2018.06.17

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「救いの絆で結ばれた共同体」

陶山義雄

詩編84,2-13マルコ福音書3,31-35

 教会暦で本日は「三位一体後第3主日」です。これは聖霊降臨日(今年は5月20日)の翌週(同5月27日)が三位一体祭であり、それに続いて6月3日、6月10日と日曜ごとに数を重ねて、今日が「第3の聖日」であることを意味しています。聖日の番号付けは、11月4日の「三位一体後」は「第23主日」まで続きます。三位一体を数える聖日が24週あり、一年のうち半数近くが三位一体主日に数えられています。これ程長く続くので、他の祝祭行事に比べて期待感や緊張感も希薄になっているかもしれません。しかし、教会が三位一体の教説を軽視していた訳ではありません。

 私たちは祈りの度ごとに「主イエス・キリストの父なる神」への呼びかけと、祈りが受け入れられるように「聖霊」の執り成しと助けを求めて来ました。また、礼拝の終わりで捧げられる「頌栄」には「父・子・聖霊」なる三位一体の神に、礼拝を閉じるにあたって賛美を捧げています。また牧師による祝祷も三一の神への祈りが捧げられ、私たちはこの世へと遣わされて行くのです。このように、言わば、自明の理として教会は、父・子・聖霊の三つの位格(ペルソナ)が一つである神を伝統的に信仰の対象にして来ました。

 1年の半分近くの聖日を「三位一体後の主日」として覚える意味は、このように、教会の信仰の根幹に関わる神を、三つの位格をもって告白することが、どんなに大切であるかを語っています。クリスマスを迎えるまでの長いこの期間に私たちは「三位一体」の教説から神に付き、御子につき、聖霊につき、そして教会について、じっくりと腰を据えて学ぶべき時節として教会暦に置かれています。教会は父と子と聖霊が生きて働いて来たことの「見える証」であると信じます。

 そして先ほどお読みした本日の聖書・テキストには、御子によって招かれる神の交わり、共同体、教会の生きいきとした有様が描かれています。この聖句を読む度に、私は19世紀に活躍したドイツの思想家・ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel 1770-1831)が説いた弁証法を思い出さずにはいられません。彼はキリスト教思想を自分の哲学に置き換えて「この世化」しようと試みた哲学者ですが、神を絶対精神に置き換え、世界の歴史は絶対精神の自己発展であると唱えました。その説明の一つに私達が営む集団生活を取り上げて、「歴史は先ず、命が創造される家族から始まり、市民社会へと押し出され、最後は共に生き・生かされる共生の共同体(我なる我々、我々なる我)へと発展する」という歴史の理解です。ヘーゲルによる有名な弁証法がここに繰り広げられています。世界は定立、反立、綜合へと発展する。ドイツ語ではThese→Antithese→Synthese これを日本語では通常、定立から反立へ、そして最後は前の二つが止揚(アウフヘーベン)されて綜合される、というものです。

 生命の誕生は先ず、両親がありそこで営まれる家族という集合体が定立であれば、子供が成長する中で家を離れ一般社会へ出て行く中で営まれる集合形態が反立になります。しかしこの二つが綜合される綜合の形態がヘーゲルの提唱し、また、理想とする共生の共同体である、というのです。これはイエスが本日のテキストで語っている「私の母、私の兄弟とは誰か」(マルコ3:33)、「神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ」をヘーゲルが弁証法的に解釈して、家族に代わって、聖書が説く「神の国」を綜合の「共同体」として読み変えることによって、キリスト教の枠を取り払い、こうしてイエスの言葉を哲学に置き換えて「この世化」している、実に見事な一例であるように思います。新共同訳聖書の翻訳も、いささかヘーゲルに引き寄せられているように感じます。家族を離れて、「神の御心を行う人こそが真の兄弟、姉妹、母なのである」と言えば、家族形態が次に来る「神の国」とは対立的に扱われ、否定的に受け止められてしまいます。しかし原文では「神の御心を行う人であれば、誰もが私の兄弟、姉妹、また母なのである」となっています。つまり、家族であっても「神の御心を行う人であれば、肉の繋がりに加えて、神の国の兄弟、姉妹、母になり得ることをイエスは語っているのです。

ος άν ποιηση το θέλημα τού θεού (下線の小詞は仮定の意)
Whoever does the will of God (RSV)
神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである。(口語訳)

