イエスさまとお弟子さんたちの旅の途中、イエスさまに祝福していただくためにお母さんたちが小さな子どもを連れてきました。乳飲み子って書いてあるけれど、これはお母さんのお乳を飲んでいる子どもってことだから、あかちゃんのことです。
イエスさまのお弟子さんたちは、これを見ていいました。
「ちょっとちょっと、イエスさまも疲れているんだから、だめですよ。だいたい子どもなんて連れてきたってイエス様のお話もまだ分からないんだから、後ろに下がってください。」
でも、それを聞いていたイエス様は、赤ちゃんを抱いたお母さんたちを「こっちにおいで」と近くに呼び寄せてから、集まった皆にお話されました。
「子どもをわたしのところにつれてきなさい。ダメなんて言ってはいけないよ。だって、神様の国っていうのは子どものような人たちのものなんだよ。子どものように神様の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできないんだよ!
そんなこと言う人は、いままでいなかったから、みんなびっくりしました。このころは、とにかく大人の男の人が一番えらかったんです。今だったら、子どもだって意見を聞いてもらえるし、教会でも、子どもたちのための礼拝の時間がありますが、昔はそうではありませんでした。
それに、小さい子どもには特に今より沢山病気がありました。十人子どもを産んだとしても、そのうちの何人かは大人になるまでに病気や怪我で亡くなってしまう時代でした。
だからこそ、お母さんたちもイエスさまに手を触れていただき、祝福していただこうと、必死で子どもを連れてきました。
一度は怒られて帰らされそうになったけれど、イエス様が呼び止めてくださってお母さんたちはきっと安心したでしょう。
さて、イエス様は、
神様の国は「子どものような人たち」のものなんだよ。
と言っています。
ところで、子どもたち「みたい」な人って一体、どんな人だろうね。
今日は、みんなとそこを考えてみたいと思います。
子どもみたいってどういうことかな?
みんなはどう思った?
「私たち、子どもみたいっていうか、子どもだし、大丈夫じゃん」
「あー、今日は後ろにも沢山人がいるけれど、子どものような人かどうかというと、うーん、ちょっとどう頑張っても子どもとは言えないし、後ろの人たちはちょっと諦めていただいた方がいいかもね。」
でも、もし、年齢だとしたら、今日のお話に出てくる子どもは、乳飲み子、つまり赤ちゃんですから、みんなより、きっともっと小さい子どもでした。赤ちゃんと比べたら、みんなもずいぶん「大人」かもしれない。
15、16歳には実質的に大人としてみなされる国が今でもあります。
1000年、2000年とさかのぼっていけば、更に早く大人として数えられる時代もありました。小学6年生や中学生のお友達は、時代や国によっては大人の仲間入りしているかもしれません。
年齢で「大人」と「こども」を分けるとなんだかわからくなっちゃうから、別の考え方をしてみましょう
みんなが赤ちゃんのときと比べて、できるようになったことって何がある?
じゃあ、逆に赤ちゃんのときと比べて、何かできなくなったことってある?
うーん、できなくなったことって難しいよね。なにかあるのかな。
ボクには今1歳の息子がいます。最近、本当にやんちゃになってきて、机の上によじのぼったり、食器棚のお皿を気づいたら全部外に出していたり、本当に目が離せません。
でも、1歳っていうと、歩けるようにはなったけれど、まだ一人で着替えることもできないし、トイレにもいけないし・・・できないことだらけです。
でも、本人は全然困りません。それは、お父さんとお母さんがぜーんぶやってあげるからです。
息子はそれを当たり前のことだと思っています。そして、お父さんとお母さんが、自分のことをだーいすきで仕方ないってぜんぜん疑っていないです。
みんなもそうでしたよね?
