2018.02.25

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「悪霊と戦うイエス」

秋葉正二

サムエル上16,14-23マルコ福音書3,20-30

 テキストはベルゼブルと呼ばれた悪霊(アクレイ)の話です。 日本語としては悪霊(アクリョウ)と読むのが一般的でしょうか。 恨みを抱いて祟りをする死霊(シリョウ)や生霊(イキリョウ)であり、怨霊(オンリョウ)とも言われます。 ジブリのアニメに「もののけ姫」という作品がありますが、もののけとは取り付いて祟る悪霊です。

 霊の話になると、多くの現代人は何か得体の知れない存在として正面から取り上げないのではないかと思います。 霊を正面から取り上げるのは宗教者です。 もっとも古代や中世の時代の人々は悪霊の存在を敏感に感じ取っていたようです。 源氏物語にも悪霊は登場しますし、安倍晴明のような陰陽師が活躍した背景にも悪霊の存在を感覚的に感じ取る力が当時の人にはあったということでしょう。 イエスさまの時代は奴隷制を土台とした古代ですが、庶民の悪霊に対する感覚は現代よりは鋭かったと思います。 しかしそれでも、民衆と宗教家の間には悪霊を感じ取る歴然たる感覚の差がありました。 テキストのベルゼブル論争にはそのことがはっきり描かれています。

 物語はイエスさまが弟子たちと家に帰られると、群衆がまた集まってきて彼らは食事をする暇もなかったという場面から始まっています。 家というのはイエスさまのガリラヤ活動の本拠地であるカファルナウムのペテロの家だと見られています。 そこへイエスさまの身内の者が「気が変になっている」と思って取り押さえに来た、と書かれています。 それはイエスさまの行われた業が理解できなかったからです。

 身内の人たちとは、31節に母と兄弟たちが出てきますので、彼らのことだと思われます。 その後22節からはエルサレムからやって来た律法学者たちが登場しますが、律法学者たちの指摘は身内の人たちとは異なっています。 彼らはイエスさまを指して「あの男はベルゼブルに取り憑かれている……悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言ったのです。 両者共にイエスさまを誤解していることは共通ですが、誤解の仕方には甚だしい違いがあります。

 イエスさまの身内の人たちの日常生活の規範は目に見えるものに限られていました。 忙しく生活に汲々としていた庶民はみなそうだったと思います。 そうした視点で生きていると、この世を超えた生活原理にはうとくなり、神の国を宣べ伝えることによってこの世の人々を導こうとされたイエスさまのことは理解できなくなって、イエスさまを「気が変になった」と判断したのです。

 一方、律法学者の方は明確に違います。 彼らはイエスさまがこの世を超えた世界からの力によって生きていることを認めています。 だからこそイエスさまが悪霊の頭ベルゼブルによって多くの業を行っていると誤解したのです。 身内の人たちはこの世の視点でのみイエスさまを見、律法学者たちはこの世を超えた視点でイエスさまを見ています。

 しかし両者共にイエスさまを誤解してしまいました。 この世の視点、目に見える世界、感覚的世界だけを規準にすることによって生じた誤解には、イエスさまは一切の弁明をしません。 それは話して分かることではないからです。 分かる時が来なければ人はずっと分からないのです。 けれども、この世を超えた霊的世界を認めながらイエスさまを誤解している者に対しては、譬えをもってその間違いを指摘されています。 それが23節以下にある国家や家庭やサタンの内部争いの話です。 イエスさまはご自分が何によってこうしているのか、立場を鮮明にされたわけです。

 私たちもイエスさまのように生きねばなりません。 律法学者たちは、イエスさまの力ある業を認めたからこそ、『あの男はベルゼブルに取り憑かれている……悪霊の頭の力で悪霊を追い出している』と言わざるを得ませんでした。 これに対して、イエスさまは律法学者たちが用いた言葉を用いて応えられました。 『どうして、サタンがサタンを追い出せよう』。 23節です。 その上で先ほどの譬えを話されたわけです。

 国家でも家庭でも内部で別れ争っていれば、やがて立ち行かなくなることは確かです。 教会も例外ではありません。 おそらくイエスさまの脳裏には、ご自分がこの世の悪霊の頭、暗黒の王を滅ぼすために地上に到来したという意識が芽生えていたと思われます。 律法学者が「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言うならば、それこそ「悪霊の頭をやっつけたのだから、その子分共は確実に追い出された」というわけでしょう。 イエスさまの応答の論旨は実に鮮やかです。

 27節に強盗の譬え話があるのは、ちょっと変な感じがしますが、おそらくそうした話が伝承としてあり、それをマルコが入れたのでしょう。 さて、終わりに28節以下に記されている「罪」の話に触れておきます。 30節で、群衆が『彼は汚れた霊にとりつかれている』と言ったので、イエスさまは、『人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う』と言われました。

 イエスさまはここで何が赦され、何が赦されないかを明らかにしています。 それはただ一つのことを除いて、その他の罪はすべて赦されるということでした。 そのただ一つのことは、聖霊を汚すことです。 イエスさまによる聖霊の働きが分からない人には、救いは永遠に来ません。 聖霊の働きによって初めてイエスさまの十字架の死が私たちのすべての罪を贖ってくださることが分かります。 それはドグマではありません。 上よりの力によって生きて働く信仰のエッセンスです。

 私たちは現実に数多くの失敗を犯しますが、そういう時にはイエスさまの十字架を思い起こせばよいのです。 私たちがどう悔やんでも悔やみきれない自分の罪や過ちに気づいた時、イエスさまの十字架は、私たちのどうしようもないその罪を贖い、赦してくれるのです。 このことを心から信じる時、神さまは大いなるみ手を伸ばして再び私たちを奈落の底から立ち上がらせてくださいます。

 イエスさまの十字架の死を信じることは、汝の罪を赦すという神さまの約束を信じることです。 十字架には人の罪の赦しと、その責任との関係がはっきりと示されています。 赦すことにより人を新しく生かすイエス・キリストの福音を信じる時、その人には神さまの恵みと祝福があります。 キリスト者は間違いなく主なる神さまの愛の中にいます。 祈ります。


 
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