2018.04.15

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「新しい人を身に着け」

秋葉正二

列王記上 17,17-24コロサイ 3,1-11

 コロサイ書はパウロの真正な手紙ではないと見られています。パウロの死後、弟子の一人がパウロの名によって書き送ったものです。コロサイ教会はパウロの活動により誕生した教会ではなく、コロサイに福音を宣教したのは弟子の一人のエパフロスです。エパフロスの福音理解はもちろんパウロ的なものですが、時が経つに連れ周囲のキリスト教と競合するように展開されていた外部の教えに、コロサイ教会の人たちが影響されていったという状況が起こりました。

 パウロは紀元60年頃に殉教していますが、彼の死の直後にパウロの名をもって認められた書簡です。もちろんその理由は、このままコロサイ教会を放っておくわけにはいかないという弟子たちの判断です。コロサイ教会の位置は巻末地図の9で確認できます。エフェソの町から東方に入った内陸の町です。パウロは訪れていませんので、彼の宣教旅行地図には載っていません。

 私たちにとって大切なことはこの手紙が福音の真理として主張している事柄をしっかり理解することす。ちなみにコロサイ教会の信徒たちは主にギリシャ人です。コロサイ地方にはユダヤ人移住者もかなりいたことが分かっていますが、教会としては異邦人教会です。

 さて内容に入りましょう。1節には 『キリストと共に復活させられた』 という表現があります。そのような信仰によってしか確信できない生き方があるという主張が展開されます。復活のキリストにあるキリスト者は「上にあるもの」を求めなさい、と勧めます。「上にあるもの」とは神さまの右に座しておられるキリストで、全権を委ねられたお方として天上には主イエス・キリストがおられ、この方が再臨されるとき、私たちの本当の命が栄光のうちに現れますよ、と述べるのです。

 私たちはキリスト者と呼ばれて世の人たちと何か違う存在のように思われている面がありますが、表面的には他の人と何ら変わりません。しかし上を仰ぐことによって、全知全能の主権を与えられているイエス・キリストを知っています。この主に導かれて歩めば、私たちの生活はこの世の人とまったく異なることが分かる、と言うのです。

 キリスト者が地上生活を送る意味は、私たちの中に与えられている神様の現実を証しして生きることにあります。家族でも友達でも、私たちの何かではなく、神様の現実を証しするのです。そこで 『地上のものに心を引かれないようにしなさい』と勧めるわけです。3節には『あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されている』とありますが、キリスト者の生とはそういうものだという説明です。日常生活ではそれは自明なことでも現実でもありません。天上におられるキリストと地上に生きる私たちキリスト者との間にある深い緊張関係にしっかり目を留めるとき、復活のキリストにあるキリスト者の生が向かうべき方向が見えてくるというのです。

 また、キリスト者の復活の命はキリストの再臨においてのみ、完成されることも主張しています。著者は1-4節で幾つかのこうした視点をまず示した上で、それらの視点に基づいた具体的な勧告を5節から始めます。3節で 『あなたがたは死んだのであって』 と表現されているように、私たちはキリストと共に死んだのだから、神様に敵対するこの世的な関心や生き方から決別するように、と勧めるのです。

 5-8節には道徳的な悪徳リストとでも呼ぶべき悪徳が列挙されています。地上的なものとして「みだらな行い」から始まって、まず「貪欲」までのリストが挙げられています。『貪欲は偶像礼拝にほかならない』という表現もあります。ここに連ねられている悪徳は、当時の代表的な悪徳として認められていたものでしょう。現代でもさして変わりません。情欲や悪い欲望を褒める人はいないでしょうし、この世におけるある時代の人間の悪は、どの時代でも悪なのです。こうした悪がなくても、つまりこの世の人間的・地上的なものはなくても、人間は豊かに生きることができる、という宣言でもあります。

 テキストではスパッと悪を切り離すような印象を受けますが、これは私たち人間にとってそんなに簡単なことではありません。私たちには情欲がありますが、男女間の性欲などを考えますとこれは本能でもありますから、お互いに傷つけ合わないように注意しないと、とんでもない結果を招きます。

 昔、月刊雑誌の編集をしていた頃、毎月締め切りが近くなると、印刷会社の出張校正室にこもって朝から晩まで校正作業に従事しました。ある時、お隣りの部屋が某週刊誌の校正室だったことがありました。 昼休みに一息入れて、お隣りの編集部員とおしゃべりをしていましたら、彼が言うのです。「週刊誌の編集の基本要素は色と欲と野次馬根性ですよ」。私はもっと真面目なインテリが真面目なテーマに取り組みながら編集にあたっていると思っていたので、ちょっと驚きました。それからというもの、週刊誌を見る度になるほど、言われた通りの基本要素から成り立っています。