遠慮もしません。
そろそろ抱っこも30分超えたから、このあたりで一度休憩を挟んでいただいて・・・とかいちいち気にしません。
今日はこれで3回目のうんちだから、おむつ替えてもらうの、もうしわけないかなぁ・・・と思いません。
息子は、机の上からボクに向かってジャンプしてきます。もし、ボクが受け止めなかったら、床に落ちてケガしてしまう高さです。でも、全然怖がることもなく、全身を預けてきます。
お父さんとお母さんのことを100%信じているし、お父さんとお母さんの愛に100%よりかかることができます。
それって、実は大人になるにつれて、なかなかできないことじゃないでしょうか。
話は変わるけれど、ボクは大学生くらいの頃に、心の病になってしまった人が行く病院で、アルバイトをしていたことがあります。治療の一環として、患者さんが4、5名くらいのグループを作って、先生を囲んで色々なゲームをしたり、運動したりするんだけれど、その中で一度「トラスト」というゲームをしたことがあります。
トラストは、簡単なゲームです。
一人がきをつけして立ちます。
その人の背中側に、別の人が座って手を出して構えています。
そこに、立っている人は後ろを見ないまま、倒れ込みます。
座っている人が、しっかり倒れてきた人を支えるので、絶対にケガはしません。
倒れていくときに、手をうごかしたり、体を曲げちゃったりしたら負け。
最初はこのくらいの角度で、だんだんと慣れてきたら、角度を急にしていきます。
たったこれだけだけど、やるのはすごーく難しいんだよね。
みんなも十分に広さがあって、マットとか布団とかもし倒れても安全なところでやってみるといいかもしれません。
倒れようとすると不安になって、途中で自分で体を支えてしまおうとします。ペアがしっかり体を押さえてくれるかどうしても心配になってしまうんです。
でもね、これはね、大人よりは、中学生が、中学生よりは小学生の方がが上手だったりします。大人は何回か体験すると、ようやく「あ、大丈夫そうだな」と気づいて最後まで体を倒すことができるようになります。
このゲームを見たときに、年をとるにつれ、自分のちから一人で生きられるようになるにつれ、体を誰かに預けきるって難しくなるんだなぁって感じました。
赤ちゃんにはできて、大人にはとてもむずかしいこと、見つかりました。
自分ではない誰かを信じ切って、全身を預けきること。
それは、もし神さまとの人間との関係だったら、神さまにすべておまかせします。っていうことです。
赤ちゃんがお父さんとお母さんの愛を疑わないように、神さまはボクタチを愛してくださっているということを心のそこから受け入れるってことです。
イエス様は、神様の国がそういう人のものだって言ったんです。
勉強ができて、いい成績を取れるとか、
厳しい修行をして心と身体を鍛えるとか
毎日教会に行って献金をするとか
そういうふうに、「君は〜ができるから、神さまの国に入れるんだよ」ってイエス様はおっしゃっていないということです。
大事なことは、
赤ちゃんのように純粋になりましょう。
心をキレイにしましょう。
汚れのない体になりましょう。
そしたら、神さまの国に入れますよ。
なんてことも言ってないと思うんです。
そういう、ボクたちが考えられる「いいところ」や「つよさ」がひとつもなくたっていいんです。
神さまの国に入れるのはボクたちに「いいところ」や「つよさ」があるからじゃなくて、ただ、神さまがボクたちを愛してくださっているからです。
今日の聖書で、イエスさまがお話していたことは、普段はあまり言われないことかもしれません。
お勉強したり、習い事したり、宿題をしたり、友達と遊んだり、
そういうことは一つひとつ、みんなが毎日成長して素敵な大人になる上でとても大切なことです。
でも、イエス様が神さまの国は人間の中で最も力のない、何も知らないはずの「子ども」のような人たちのものなんだよって言って、子供を祝福してくださったこと、忘れないでください。
頭が良い人ではなく、たくさん献金した人でもなく、
神さまがボクタチをとっても愛してくださっていることを信じる。
赤ちゃんが、お母さんとお父さんを、100%信じているように。
ただ、それだけなんだって言ったこと忘れないでください。
それは、きっとこれからの人生の色々なときに
みんなのちからになってくれることだと思います。