初めに、きょうのテキストの小見出しを含め、12節,14節にある「重い皮膚病」という表記について確認をしておきます。共観福音書中の20カ所近いこの表記が、1996年の「らい予防法」が廃止されるまで、「らい病」となっていました。聖書の該当箇所の変更要請がいくつかの教会や教区総会で決議され、それを受けて共同訳聖書委員会は変更を決定しました。私はハンセン病国立療養所の教会で毎月の金曜集会の説教を担当していましたので、そのことを鮮明に覚えています。私の聖書は1989年版でしたので、当該箇所に赤線を引いて、すべて訂正しました。国立療養所沖縄愛楽園々長であられた犀川一夫先生は、聖書の「らい病」について、好著を出されていますが、聖書の「らい病(重い皮膚病)」はほぼハンセン病ではないと語っておられます。星塚敬愛園の園長は内科医師で感染症にも詳しい方でしたが、彼もそのように話していました。そもそもの原因は、聖書の翻訳過程で、旧約聖書の原語「ツァーラハト」がハンセン病と理解されたことでした。
オリエントにハンセン病が入ったのはアレキサンダー大王の世界制覇の時と考えられていますので、紀元前4世紀の終わりのことです。だとすると、新約聖書の中での「重い皮膚病」にハンセン病が含まれていた可能性はあります。紀元前250年頃、アレキサンドリアで旧約聖書がギリシャ語に翻訳されていますが(70人訳)、その時、「ツァーラハト」が「レプラ」と訳されました。しかしこの時ハンセン病は「エレファンティアシス(象皮病)」という名前で知られていたので、「レプラ」はハンセン病ではないのです。ヴルガータ(カトリックの公用聖書)が「レプラ」という訳語を継承したので、それ以後ハンセン病とレプラは結びついて混乱し、各国語の翻訳においてレプラはもっぱらハンセン病として訳されることになったのです。ということで、テキストの「重い皮膚病」という訳語をまず受けとめて頂きたいと思います。
さて、テキストですが、イエスさまがガリラヤからエルサレムへ向かう途中に遭遇した出来事です。原始キリスト教団はエルサレムにありましたので、初代教会へ帰れなどと言う時に、私たちはどうもエルサレムがあたかも中心であったように考えがちなのですが、エルサレム神殿崩壊後の実態は明らかにパウロが大きな役割を果たした異邦人教会にあったと思います。福音書は、エルサレム崩壊後のキリスト教会がどこに向かったらよいのかを模索する中から生み出された書物ですから、異邦人宣教が進めば進むほどエルサレムの重要性は薄れていったことでしょう。
ガリラヤとエルサレムの間に位置するサマリアですが、この場所を何度も記述しているのはルカ福音書だけで、マルコは一回も触れていませんし、マタイでは差別的に一回出てくるのみです。これはルカが外国人であったことと関係しています。マルコやマタイはユダヤ人ですから、民族の中心地であったエルサレムに固執するのは仕方がないでしょう。ガリラヤは辺境の地として、サマリアは異民族混血の地として差別の対象でした。
きょうのテキストはイエスさまが、この二つの地域の間を通っていた時に起こった出来事です。重い皮膚病の人たち10人がイエスさまに向かって声を張り上げて憐れみを求めました。イエスさまは、『祭司たちの所へ行って体を見せなさい』と言われています。10人はその指示に従うのですが、祭司たちの所へ向かう途中で清くされました。で、その中の一人だけが癒されたことに感謝して、イエスさまのもとへ戻って来たのです。大声で神を賛美しながらとあるので、喜び勇んで戻ってきたわけです。この人はイエスさまの足もとにひれ伏して感謝しました。ルカはわざわざ 『この人はサマリア人だった』 と記していますから、当時のユダヤ人がサマリア人を差別的に見ていたことを記しているのです。
ルカはユダヤ人のようにサマリア人を蔑視していません。彼はユダヤ人から差別されているサマリア人に好意的です。だからこそ、何度もサマリア人について記述し、10章の「よきサマリア人」のような記事を取り上げているわけです。「よきサマリア人」の記事では、イエスさまがユダヤ人を差し置いてサマリア人の行為を評価しているわけですから、ユダヤ人にとっては強烈な皮肉でしょう。
