2018.07.15

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「寄留者、孤児、寡婦の権利」

秋葉正二

申命記24,17-22使徒言行録22,17-21

 私たちが生きる現代社会は複数の価値観や宗教を奉じる人たちが共存しています。日本で暮らす外国人は256万人、出身国数は195カ国に上り、これは国連加盟国数とほぼ同じです。自分のすぐ隣りに外国人を見ないとしても、実際にはいろいろな民族的・文化的背景を持った人たちが日常的に入り混じって生活をしているということです。価値観、宗教、生活習慣において間違いなく「多元化」は進んでいます。

 20世紀末からグローバル化という言葉が社会のキーワードになりました。経済システムは世界規模で拡大してしまいましたし、インターネットは情報レベルで世界を一つにしています。その結果、民族や国家を超えて考えなくてはならない課題がたくさん出てきました。今米国と中国の間に貿易戦争が始まるのではないかと懸念されていますが、これなどはグローバル化から派生した、これまでの流れに逆行する動きです。しばらくは利権をめぐって睨み合いが続くでしょうが、いずれお互いの文化的伝統や宗教などを損なわないように生きていくための工夫が必要になります。そうしなければ愚かな戦争に突入ということになりかねないからです。

 さて、きょうは「外国人の人権のために祈り、民族主義と平和を考える礼拝」を守っています。多くの人は多元化やグローバル化が現代のものだと考えていますが、キリスト教の視点からすればそもそもグローバル社会はキリスト教成立の背景そのものでした。ヘレニズム文化は地中海世界からインドや中国までのびる経済圏を生み出し、ローマ帝国はヘレニズムを継承する形でパックス・ロマーナ(ローマの平和)を実現したのですから、その時代に教会を生み出し、積極的な伝道活動を展開したキリスト教はグローバル世界の申し子と言えます。

 きょうのテキストは旧約から選びました。イスラエルの基本的な信仰姿勢はご存知のように排他的なものでしたから、多元化をどのように受容するかという課題を旧約聖書から取り出すのは簡単ではないかもしれません。たとえばバアル信仰がイスラエルに持ち込まれた時、エリヤが先頭に立って激しい闘いを繰り広げたことは皆さまにもお馴染みだと思います。イスラエルの人たちの信仰にとって重要なことは、同胞が同じ神ヤハウェを拝むということであり、他の神々を拝む異邦人はイスラエルに敵対する者だったわけです。

 ところが時代が推移して行く中で、律法理解にも幅が出てきました。外国人を一律に排除するのではなく、場合によっては受け入れる姿勢を示す人々が出てきたのです。そのきっかけとなったのが「寄留者」の存在でした。国内の寄留者は社会のマイノリティーですが、寄留者に目を注いだ時、他にもマイノリティーの存在があることに気づいたのです。身近な孤児や寡婦の存在です。父系制社会においては一家の長である父親が亡くなれば、残された妻や子は経済的に困難な状況に追い込まれます。そうしたマイノリティーの苦労を目の当たりにした時、何とか助力できないかと考えるのは人間として当たり前でしょう。それが紀元前の弱小王国に生まれたということは大きな意味を持っています。

 十戒という厳格な唯一神信仰の世界に、疎外されていた人たちの姿を発見したことは、イスラエルの信仰思想の優れた点です。寄留者は外国人です。いろいろな事情でイスラエル社会に暮らすようになった人たちです。当初は厳格にイスラエルの信仰に改宗するように求めたことでしょう。しかし生きて働かれる神さまがマイノリティーの存在をどうご覧になるかを考えた人たちが登場しました。それは神殿を中心にしたイスラエル宗教の中枢部から出た人たちではなく、市井の中から生まれた人たちです。預言者の系譜はそうしたところから展開していきます。

 そのルーツとも言うべき位置に申命記的歴史家と呼ばれる人たちがいます。私たちが忘れてはならないことは、そうした系譜の延長線上にイエス・キリストがおられるということです。ローマ帝国と結びついたキリスト教はその後の歴史の中でろくでもないことをたくさんやらかしましたが、意味のある思想も生み出しています。中世末期には皮肉なことですが、キリスト教という宗教からの徹底的な解放を求めてヒューマニズムが生まれました。ルネッサンスはその代表の一つでしょう。それは十戒という厳格な宗教世界に、権力とは無縁な位置から新しい信仰世界を生み出した旧約のイスラエルの一面に重なります。

 マイノリティーの世界は、権力者の視野からは見えません。神殿に象徴される中央集権的な信仰世界の中から、マイノリティーの人たちをしっかり見てゆく新しい信仰思想を生み出した旧約のイスラエル宗教の豊かさは、素晴らしいものです。何よりもその流れがイエスさまにつながって行ったことを評価したいと思います。