 ヘーゲルの思想がドイツ観念論であると言われる理由はここでも見受けられます。神の国に、身内である家族は入ることが出来ないとは考えられません。勿論対立する場合もあるでしょう。どちらもあり得るというのが現実的で正当な理解です。観念論の果てにヘーゲルは家族・市民社会・の後に来る綜合である共同体を「プロイセン国家」であると言い、ベルリン大学の要職に就いたヘーゲルは現実の政治形態を容認さえしています。後にカール・マルクスが『ヘーゲル・法哲学序説・批判』を出してヘーゲルを批判した理由もうなずけるというものです。しかし、マルクスがヘーゲルに代わって提唱したコミュニズムが、相応しい共同体であるかどうかは、現代史のなかで現在、試されている所です。

 私達には、「これなしには生きられない」というものがあるでしょうか。家族はその一つに入ると思います。私達は両親の愛の中で生まれ、育ち、今に至っていることが何よりの証しです。人は愛の中で生まれ、愛の中で育ち、今も愛の中で生きているのです。その延長線の上に、イエス・キリストが説いている「神の御心を行う共同体」も間違いなく存在しています。血の繋がりを超え出て結ばれる共同体、ここにイエスが説いている「愛」によって成り立つ「神の国」があるのです。「救いの絆」とは個別の愛であると共に、普遍的な愛を指しているのです。

 高橋和巳という作家・思想家をご存知でしょうか。1966年39歳の若さで世をさった人ですが、人間の宗教的佇まいを掘り下げて小説(『邪宗門』、『捨て子物語』など)を書き、エッセイなども残しています。彼の書いた「我が宗教観」の中に、こういう一節があります。

「献身や愛など、宗教的感情はつきつめてゆくと、母の子供に対する関係のあり方に帰結する。抽象的な教義が先にあって、人は人を愛するのではなく、誰が教えずとも母は子を慈しむような関係が先にあって、さまざまの世の汚濁からの救いとして愛や慈悲の観念が生まれる。有能だから愛するのでもなく、報酬を欲して世話をするのでもない存在そのものを尊重する母の愛がおそらく、全ての宗教的感情の原型なのではなかろうか。そしてそれが同時に一切の煩悩、苦悩の根源でもあるのだろう。」

 ここに血の繋がりを超え出て普遍的な愛に目覚めて教えを説く聖人の誕生が待ち望まれるのです。今日のテキストはそのことを見事に指摘しています。

 新共同訳聖書のように、家族と神の御心を行う共同体とを対立的に捉える見方は私も分からない訳ではありません。今日のテキストの直前で、イエスの敵対者がイエスのことを「気が狂っている」と言いふらせていたことで、身内の者が心配しながらここに来ています。でも、これは身内の者たちが「神の御心を行う共同体」について無理解、もしくは反発していた、とまで読み込んで良いのかは疑問が残ります。ただ、マルコ福音書記者は、初代教会においてイエス亡き後、ペテロを頭首とする教会が組織され、その上に、イエスの肉身(実弟)であったヤコブが祭り上げられていたことを知っていたので、これを痛烈に批判するような姿勢をもって福音書を編纂していた可能性があります。(主イエスの一行が旅の途上で弟子たちに、「私が誰であるとあなた達は考えているのか」を問い質した出来事について、マルコ8:27〜34と、ぺテロを頭首とする教団擁護の中で編纂されたマタイ福音書記者(16:13〜19)を比べると、マルコ記者がペテロを頭主とし、ヤコブを祭り上げた初代教会を批判している姿勢が良く見えています。)

 この批判的姿勢をもって今日のテキストでも身内の無理解を際立たせているとすれば、新共同訳聖書の翻訳もうなずける所です。しかし、イエスの母マリアは群衆と共にエルサレムに同行し、イエスの裁判を遠くから心配の眼差しで見つめ。十字架の傍にも同席し、イエスの死後、マグダラのマリアと一緒に誰よりも先にイエスが埋葬された墓へと母マリアが足を運んでいる出来事を見ると、家族とイエス共同体とを分け隔てる見方は、差し控えなければならないでしょう。吉本隆明も『言葉という思想』の中の「喩としての聖書」を論ずるところで、今日のテキストに関連して鋭敏な洞察を披露しています:

「このところは大変見事なところだと思えます。血の繋がりのある肉身というものは、一人の人間が社会に対して、あるいは公に対して、思想とか、考え方、それから行為とかにとって、しばしば矛盾したり、対立したり、背反したり、そういうふうな関係にどうしても置かれてしまう。そういうことが、あるギリギリに追い詰めていった場合に、それは致し方ないことなんだ、という認識がそこにあることは、思想として実に見事だ、と僕には思われます。」

 成人した子供であろうと、家族の者たちにとっては身内として昔も今も変わらず、連続的に関わっています。しかし社会人となった成人(イエス)を社会の人たちは連続的には見れないのです。そのことがこの物語には良く現れている、と吉本隆明は指摘しています。

 前回、2月11日の聖日礼拝をここで担当した際に、私は聖書に触れたアルフィーとのエピソードを紹介致しました。(それは2017年8月16日にNHK・FМ放送「ジ・アルフィー・終わらない夢」という番組で作品を紹介する中で、イエス・キリストが弟子たちに「無限の赦し」を諭しているマタイ福音書18章22節を高見沢俊彦君が紹介していた次第を申し上げました。そして、この箇所は私がキリストと出会い、牧師として献身する動機となった聖句であり、私が話したこの言葉を彼が覚えていてくれたことに深く感動した次第を申し述べさせて頂きました。)

 今回は2018年2月14日に同じ番組で放送された中から今日の聖書テキストに関連して紹介させて頂きます。それは、或るリスナーが彼らに投げかけた質問に答える中にありました。「アルフィーの身内の方もコンサートに来るのですか?」という問いに答えて、アルフィー・メンバーに共通しているのは、「身内が来ると恥ずかしい。」「家族の方でも遠慮している。それでも来たときは会場の隅で目立たないようにしていたり、会場の外にいたりする。」「こちらも始めのうちは恥ずかしさや、相手を意識しているけれど、いざ、演奏に入れば、もう熱中して身内のことなど忘れている。」というのです。

 そのあとで、「でも、先生は違う。何時コンサートに来てくれても嬉しい。」と口をそろえて言っています。そして、その放送の中で、「陶山先生、また今度、来てくださいね!」と言ってくれたのです。公共放送で私のような個人宛とも思える言葉を送ってくれたのは本当に恥ずかしい出来事でした。ただ、これはただ単に私個人を指しているのではなく、「先生」と呼びかけた言葉の奥底には彼らと、私を結びつける絆、我々を仲間として結び合わせ、交わりへと招き寄せておられる、今日のテキストで言えば、「神の御心」を共有する集団として連帯を表明しておられるのであることが分かります。それだからこそ、クリスマス・コンサートに讃美歌539番・頌栄を独自の編曲によって素晴らしい合唱として捧げることが、毎年なされているのではないか、と私は理解しています。

 身内の間で結ばれている絆の大切さと、礼拝で捧げられた神への賛美によって結ばれる絆の双方に「救いの恵み」が現れているように思います。聖書が指し示している「愛の絆」とコン「サートで彼らが聴衆に歌いかける「愛の絆」を同列に扱うことは出来ないかもしれません。ただ、教会によって建てられたミッションスクールで礼拝に与かり、頂いた御言葉を忘れることなく、その広がりの中で「主の愛」を歌うメッセンジャーになっている所に、私は素晴らしい恵みを感じています。同時に私たちはイエスが語る「愛の絆」は「神の御心」を仰ぎ、それに従う人々の群であることを本日のテキストから想起しなければなりません。「神の御心を行う人は誰でも、私の母、私の兄弟、私の姉妹である。」(マルコ3:35)私達人間の間で営まれる、家族や親族、邦友などの結びつきは脆さを抱えています。「神の御心」によって結ばれていなければ、今まで結ばれて来た親しい関係が何時、断ち切られるかも分かりません。

 1979年2月10日、ノルウェーのオスロでノーベル平和賞がマザー・テレサに贈られた時、テレサはイザヤ書49章15節を引用しながら、神の御心に結ばれた他者への奉仕が、現在どれほど大切であるかを語っています:

「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ女たちが忘れようとも、私があなたを忘れることはない。」

