2018.03.18

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「人間と自然が共に苦しむ」

秋葉正二

創世記6,5-7ローマ8,18-25

 20世紀に地球規模での自然破壊と環境汚染が進んだ時に、その責任の源はキリスト教にある、という主張がなされました。 広大な森林の伐採や水俣病のような大規模公害が世界各地に起ったのですから、そうした環境破壊が人類存続に対する危機であることが明白である以上、その原因を追求するのは当然です。 しかし責任の源がキリスト教にあると指摘されれば、それは私たちの問題になります。 創世記の創造物語が槍玉に挙げられて、「ほら、こう言っているじゃないか」となったわけです。

 確かに創世記の1章26-28節を見ると、人間を自然の支配者と定める神様の言葉があります。 『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう……産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ』。  「支配せよ」と訳された言葉が問題にされました。 ヘブライ語の「ラア―ダー」という動詞なのですが、辞書によりますと本来は王の「統治」に使われる言葉です。 「支配せよ」と訳しますと、「従属させる」「束縛する」というニュアンスが強く出てきます。

 とにかく支配するのは神様に似せて造られた人間ですから、この人間中心の自然観から始まって、中世の修道士によって育まれた機械や動力尊重思想などを経て、近代の科学や技術の無制限な研究・開発をもたらした、というのがキリスト教批判の理由です。 もう西洋文化は限界だ、これからは自然を友とする東洋思想だと言う人も現れました。 キリスト教は、人間がこの世界の支配権を与えられており、自然を自由にできると解釈されたのです。

 ところがこの言葉にはもっと深い意味があることを旧約学者が明らかにしてくれました。 支配すると言っても、ただ一方的に支配するのではなく、相手の心をしっかり受け止めてこれを生かす、神様がこの世界に存在するもの全てがそれぞれの居場所をあたえられ、役割を持っている……この調和が崩れないようにこの世界を守っていくことが「支配」なのだというのです。

 たとえば羊飼いが羊を支配しますが、それは羊の命を守るためです。 こうした説明を聞くと、私たちもちょっと励まされます。 とにかく人間が自然界の秩序保持の責任を負って、自分の務めをきちんと果たせば自然は守られることになります。 しかし人間が自分の責務をおろそかにすれば、自然の秩序は乱されるということになります。

 何にせよ人間は自然界に対して責任を負うというのが聖書の考え方です。 先ほど「ノアの洪水」の箇所を読みました。 地上に人間の悪が増したので、神様は人を創造されたことを後悔して 『これを地上からぬぐい去ろう』 と決心されています。 これは人間の悪に対する神様の審きが、創造世界全体の破滅に繋がっているという話です。 ユダヤ教の黙示文学にも、人間の罪悪が天変地異を引き起こして、ついにはこの世の終りが来るという思想があります。

 ところで、イエスさまは自然をどのように捉えておられたのでしょうか。 イエス様は人間の罪が自然を巻き添えにして、災害や天変地異が起こるとは考えておられなかったと思います。 イエス様は人間と自然を対立的には捉えていないのです。 だからこそ、「鳥のことを考えてみよ」、とか「野の花がどのように育つか考えてみよ」とか言われたわけです。

 それではパウロはどうかなと思い、きょうのテキストを選びました。 パウロも基本的には自然と人間を対立的には捉えていません。 ロマ書の1章を読むと、目に見えない神様の性質が被造物に現れていて、これを通して神を知ることができるとも考えていたようですが、彼はそれよりも、創造主としての神と被造物としての自然の関係をきっちり考えました。 そのことがきょうのテキストにある(自然が苦しんでいる〉という理解です。

 キリスト教神学には自然環境が視野に入っていないのであろうかと心配な方はぜひこのロマ書8章を読まれるとよいと思います。 私はこの箇所を読むとホッと致します。 パウロは人間の方だけを向いていたのではなく、自然も見ていたことが分かるからです。 しかも19-22節を見れば、彼の視点はただ単に自然を眺めているということではなく、被造物全体に及んでいることが理解できます。

