「神様を見る」という変な説教題になりました。 なぜかと言いますと、きょうのテキストの10節に『彼らがイスラエルの神を見ると』と書いてあったからです。 思わず「えっ、神様って見ることができるの?」と思います。 33章20節にはモーセに向かって神様が『あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである』とも書かれています。
イスラエルの人たちにとって神様は創造主ですから、少なくとも私たちの仲間ではなく、言うなればまったく血の通わない絶対的な力を持つ別格の存在です。 どう考えても、友達と向き合うように気楽に相対する相手ではないでしょう。 名前にしても「ヤーウェさん」と直接呼びつけにはできず、イスラエルの人々はアドナイという言い方で表現しました。 畏れ多くも「見る」なんてとんでもないお方なのです。
ではなぜモーセ一行が『神を見ると』などと書いてあるのでしょうか? この表現の意味するところを探るには、まずテキスト全体を眺めながら見ていく必要があります。 小見出しに「契約の締結」とありますが、この「契約」と関連付けながら探ることが有効だと思われます。
「出エジプト記」はエジプト脱出の後、モーセ一行がシナイ山で神様と契約を立てて、十戒を授けられたことを記していますが、その折、神様はモーセにイスラエルの人々に示すべき掟を示されました。 これが「契約の書」と呼ばれるもので、十戒の後に、これが20章から23章までずーっと述べられています。 十戒以外の法典です。「祭壇について」とか「奴隷について」とか「死に値する罪」とかいろいろあります。「人道的律法」などの内容は現代でも通用するでしょう。
で、きょうのテキストはその結びの部分で、いよいよ神様のこの契約を締結しようという場面なのです。 先ほど「神を見る」ことを契約と関連付けながら探る、と申しましたが、イスラエルの歴史における契約と言えばまずアブラハムが思い浮かびます。 創世記17章には契約と割礼の話があります。 アブラハムが99歳の時の出来事です。 神様が彼に現れて『わたしは全能の神である』と名乗り、『わたしは、あなたとの間にわたしの契約を立て、あなたをますます増やすであろう』と言われています。
どのように現れて、どのようにアブラハムが神様を見たのか分かりません。 とにかく「畏れ多い」存在なのですから、おそらく見ていないと思われます。 その時アブラハムはひたすらひれ伏すのみでした。 すると神様はさらに『これがあなたと結ぶわたしの契約である』と言われて、こう付け加えます。 『わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする……』。 そこでは神様の恩恵が強調されるのみです。
確かにアブラハムは神様から幾つかの信仰のテストを受けることになりますが、そこには『割礼を受けて契約を守りなさい』という命令以外には何の条件も付けられていません。 契約と言っても、アブラハムの場合、それは神様側の一方的な選び、恩恵以外の何ものでもないのです。
ところが、きょうのテキストの舞台、シナイ山の場面になると、神様の条件が付け加えられるようになります。 たとえば少し前の19章でモーセ一行はシナイ山に到着するのですが、神様はそこでこう仰っています。 『もし、わたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる』。 はっきりと「わたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば」という条件が付けられています。 ということは、シナイ山の場面から、イスラエルの歴史における契約は新しい時代を迎えるわけです。
もちろんアブラハムの契約を基調にはしていますが、シナイ山の契約は一方的な恩恵だけではなく、条件付きの契約です。 ということで、神様と人との契約はアブラハム型とシナイ型に分けられます。 アブラハム契約においては、神様が責任を負い、モーセ契約ではイスラエルが責任を負うことがそれぞれの特徴です。 アブラハム型の中にはノアの契約があり、ダビデの契約を見ることができます。 対して、モーセのシナイ型にはヨシュアの契約が加えられ、やがてヨシヤ王の改革やエズラの契約も加えられていきます。
つまり「神様を見る」というのは、人の神様への向き合い方なのです。 場面としては肉体の目をもって神様を見るという描写がなされるのですが、その意味するところは神様と人との関係、向き合い方の問題なのです。 きょうのテキスト、たとえば3節や7節などを読みますと、モーセたちは決して一方的に神様の恩恵を与えられているわけではないことがよく分かります。
たとえば3節で、モーセが神様の法と言葉を読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答えています。 『わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います』。 あるいは4節以下で、モーセがイスラエル12部族のために石の柱を立てて、和解の献げ物をしてその血を祭壇に振りかけた後、契約の書をとって民に読んで聞かせると、その際も民は、『わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります』と答えています。 その時モーセは、残りの血を民に振りかけてこう言いました。 『見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である』。 聖餐式でイエス様が流された血を「契約の血」と表現しますが、そのルーツはここにあります。 歴史が進むにつれて、イスラエルの人々は、より主体性をもって神様と向き合うようになっていきます。
それを神様が人間を愛してくださった故の導きだ、と言うこともできますが、イスラエルの人々はいつまでもただロボットみたいに神様を見ていたのではないことがよく分かります。 きょうのテキストは神様とイスラエルの民との契約締結が基本内容ですけれども、それは19章のシナイ山到着以来の神顕現、つまり「神を見ること」と、契約をめぐる記述の一つの締めくくりになっています。
24章全体にはいろいろな矛盾が出ていて、解釈に困難をきたしますが、それは全体が、伝承あるいは資料層の合成物だからです。 そこに相当な付加がなされていると学者は見ています。 ですから、1-2節は9節につながるとか、3節から8節まではエロヒーム資料というものに属していて、申命記的な特徴が見られる、ということなどが指摘されています。
10〜11節に、『彼らが(モーセやアロンや70人の長老たち)イスラエルの神を見ると云々』という表現があります。 モーセたちが神様を拝して食事をする場面ですが、シナイの物語では、通常神様は基本的に密雲の中にあって、音響もしくは光を通して臨在を示されることが普通なのです。 神様を見て、食事をするというのは、天上の会食にあずかって、神様との契約に入ったことを表わす表現でしょう。 神様との契約がただ単に歴史的出来事であるだけでなく、宇宙的な出来事でもあったとも言えると思います。
また、「神を見る」というのは、文字通り「神様の顔を見る」ということではなく、筆舌では表現し得ない神様の栄光の一部を見た、ということの象徴的な表現なのです。 ヘブライ語の「彼らは見た」という言葉はハーザーという語ですが、この言葉は、通常預言者的な幻に用いられる言葉の一つですから、「見た」というのはやはり「神秘的な幻」を与えられたということです。 最初に申しましたように、「人は神を見てなお生きることはできない」と33章20節にありますが、それほどに神様は絶対的に超越し隔絶している存在だということがいろいろな表現で語られているのです。
にもかかわらず、11節では、神様の招きによって神を拝することが許され、『神を見て、食べ、また飲んだ』のです。 これはまさしく聖餐式のルーツの一つと見てもよいと思います。 一同が聖餐的な祝祭に預かったということです。 イスラエルの民はその悲惨な民族的歴史にも拘らず、「神を見る」ことを諦めませんでした。 この神様を求める彼らの信仰的熱意には端倪すべからざるものがあります。
この点で私はイスラエル人を尊敬しています。 その神様を見ようと、諦めずに求め続けた先に、歴史はイエス・キリストの姿を示したわけですから、旧約の歴史は間違いなく新約につながっています。 私たちはイスラエル人の神を見ようとした熱心に学んで、イエスさまをしっかり見ていきたいと思います。 きょうは受難節の第4主日、とりわけイエスさまの受難、十字架への歩みを一層意識してこの一周りを過ごしてまいりましょう。
祈ります。