2018.02.18

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「十字架の言葉」

廣石 望

コヘレトの言葉 2,12-17コリントの信徒への手紙一 1,17-25

I

 私たちは他人を説得したいとき、あるいは私の意見の方が他人より優れていると思われるとき、どのような手段を用いるでしょうか? 古代ギリシアの哲学者アリストテレスは『弁論術』という著作の中で、言葉による本当らしさの論証、感情によるアピール、そしてご本人のお人柄(身分、性格、徳目など)という合計3つが総合されて初めて、人は他人を説得できると言いました。

 キリスト教徒たちは、一体どうやって仲間たちや他人を説得するのでしょう? お説教や証しには、言葉・感情・人柄による説得という、アリストテレスが指摘した三つの要素がおよそ出揃っているように見えます。私自身は、言葉による説得を最も重視する一方で、人柄による説得はなるべく控えたいと思いますが、会衆の皆さんの感情に訴えることなしに、説教はかなり無力であるという経験を何度かしてきました。

 さて、その私が一番重視しているという言葉による説得には、実はいろいろな方法があります。古代ユダヤ教では、〈神聖なる掟である律法にこう書いてあるから!〉という論証がありました。パウロ自身も19節で「知者たちの知恵を私は滅ぼす、賢者たちの賢慮を私は無効化する」と言いますが、これはイザヤ29,14b「賢者の知恵は滅び、聡明な者の分別は隠される」の自由な引用です。ほら、聖書に書いてある通りなんだよ!という説得ですね。

 あるいは言葉によって、過去や現在の事実に言及することで他人を説得することもできます。例えばイエスは、洗礼者ヨハネが弟子たちをイエスに遣わして、「来るべき者は君か?」と問われたとき、こう返答したそうです。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えよ。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、多い皮膚病を患っている人はきよくなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」(マタイ11,4f.並行)。これは、「徴」による論証と言ってよいでしょう。現代で言えば、転職を目指す人の履歴書や業績リストなどにも、似たような機能があると感じます。

 さらに、筋道の通った論理展開も、言葉による説得性には特徴的な要素です。パウロはこの段落で、(イエスを含む?)ユダヤ人がそれこそ「徴」を求める一方で、ギリシア人が「知恵」を追求するが、自分たちは彼らにとっては「躓き」ないし「愚かさ」でしかない十字架に架けられたままのキリストを、他でもない「神の力」「神の知恵」として提示すると宣言します。このことに、それこそどのような説得的な論理があるのでしょうか。

 何にせよ、パウロはこの段落で、一生懸命論じています。いったい何のために?――それは「キリストの十字架が空洞化されないため」(17節b)です。

II

 パウロは「十字架の言葉は、失われた者たちには愚かさだが、救われた私たちには神の力だ」(18節)と言います。

 「十字架の言葉」は福音と同義であるようです。「水に沈めるためでなく、福音宣教するために、キリストは私を派遣した」(17節a)とパウロは言うのですから。こんなことを彼が言う理由は、コリント教会に複数の党派なるものが生まれ、それがそれぞれのメンバーの洗礼者たちと結びついていたからであるようです。まるで、大学院生たちが自分の先生たちを自慢して、だから自分たちは偉いと互いに主張しているみたいです。一般企業にも、どの上司の下につくかで自分の将来の出世が決まる、ということがあるそうですね。

 当時の教会は、複数の家の教会からなる連合体ですので、信徒たちが集まる家が複数なのは当たり前です。中央集権的で統一的な制度は、まだありません。それに応じて、救済理解についても多様性があること、指導者たちが複数いることも、パウロにとって何ら問題ではありません。しかし自らの信仰理解の正しさを確信するあまり、他の考えの人々を一段低く見たり、その人々から自分たちを切り離そうとしたりする態度を、パウロは、「キリストはバラバラにされてしまったのか?」(13節)と呼んで、非難します。

