マルコ福音書にはイエスさまが群衆にパンを与えたという記事が二度出てきます。第一回目は、6章の五つのパンで5千人を養われたという出来事。第二回目は8章で、4千人に食を与えられました。このパンの奇跡の記事については、聖書いわゆるに歴史的批評的研究が取り入れられて以来、いろいろな見解が出されてきました。たとえば、著者マルコが不注意でパンの奇跡伝承を入れてしまったとか、記事は重複していて本来は一つの出来事だった、とかなどです。歴史的批評的研究は私たちが盲信に陥らないためにはぜひとも必要な研究方法ですが、歴史的事実を正確に捉えようとするあまり、記事そのものを解体・分析し過ぎて、結果的に過去の出来事の真相がつかめないで終わってしまったり、真実の意義が分からなくなってしまったりという弊害も出てきます。
とにかくパンの引用が、福音書においては信仰を指し示すための重要な媒体であることは間違いありません。ヨハネ福音書には 『わたしは命のパンである』 という有名なイエスさまの言葉がありますが、それはパンをよい意味で引用している例です。今日のテキストでもそのパンが出てきました。4千人にパンを与えられた後、イエスさまは船で移動されるのですが、その船上の出来事です。弟子たちがパンを持ってくるのを忘れたために、一つのパンしか持ち合わせがなかったとあります。
その時、イエスさまがちょっと不思議な言葉を口にされました。『ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい』 という一言です。「気をつけなさい」というのですから、一種の警句ですが、正確に言いますと引用されたのはパンではなくパン種です。パン生地に混ぜる酵母のことにイエスさまは触れられたのです。
旧約聖書には酵母を入れないでパンを焼いたり食べたりする話がたくさん出てきますが、それは記念行事の際などに、出エジプトの苦難を忘れないためのイスラエルの人たちの慣習でした。普段は種を入れて焼き、ふくらんだパンを食べたのです。実際その方がおいしいでしょう。
さて、イエスさまの言葉で鍵となるのは「ファリサイ派」と「ヘロデ」という表記です。ファリサイ派はもう皆さんもご存知の通り、イエスさまが普段から批判的に見ていた当時のユダヤ教の熱心な有力党派です。ファリサイ派は律法学者と並んで、イエスさまが中心的に批判の対象に据えた相手です。また、ヘロデというのはヘロデ王あるいはヘロデ党を意味しています。ヘロデ党はヘロデ王家の信奉者たちの党派で、もちろん悪名高き領主ヘロデ・アンティパスに繋がっていたと思われます。このヘロデはサロメの物語でお馴染みですが、倫理的に許されない結婚をしたことを洗礼者ヨハネから指摘され、彼の首を切ったしまった張本人です。
ファリサイ派もヘロデあるいはヘロデ党も、イエスさまを殺そうとしたことで一貫していました。おそらくイエスさまの警句は、自分を殺害しようと目論むファリサイ派やヘロデ党の悪い企みに注意を向けさせようとするものだったでしょう。しかし弟子たちにはイエスさまの言葉の意味が分かりませんでした。そもそもファリサイ派は律法学者によって解説された旧約の律法を、厳格に守ることが神礼拝の中心だと考えた人たちです。儀式を重んじた結果、はなはだしい偽善に陥っていました。イエスさまはそれを遠慮なく批判しましたから、両者は敵対関係になっていったわけです。
テキストの少し前の11節で明らかなように、彼らは天からのしるしを求めた人たちです。つまり天体の異変を求めて、イエスさまに雷鳴や嵐のような天変地異を迫ったのです。それに対してイエスさまは12節で 『どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない』 と答えられて、さっさと船に乗ってしまわれたのでした。そしてその船の中で弟子たちを戒めて語られたのが、きょうのパン種の言葉です。
私たちはこの天からのしるしについてよく考えねばならないと思います。しるしを求めたのは、それによってイエスさまが神の子であることを証明せよという要求でしょう。こうした発想は現代人にもあるのではないでしょうか。信仰というからには、何かそうした驚くような天体現象でもなければ信じられない、といった傾向の考え方です。もっと言えば、病気が治らなければ信仰などと言っても、それは偽物だと言うのと同じです。イエスさまはそういう信仰理解をきっぱり否定されたわけです。目に見える形に信仰の確証を置くのは一種の形式主義です。ですからファリサイ派は形式主義者です。