 『被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます』 とありますが、この物言いの背後にパウロは創造物語を思い浮かべていたに違いないと思います。 創造物語には失楽園とかノアの洪水のような堕落論がありますが、そこには人間の堕罪の結果、被造物全体が神様との正しい関係を保つことができなくなり、神様の怒りの下に置かれたという考えがあります。 そのような被造物が、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいるのだと言うのです。

 神の子というのは端的に言えば信仰者のことでしょう。 パウロの脳裏には人間だけでなく神様が創造されたこの世界のすべての被造物がイメージされていたと思います。 私たちの周囲にある美しい草花や景色などの自然環境やいろんな種類の生き物が、私たち人間と一緒に存在しているのだという実感が湧いてくるのです。

 私たち家族は12年間、ハスキーという名前の大型犬と一緒に生活したのですが、ハスキーと共に過ごした日々が死後14年経っても生き生きと浮かんでくるのです。 皆様の中にも犬や猫や小鳥たちと共に生活しておられる方がいらっしゃると思います。 それはきょうのように環境問題を考えようとする時に大きな力となります。 ハスキーは何度も私に自分の中のエゴイズムを指し示してくれました。 人間と暮らす動物たちには人間のようなエゴはありません。  飼い主に全幅の信頼を寄せてくれますし、裏表のない愛情を示してくれます。 ハスキーの場合、教会犬という働きもしてくれたので、どんなに牧会を助けてもらったかしれません。

 アルベルト・シュバイツァーの自伝をお読みになられたでしょうか。 あの自伝は地球環境を考える際の大きなヒントを与えてくれると思います。 シュバイツァーは子供の頃から世の中になぜ不幸があるのか、動物たちがなぜ苦しまなくてはならないのか、いつも考えていたと書いています。 足を痛めた年老いた馬が棒で殴られながら屠畜場に引かれて行くのを見て、何日も悩んだと言います。 お母さんと毎晩祈る時に、いつも人間のためだけに祈るのに納得がゆかず、後でこっそり動物たちへの祈りを付け加えたというのです。 幼い頃のこうした感性はその人の人格形成に大きく影響します。 それが後年、神学者の彼に〈生命への畏敬〉という倫理思想を生み出し、エコロジー神学の先駆となったことは有名です。

 人間以外の生き物たちに目を向けることは、地球環境の問題を考えることに大きく役立ちます。 最初にキリスト教の人間中心主義が環境問題を考える際に批判を浴びているという話をしました。 その人間中心の考え方に「ちょっと待った」とアドバイスをくれるのです。 パウロはどんな気持ちで22節以下の事柄を語ったか、私にはよく分かる気がします。 すべての被造物は共に呻いているのです。 中でも霊の初穂を頂いている…つまり、聖霊によって救いを約束されている私たちは、神の子とされることを心の中で呻きながら待ち望んでいるのです。

 これは見える世界の事柄ではありませんが、私たちにとっては希望だ、とパウロは言います。 忍耐して待ち望んでいるとも言います。 神様は人間をご自分に似せて、つまり人間を愛して創造されました。 一度は愛想をつかされて、滅ぼされる寸前の人間でしたが、何とか全滅は免れたとノアの物語は語っています。 人間の絶望的な現実においてもなお、神様はたゆまず私たちを愛してくださいました。 神様の人間にたいするその愛に信頼することによって、人間には希望があり、あらゆる被造物にも未来があるのだ、とパウロは語っているのだと思います。

 ヨハネ福音書の3章16節はこのことを裏付けてくれます。 イエスさまをこの世に派遣するほどに神様は人間を愛してくださっています。 最後に述べておきますが、人間中心主義に悪い点があるのは確かだと思います。 しかし人間中心主義をそっくり放棄してしまうことにも問題があります。 人間中心主義を放棄することによって、現在人間としてしなければならないこと、自然に対する人間の責任も放棄してしまうことになりかねないからです。

 むしろ私たちは人間が中心に位置していると自覚することによって、自然に対する自分たちの責任意識も自覚できるのではないでしょうか。 別な言い方をすれば、人間が中心になってこの世のすべての被造物、動物も植物も、一緒に共生できる世界を築いていくことが求められていると思います。  祈りましょう。


 
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