 教会を一つにするものは、何でしょうか? それはパウロにとって、キリストの十字架です。そして、おそらく洗礼です。それらは共に、救いと選びが私たちの決断や精進に由来せず、ただ神の恵みに基づくものであることを示しています。

III

 「知者たちの知恵を、私は滅ぼす。賢者たちの賢慮を私は無効化する」と神は言います(19節)。つまり「十字架」は、知恵や賢慮によっては把握できない何かです。

 なぜできないか、皆さんは、すでによくご存知と思います。十字架刑は、古代ローマ社会で、奴隷ないし非ローマ市民のみに、とりわけ主人を殺害した奴隷や、国家反逆罪に問われた属州の異民族のみに適用された極めて残虐な処刑法でした。金属ないし動物の骨のついた鞭で、あらかじめ背中をめちゃめちゃにされ、横木を背負って刑場にまで引き回され、縦木の上に素っ裸に剥かれて固定された後は、呼吸困難と戦いながら尺取虫のように上がったり下がったりしつつ、数日かけて最後は全身の衰弱によって息絶えました。そればかりか通常、遺体は埋葬されず、野良犬に食われたり、共同ゴミ捨て場に廃棄されたりしました。――つまり何の有意味性もない、ひたすらに恥辱の死であったのです。

 しかし、その後の歴史の中で、「十字架」は、とても有意味な、聖なるシンボルになりました。やがて、ローマ帝国が帝国の軍旗に採用したせいで、今でもキリスト教の伝統のある国の国旗には「十字」の紋様がありますし、悪霊を追い祓う儀式では「魔除け」として使われましたし、今では白亜の聖堂やファッションのデザインに、十字架は好んで用いられるようになりました。しかし、パウロが「十字架」と言うとき、それはナザレのイエスの具体的な死の、たいへん悲惨なさまへの記憶が、まだ生々しく残っています。彼にとって、このイエスの死体が神の啓示なのです。

 もちろん、その認識はイエスについての復活信仰を前提しています。加えて、パウロ個人のキリスト顕現経験と、このことは関係しているかも知れません。使徒行伝が伝える、ダマスコ近郊でのキリスト顕現にさいして、キリストは「私はあなたが迫害しているイエスである」と自己紹介しています(使徒言行録9,5)。すると、このイエスは、パウロによって殺害されるダマスコのキリスト信奉者の姿で現れたのではないでしょうか? つまり死んでいるイエスの顕現が、パウロにとって復活者なる「神の息子」との出会いそのものであった可能性があると思います。

 そう考えれば、彼が他の原始キリスト教の著述家の中で、ずば抜けて「十字架」を大切にしている理由が分かります。十字架のイエスは、パウロにとって、彼が正しいと信じて狂信的に追及してきた「熱心」という暴力の犠牲者としても、神の啓示でした。

IV

 だからパウロにとって、「十字架の言葉」は、この世界の様々な既存の価値基準をひっくり返すものです。そして、そのようなものとして、キリストの体である教会の基礎なのです。

 このような「十字架」を空洞化するやり方として、以下のものが思いつきます。それらは、すべて私たちの社会や教会がしてきたことでもあります。

 一つ目は、社会の指導者には一般人の安全を守る義務があり、不穏分子を取り締まり、これを取り除くことは当然の責務に他ならない。ナザレのイエスは悪い人ではなかったようだが、当時の状況に照らして考えると、いわば冤罪によって殺害された多くの人々の一人であろう、という十字架理解がありえます。イエスの死を2000年前の小さなエピソードと見なす点で、この空洞化を「歴史化」する方法と呼ぶことができるでしょう。