他方、ヘロデやヘロデ党の人たちにしても、彼らはこの世の権力と信仰とを結びつけてことをはかろうとした人たちですから、これは力におもねる権力主義です。イエスさまが引用された2種のパン種は、いわばそういう形式主義と権威主義のことを指していると思います。もしそのようなパン種がパン生地に入れられれば、急に膨れ上がるかもしれませんが、とんでもないパンになることでしょう。そこでイエスさまは、弟子たちの信仰がそうしたファリサイ派のパン種とヘロデのパン種におかされないように警告されたのです。
このイエスさまの警告を現代の私たちも受けとめる必要があるように思います。すなわち私たちが何かのしるしを求める信仰に陥ったり、この世の権力や人の力に頼んで成長しようとするような信仰になってはいけないのです。イエスさまの時代、権力の象徴はローマ帝国であり、ヘロデ王朝でした。イスラエルの人々により身近であったのはヘロデ王朝でしょう。
王朝のような権力を前にすると宗教は二つのタイプに分かれていきます。一つは権力に極力接触しようとするタイプです。当時その代表はサドカイ派でしょう。祭司などの上層階級によって成り立っていたこの党派は、権力者の好意を得ることに長けていました。それは宗教教団の立場からすると、伝道上からも財政上からもまちがいなく得策です。おまけに、王宮の中にいる人も同じ人間であり救いは必要なのだから伝道しなければならない、という理屈も成り立ちます。
一方、権力者には背を向けて、ひたすら下層に位置する民衆に寄り添うタイプがあります。イエスさまはどう見てもこのタイプです。しかしイエスさまは、ご自分のもとに集まるファリサイ派の人たちも高官の夫人たちも拒否しませんでした。そんな人たちを加えれば民衆の人気が落ちてしまう、などということはまったく考えなかったのです。言わば、イエスさまは身を低くして来る人は誰でも受け入れました。
逆に言えば、身を低くすることのできない位置に生活する人には福音を説こうとはされなかったのです。そのような人たちは人間というよりは、人間性を喪失してしまった権力のための組織と言った方が正確でしょう。彼らは権力の座にいる限り、福音は聞けないのです。イエスさまの福音はどこでも居ながらにして聞けるというものではありません。言うなれば、福音は神さまからの呼び出しですから、その声は権力の座から降りることを命じるのです。福音と政治がどのように関係するかという話ではありません。
私たちはイエスさまと弟子たちとのやりとりから、ただ二つのことを見ることができます。それはイエス・キリストの福音がこの世の政治とは別の道を進んだことと、そうした方向にもかかわらず福音が政治の世界を震撼させたことです。それはキリスト教信仰が秘めている力と言ってよいかも知れません。しかもそれは時代を超えて続いている事実なのです。
毎週礼拝を守っている信仰生活の中では、私たちは何の圧力も感じませんが、私たちが本気になってキリストと出会い、救いの問題を突き詰めてゆき、イエス・キリストと共に歩み始めると、この世の権威は恐れおののき始めると思います。キリスト教徒が弾圧され始める時は、この世の権力がイエス・キリストの力に気づき始めた時です。ヘロデ・アンティパスがイエスさまの噂を耳にするようになり、結果的に洗礼者ヨハネを殺したのは、彼が無意識に神の力を感じ始めたからです。
私は今マリアの讃歌を思い出しています。 彼女はその中でこう謳っています。 『主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます』。これがキリスト教だと私は思っています。
イエスさまはきょうのテキスト、船の上で、「まだ分からないのか、まだ悟らないのか」と繰り返し弟子たちに言っておられます。テキストに弟子たちからの応答は書かれていません。弟子たちはすぐに答えられなかったのでしょう。そして同時にこのイエスさまの言葉は、私たちにも向けられています。私たち一人ひとりが自分で答えていかなくてはなりません。その答えは私たちが現実の世の中でどう生きていくかという生き方で示していくしかありません。
そう言ってしまうと難問の前に希望は見えて来ないと映るかもしれませんが、イエスさまと離れない限り安心してよいのです。弟子たちは別段しるしを求めたわけでもなく、この世的な策をろうしたわけでもありません。彼らはただイエスさまと共にいるという事実のゆえに、必要が満たされたし、福音は進展していったのです。ですから私たちキリスト者は自分の力の不足を嘆いて、天からのしるしを求めたりする必要はまったくありません。ただくれぐれもこの世の権力と結びついて福音の前進をはかろうとしなければよいのです。ひたすら静かに、しかし勇気をもって、イエスさまの全人格に信頼して日々の生活を続ければよいのです。そうすれば、神さまは各々に相応しい道を必ず備えてくださいます。祈ります。