 きょうのテキストは申命記が示す人道上の規定の一つですが、すぐ前の14節にはこうあるのです。『同胞であれ、あなたの国であなたの町に寄留している者であれ、貧しくて乏しい雇い人を搾取してはならない』。ですから冒頭の17節の寄留者や孤児や寡婦は、そのような位置付けを前提にして言及している存在です。

 寄留者と訳されるヘブライ語は五つほどあります。かなり厳密に使い分けられていますが、今ここではその厳密な点については触れません。代表的なのはゲールです。現代の私たちの社会になぞらえれば、外国籍を持ちつつ、日本に定住して働く移住労働者の存在あたりが一番近いかもしれません。そうした立場の人が紀元前のイスラエル社会にもいたのです。17節にはまず「寄留者や孤児の権利をゆがめるな」とありますが、この主語は二人称単数の「あなた」です。

 「権利」と訳されている言葉が有名なミシュパートです。旧約神学では重要な語で、「裁判」の意味があります。「ゆがめてはならない」と言うのですから、裁判を司る者の不正や、裁判に参与する者たちは不当な差別をしてはならないというのです。そこには社会の最下層の人々の権利を保護しなくてはいけないという申命記記者の強い意志を感じます。

 続いて出てくるのが 『寡婦の着物を質に取ってはならない』 ですが、これは13節につながっています。着物はお金を借りる際の質草です。質草と言っても若い方には通じないかもしれません。お金を借りる際の担保物品です。当時地域住民の間で利子をとって貸し付けることは禁じられていましたが、担保を取ることは許されていました。貧しい寡婦が着物を担保にするということは実は大変なことでした。夜寝る時に貧しい寡婦は上着をかけて寝たそうです。いわば掛け布団の代わりです。そういう事情を背景にして「寡婦の着物を質に取ってはならない」と言うのです。

 これは明らかに、当時町の門で開かれた裁判を前提にしています。日常生活で守るべきことに触れているのです。そして、そう命じる理由として、出エジプトの故事が取り上げられています。 『あなたはエジプトで奴隷であったが、あなたの神、主が救い出してくださったことを思い出しなさい』 という指摘は、イスラエルの民の救済の歴史に訴えた説得です。社会倫理への自発的応答を求めた言い方です。

 19節以下は、いわゆる「落穂拾い」の規定です。イスラエルの代表的な収穫物は、麦とオリーブとぶどうですが、こうした収穫物の一部を寄留者や孤児や寡婦と分かち合うべきであるという申命記記者の考えが、はっきり打ち出されています。寄留者も孤児も寡婦も農地を所有することができませんでしたが、これは明らかに生活上の不利です。そこで申命記記者は古代なりの社会保障政策を提示したのです。この主張の動機づけもやはり出エジプトの出来事です。イスラエル民族の拠って立つところが出エジプトの出来事であったということがよく分かります。

 落穂拾いと言えば、皆さんもきっとそうだと思いますが、ルツ記を思い出します。ルツ記はとても美しい物語で、読むと心が温かくなります。夫に先立たれ、姑のナオミとベツレヘムへやって来たルツは、イスラエルから見れば寄留の他国人です。彼女が生きて行くためには落穂拾いに出かけるしかありませんでした。たまたまルツが夫の父の一族であったボアズの畑に落ち穂拾いに出かけた時、ボアズはルツに親切にして、刈り取った麦の束の間でも拾うことを許し、刈り取る者には束からわざと抜き落とすことまで命じます。つまり、ルツの物語は、寄留の他国人ルツが、ベツレヘムで義母ナオミと共に生活を保障されたという話でもあります。

 美しい話ではありますが、その裏には厳しい生存の戦いも含まれています。当時は現代のように社会保障のない時代でしたが、それなりの相互扶助の慣習が出来ていたということでしょう。戦後の日本はかなりの社会保障制度を整えましたが、まだまだ充分とは言えません。多くの人が制度だけでは解決しないことにも気づいています。お金を出して施設を作りさえすればよいということにはなりません。申命記の人道上の規定は現代の私たちにそんなことも考えさせます。

 もちろん、古代の落ち穂拾いに帰ってよいはずはないでしょう。しかしこのテキストから、私たちは共に生きるとはどういうことかという、共生する生活のあり方に関する基本的な姿勢を学び取ることはできます。そしてそれを現代社会に生かすべき要素として用いるのです。外国人と共に生きる際、相互扶助は欠くことのできない基本要素です。そこに意識的に国境線を引いたり、民族の壁を設定したりという排外思想を持ち出すことを神さまはお許しにならないと思います。

 先月私はシカゴ美術館でミレーのたくさんの原画を見ることができました。疲労に押しひしがれながら、頭を垂れて祈る農民の姿に、ミレーが宗教的な喜びを見出していたことをあらためて確信しました。民族主義と平和の問題を念頭に置きながら、外国人の人権のために祈りたいと思います。


 
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