サマリアは紀元前722年にアッシリア帝国によって滅ぼされていますが、その際アッシリアは支配政策として、支配地域の各地から異民族をサマリアに移住させ、混血政策を取りました。これは先日の説教でも触れました。その後南王国も新バビロニア帝国に滅ぼされるわけですが、その時起こったのが有名なバビロン捕囚という出来事です。第二イザヤと呼ばれる捕囚民のリーダーが信仰を導き、同胞を励ましたことは皆さまもご存知でしょう。南王国ユダの民は、やがて起こったペルシャ帝国のキュロス王により捕囚から解放され、エルサレム帰還を許されます。帰還後、南の民は当然新しい国づくりを目指し、エレサレム神殿再興を軸に努力しました。その時代に活躍したのがエズラやネヘミヤです。その時サマリアは復興を手伝おうと申し入れますが、南はそれを断っています。そのあたりの事情がエズラ書、ネヘミヤ書に書いてあります。両者は気まずい関係になり、あろうことかサマリアはユダの神殿再建計画を邪魔したりしたのです。
そんなこともあり、両者の関係は悪化の一途を辿るようになり、ユダヤ人はサマリア人を不浄な民として軽蔑するようになりました。イエスさまの時代にはまだはっきりその痕跡が残っていたわけです。言うなれば、サマリア人はユダヤ人にとっては被差別部落民でした。ユダヤ人という名称はもちろんユダに由来します。ユダヤ人はサマリアとしょっちゅういざこざを起こしましたし、彼らがサマリアの地に入ることはありませんでした。ガリラヤの方へ抜ける必要が生じた時には、わざわざ遠回りのヨルダン川渓谷沿いを通ったと言われています。ところがイエスさまはそうしたことに振り回されませんでした。サマリアを通ってエルサレムへ行かれたのです。そうした背景の中できょうのテキストの出来事が起こりました。10人のうちただ一人だけがイエスさまのもとへ戻って来て感謝しています。その一人はサマリア人だったとルカは強調しています。
皆さん、ちょっと使徒言行録の冒頭の言葉を思い出してみてください。同じルカが書き表した書物です。1章8節にはこう書いてあります。『あなた方の上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる』。イエスさまの言葉です。それだけでなく、ルカは以後何度もサマリアという地名を出しながら、イエスさまの福音宣教がサマリアに伝えられていったことを記しています。
ステファノが説教後、石打ちの刑により殉教したことは有名ですが、その日にはエルサレム教会に大迫害が起こりました。使徒言行録8章1節には、『使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散っていった』 と書いてあります。若きパウロが教会を荒らし回っていた頃です。同じ8章4節以下には〈サマリアで福音が告げ知らされる〉と小見出しがあり、フィリポのサマリア伝道の様子が描かれていますし、ペテロとヨハネもわざわざサマリアに出かけて行って、福音宣教を力強く推進しています。
皆さんどうですか? ルカという外国人によってイエスさまの福音宣教は、中心をエルサレムからサマリアに移しているのです。おまけにイエスさまはユダヤ人が馬鹿にしていたガリラヤ人なのです。私はこの一人の重い皮膚病を患っていたサマリア人の癒しの記事は、キリスト教信仰にとって非常に大きな意味を持っていると考えています。私たちの信仰の原点は、大規模な大神殿を抱き、祭りの際には数万人で賑わったという都エルサレムではなく、差別と辺境の地、サマリアやガリラヤではないでしょうか。私たちは教会の宣教を計画する時、そこに視点を据えていろいろな可能性を探っていかなければならないのではないでしょうか。私たちはあまりにも目に見える世界に毒されてしまっています。
教会は立派な会堂がなくても、真実に祈りをささげる二人または三人の人がいれば教会なのです。それは誰よりもガリラヤ出身で、差別の目に晒されていたサマリア人に寄り添って生きたイエスさまが、そこにおられるからです。『立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った』。このイエスさまのお言葉をしっかり受けとめて私たちも歩んでいきたいと願うものです。祈ります。