 人間が貪欲や情欲から解放されるは、自身の意思だけでは無理でしょう。しかし手紙の著者はキリスト者ならできる、と言います。9-10節には 『古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け……』と書いてあります。 8節には、怒り・憤り・悪意・そしり・口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい、とあります。 これらはすべて地上的なもの、人間的なものです。私たちは神様に促されて、まっすぐに天を仰いで、こういうものと私は関係ありません、と宣言しなければならないのでしょう。

 でも日々の自分の姿を思い浮かべると神様に嘘はつけませんから、簡単には宣言などできません。「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て」とありますが、例えて言うならば、ぐっしょり濡れてしまって体にぴったり張り付いてしまった衣服を脱ぎ捨てるのは容易ではないのです。悪いことを脱ぎ捨てようと思っても、実際は焦ってなかなか出来ない状態が関の山でしょう。しかし新しい人を身に着けると言っても、漠然と努力しろというのではありません。身に着けるのは「造り主の姿に倣う新しい人」なのです。造り主の姿の代表者は主イエス・キリストです。イエスさまに倣うように生きなさい、そうすれば 「新しい人を身に着け、日々新たにされて真の知識にまで達する」ことができることが示されています。

 具体的には福音書を通して、いつもイエスさまの様子、動向にしっかり目を凝らすことでしょう。聖書を継続的に読んでいないと、キリスト者と雖も、すぐにただの人に落ちていきます。イエスさまに倣って生きていないからです。11節のみ言葉はいいですね。すごく大事な箇所です。『そこには、もはや、ギリシャ人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません』。

 ここには人種、階級、文化の上での差別がもはや通用しないことが主張されています。宣教開始以来、高々30年程にして長年の人種の差別を取り除いていることは、イエス・キリストの福音の最も素晴らしい業績の一つだと思います。ローマ帝国の支配による実態は、あらゆる差別の構造から成り立っていた社会です。奴隷制、民族差別、文化的に高いとする傲慢な意識……それらをイエス・キリストの福音は一つ一つ取り除いていきました。私たち現代人が当たり前としている民主主義や自由・平等といった概念は、イエス・キリストの福音から出発しています。

 当時、ローマの権力が絶大であった時、奴隷制度が現実に無くなっていくと考えたのはキリスト者をおいて他にはなかったでしょう。未開人・スキタイ人が引用されているのは、ギリシャ人とユダヤ人の場合のような対立を意味するものではありません。未開人という呼び方は、ギリシャの文化人たちにとって、ギリシャ文化に疎遠な人たちの代名詞です。スキタイ人は北方の草原地帯から出た遊牧民ですが、ローマ人やギリシャ人は文明開化の面から最下等の野蛮人と見なされていた人たちです。また当時のローマ人やギリシャ人は、奴隷を人格としては認めず、彼等にとって奴隷は単なる家財道具の一つのようなものに過ぎませんでした。

 パウロがフィレモンへ宛てた手紙の中で、逃亡奴隷のオネシモを主人フィレモンへ送り返すにあたって書き記した言葉を思い出してください。「フィレモンへの手紙」は私の特愛の書の一つですが、 16,17節を読んでみます。『もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです。だから、わたしを仲間として見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください』。こう書かれたら、フィレモンはオネシモを兄弟として受け入れる他ないでしょう。

 私は初めてこの箇所を読んだ時、ずっとキリスト教で行こうと思いました。以来折に触れて、「フィレモンへの手紙」を愛読しています。コロサイ書の筆者も福音から出た同じ真理に基づいて手紙を送ったと思います。どんな人間もただ人間として神様とキリストに向き合うのであり、そこには人種や教養、社会的身分など、いかなる区別もありません。私たちは社会生活を送る際、社会的機能や役割の上での区別に遭遇しますが、そこに階級上の差別を生み出してはなりません。

 この手紙の筆者は、人間社会の日常生活を軽視することを奨励しているのでないことはもちろんです。「上にあるもの」を求めなさい、などと言われますと、思想領域だけの問題提起のようにも受け取られがちですが、そうでないことはよく分かります。現代世界には依然として国家間の対立、人種差別、階級制度、社会的文化的偏見などの壁がありますが、イエス・キリストを中心にしていく時、そうした人間的対立や差別が取り除かれていくことを心に銘記して歩んでいきたいものです。キリスト者にとってはイエス・キリストがすべてであり、すべての内におられます。祈ります。


 
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