出来事の前提になっています。つまりヨセフ物語に出てくるいろいろな場面が、聖書の信仰の基本問題に触れているのです。
伝記的要素が詳細を究めていて、劇的な環境の変化とか、少年時代の欠点を乗り越えていく様子とか、話題に事欠きません。背景としてもエジプトの文化生活とイスラエルの遊牧生活の対比とかがサラッと描かれていて、興味が尽きません。アブラハム・イサク・ヤコブ物語が祭儀や聖所にまつわる伝承の組み合わせであるのに対して、ヨセフに関しては彼一人を中心とした壮大な文学作品です。
彼の生涯には幼い頃からの家族の問題が絡みます。父親ヤコブは年老いてから最愛の妻であるラケルの子として彼を授かりましたので、10人の兄たちを差し置いてヨセフを偏愛しました。結果、兄たちはヨセフを殺そうと相談するところまで憎しみをエスカレートさせていきます。何とも凄い家族関係だなと思いますけれど、男性中心で、妻が何人もいて、大集団一族ということになると、家族の在り方にもとんでもない関係が生じてくるのでしょう。まァ、一言で言えば、ヨセフの生涯は波乱万丈です。エジプトへ売り飛ばされてからの苦労は並大抵ではなかったのですが、生来頭がよく、機転もききましたので、とうとうエジプト王の信頼を得て、宰相まで登りつめました。
で、きょうのテキストはその宰相となったヨセフが飢饉で苦労する故郷の兄たちと再会するシーンです。自分を隊商へ売り飛ばした兄たちですから、穏やかな再会など不可能と思うのですが、それまでの度重なる苦難を乗り越えてきた人生経験と、試練を通して鍛え上げられ積み上げられた信仰が、不思議な再会シーンを生み出します。泣いたりする光景もありますが、全体としては何とも穏やかな、ゆったりした空間が現れています。ヨセフは、兄たちの憎しみによって売り飛ばされてエジプトに来なければならなかった現実を否定しません。
そうした現実を冷静に見つめる眼差しで、3節以下の言葉をつないでゆきます。一語一語を味わっていくと、信仰によって鍛え上げられた心の安定度の高さが示されているような気がします。 “わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか?” “どうか、もっと近寄ってください……”。
キリスト教では「摂理」という一種独特な言葉がよく使われます。日本人の間でよく使われる「運命」とか「宿命」という言い方には仏教的な意味合いが加わりますので一応区別するのです。日本には陸続きの国境線はありませんし、周囲を海に囲まれているという自然条件があり、そこで育まれる風土が強く関係しているせいだとも言われます。砂漠の多い、荒地の遊牧民たちの置かれた環境を考えますと、日本では存在そのものが最初から自然に守られていて、絶えず命の危険に晒されるというような厳しさはありません。時々大きな地震や津波といった天災もありますが、騒ぐのはその時だけで、いつの間にかその時の深刻さを忘れていきます。自然に対してはどこか楽観的なところがあるような気がします。ですから日本人はまず自分に負わされている運命を認めてしまった上で、それから自分の生活を考えるといった一種の余裕のような傾向があるのではないかと思うのです。最初からエゴという強い自我を主張して、起きている事態に立ち向かうということは少ないのではないでしょうか。
そんなことを考えますと、ヨセフの生涯は運命的だったというよりは、信仰を拠り所にして、苦難に耐え抜き、自らの道を切り開いていった、という方がピッタリくるように思います。ヨセフは自分の歩む道を運命としてあきらめることがありません。いつもそこに神のみ手の働きを見て、そこには神の導きがあると信じて歩んでいます。これは私たち日本人にはなかなか分かりにくい生き方ではないかと思うのです。
しかし私たちはヨセフに学ぶことはできます。それは、苦難を経験した時に、自分の非(不正)を知るということを積み重ねていく生き方です。そこからは、自分が置かれた場において誠実に生き始めるという生き方が生まれます。ヨセフの例で言えば、牢獄に囚われた時に、どのように牢屋番の信頼を得るようになっていったかを見ていくとよいと思います。
そこでは信仰が人間関係の構築の仕方にちゃんと寄与しています。ヨセフと兄弟たちとの再会のキッカケは、ヤコブが飢饉に対処するために、10人の息子たちに食糧を調達するためにエジプトに行かせたことに端を発しますが、エジプトに食糧調達にやって来た兄弟たちに対して、ヨセフはその真意を探ろうとはしていますけれども、そこには単なる意地悪さとか疑い深さのような個人的憎しみはありません。信仰に鍛え上げられて、時代や民族の状況をも考慮して行動している一国を預かる者の懐の深さを示しています。
その対極として、私は思わずトランプ大統領を思い浮かべてしまいました。まァ、これは個人的な感想です。信仰は何か心の内部の事柄のように限定して考えがちですが、決してそうではなく、具体的な私たちの生き方に反映するものだと思います。キリスト者と呼ばれる人が、いつも他人とうまくいかなかったり、嫌われてばかりいるとしたら、それはやはり信仰の問題だと捉えるべきでしょう。信仰は具体的な形で私たちの目の前に現れるのだ、ということを私はヨセフから教えられているような気がします。
エジプトの宰相としての日々は勿論栄光の日々ですが、おそらくヨセフは奴隷としての孤独の時代からずっと、兄弟から決定的に嫌われ、売られてしまったという苦しみを忘れたことはなかったろうと思うのです。それは当人しか知り得ない地獄です。しかし今、その苦しみの日々の中で、神さまが家族に成し遂げていてくださったことを理解した時、ヨセフはもはや見知らぬ者として兄弟の前で振る舞うことはできませんでした。
“お父さんはまだ生きておられますか?” これは自然に心の底から湧いて出た言葉です。この時のヨセフには、喜んで和解しようとする人間の素直さが溢れています。長く引き離されていた肉親へのこの時の新鮮な感動は当の家族しか分からないのかも知れませんが、この関係回復の喜びは、実は神さまがもたらしてくださる厳粛な神と人との和解、人と人との和解につながっているということをしっかり捉えておきたいと思います。
私は毎日のように報道される家族崩壊の様々な事件に心がつぶされるような気がします。夫が妻を殺し、妻が夫を裏切り、親子の間でも凄惨な出来事が起こる……、この時代を私たちはどう乗り越えていくのでしょうか。トランプ大統領を支えるような保守的信仰を教える学校をたくさんつくればいいのでしょうか。私はそんなことではないと考えます。すべてをすぐ神さまのせいにする安易な信仰ではなく、私たちの目に見える行動を通して、私たちに先立って働いておられる神さまの意思を、鋭敏に感じ取ることができる信仰を養うことです。教会の責任は重いのです。
そうした働きはヨセフのように、何十年もかかるかも知れません。私たちは運命論と闘いながら、自分が置かれている場にも確かに神さまが託された使命があるのだ、ということに目覚める、それが摂理の信仰ではないでしょうか。現実を否定して、現実から逃れることは、信仰を養うという面からすればマイナスです。そうではなく、きっちり現実を見つめる、そしてそこから神さまの意思、み手の働きを見出して小さな一歩を進める、そのような生き方が重要だろうと思います。
トーマス・マンは、晩年のライフワークとしてヨセフ物語に取り組みました。それはこの物語の中にライフワークとして取り組むだけの価値があることを示しています。“どうかもっと近寄ってください。……神が私をあなたたちより先にお遣わしになったのは、大いなる救いに至らせるためです”。そういう風に告白できる信仰者になりたいと思います。祈ります。