 「神の御心」は預言者を通して、また、聖書を通して聴くことができますが、イエス・キリストについて、「神の御心」とは一体、何を指しているのでしょうか。」福音書の中で、イエス・キリストは折に触れて、「神の御心」を伺うために群衆を離れ、寂しい所に退いて、父なる神に祈りを捧げています。1節を挙げればマタイ福音書14章23節で「群衆を解散させてから、祈るために一人、山にお登りになった」とあります。(マルコ6:46) 最も有名な箇所は「ゲッセマネの祈り」でありましょう(マタイ26:36以下、マルコ14:32以下、ルカ22:39以下)。弟子たちを従え「私が向こうへ行って祈っている間、ここに(目を覚まして)座っていなさい」と言い、「少し進んでいって、うつ伏せになり祈って言われた。『父よ、できることならこの杯を私から過ぎ去らせて下さい。しかし私の願い通りではなく御心のままに』」(マタイ26:39)。

 イエス・キリストがその手本を示しておられるように、私達は「祈り」によって「御心」を伺い知ることが許されるのです。「祈り」にあたるヘブライ語は「対岸に立つこと」という意味を持っています。自己本位の願いを祈りによって対岸、つまり「神の側」に身を預けて安らぎを得ることを意味しています。今年度の教会総会で私たちは祈りを合わせました。祈りを通して、神の御心として受け入れなければ、どのような意見が採択されても分裂を招くばかりです。救いの絆に結ばれていれば如何なる結論でも受け入れることが許されます。

 「神の御心」に私たちが与かれる今一つの途は「礼拝」です。このことについては、パウロがローマの信徒への手紙12章でハッキリこう語っています:「兄弟たち、神の憐みによってあなた方に勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生ける供え物として神に捧げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、こころを新たにして自分を変えて頂き、何が神の御心であるか、何が善い事で、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(同12:1〜2)。ここは大切な箇所ですから、改めてご一緒に学ぶ機会を持ちたいと願っています。

 一言付け加えれば、礼拝によって私たちが与かる恵みについてパウロは同じ12章9節以下に述べています。「兄弟愛をもって互いに愛し・・・霊に燃えて主に仕え、希望をもって喜び、苦難に耐え忍び、たゆまず祈り、迫害するもののために祝福を祈り、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣き、互いに思いを一つにして高ぶらず、・・・全ての人の前で善を行うように」私たちは礼拝によって変えられるのです。こうして「なすべき礼拝」に与かる人たちは、1つの共同体へと造り変えられます。バラバラであった私たちは「神の御心、救いの絆」に結ばれて1つの体に繋がる枝のように作り替えられるのです。その頂点に12章15節があります:「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。誰に対しても悪に悪を返さず、全ての人の前で善を行うように心がけなさい。」「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。」、「悪に負けることなく善をもって悪に勝ちなさい。」

 こうした生き方は到底、私には出来ない、と言いたくなります。ですから、「なすべき礼拝」が大切なのです。自分一人ではできなくても、礼拝に集う人々が心を合わせて祈り、キリストがそのように生きて下さった道に倣って生きることを始める中で、このような愛の共同体が生まれるのです。

 先の教会総会を通して私たちは一段高く引き上げられたように思います。それは私たちの努力も然ることながら、祈りを合わせる中で与かることが出来た神の恵みです。当初、自分が抱いていた案が何案であったとしても、祈りを通して私たちは作り替えられ、1つになってどの案であっても受け入れる心へと変えられました。このように素晴らしい信仰の同士たちに囲まれていることを主なる神に心から感謝したいと思います。そしてなお残る私達の課題についても、共に「神の御心」を伺い、祈りを通して相応しい解決が供えられることを共に信じて、これからもご一緒に信仰の歩みを続けたいと願っています。

「神の御心を行う者は誰でも、私の兄弟、また姉妹、また母なのである。」

祈祷:
主イエス・キリストの父なる神様
わたしたちに かくも豊かで素晴らしい、主にある交わりを与えて備えておられることに心から感謝致します。どうか、この恵みに応えてそれぞれが、あなたに喜ばれる勤めと働きを交わりの中で,また交わりの外でも果たすことが出来ますように。あなたから賜る救いの恵みを、人間関係で悩み苦しんでいる世の多くの人々に向かって証しを立てながら、あなたの御国を広める教会として私達を強め用いて下さい。


 
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