 二番目の、これとは少し違ったやり方として、イエスの十字架死を倫理的な功徳ないし功績として捉える方法があります。例えば十字架は逆境に屈しない勇気、立派な自己犠牲の精神、神への一途な信頼などの表現であると言うことで。古代教会における殉教者たちへの賞賛、とりわけ彼らの死が、他の同信の者たちの罪を贖う、お手本のような自己犠牲であるという理解には、そのような傾向が感じられます。しかしパウロは、イエスの十字架死のできごとを、イエスが自力で何か立派なことができる場所とは思っていません。イエスは〈まな板の上の鯉〉というか、端的に死体であり、ここで行為することができるのは神だけです。つまり「倫理化」も、イエスの十字架を空洞化するものでありえます。

 そして三つ目に、先に述べた「象徴化」があります。十字架は軍事的な勝利、聖なる存在による加護、清らかさその他、例えば〈天と地の結合〉、〈左右に分離された世界の和解〉など、様々なイメージの投影対象です。それは、それでかまわないようにも思いますが、そのときの十字架は「愚かさ」「弱さ」でなく、普通に「賢い」ものになっています。そして、十字架がそうなることに、パウロは頑強に抵抗します。

 最後の四つ目に――これが私たちには一番厄介なのですが――「宗教化」というべき、イエスの十字架を空洞化する最後のテクニックがあります。それは簡単に言うと、イエスの十字架死を復活によって、既に克服された過去の通過点と見なすことに始まり(つまり復活は逆転満塁ホームランみたいなものです)、もう少し繊細なヴァージョンでは、〈私たちの罪を取り除く尊い贖罪の犠牲〉という理論化です。ここには、イエスの十字架を、何らかの抽象的な理論の表現と見なすことで、その出来事としての性格を無効化する危険性があります。特徴的なことに、この段落でパウロはイエスの十字架を「贖罪の犠牲」という概念とは結び付けません。エルサレム城外でのローマ軍による残虐な処刑が、神殿の聖なる動物供儀と同列でないことは、おそらくパウロの時代には今よりもはっきり認識されていたことでしょう。

 パウロは、「この世界は、神の知恵の内にありながら、[己の]知恵を介しては神を認知しなかった」と言います(21節a)。だから、「神は宣教内容の愚かさ」――十字架の言葉のことです――「を介して、信じる者たちを救うよう決定した」(21節b)。この少々わかりにくい説明は、パウロの個人史に照らせば、より分かりやすくなるかも知れません。同時代のユダヤ教徒と同様に、パウロは世界が神の創造であると信じており、この世界を経験する者が本来、創造者なる神を認知できるはずだと考えています。これは、ユダヤ教による異教批判の基本的トーンです。他方で「宣教内容の愚かさ」とは、知恵でも徴でもありえないイエスの十字架の死が神の啓示であるということですが、これこそ、パウロにとって、彼の人生がまったくひっくり返ったできごとでした。

 だから、キリストの身体としての教会の統一性の根拠は、信仰者各人の自分が良いと思うことの外側にあるのです。

V

 この「十字架」が信仰者たちを一つにするものであるとき、その救いの力は民族の違いや、同一民族における身分の違いその他を超えます。  私の小さな体験をお話ししましょう。2000年代の初め、日本と統一ドイツ、韓国のキリスト者たちが武蔵嵐山の施設で、「過去の克服」という主題の国際会議を行ったことがあります。私は留学から帰って間もない時期で、主として通訳としてこの会議に参加しました。

 そのとき、第二次世界大戦時におけるドイツのキリスト教会の戦争責任の告白に関連して、あたかも当時の教会が自ら進んでユダヤ人をガス室に送ったかのような発言があり、「それは歴史的事実として真理なのか?」と思わず質問したのを思い出します。今にして思えば、旧日本軍のいわゆる従軍「慰安婦」問題に関連して、日本の政府関係者が主張する「強制性は証明されない」という論調に沿うものであったかもしれません。ただ、それは私としては、素直な歴史的な質問でした。

 そのときドイツ人の牧師が、いとも簡単に返答したました。「私たちの連帯は、共同の罪責に存する Unsere Solidaritaet besteht in der gemeinsamen Schuld!」。私たちの優れた点でなく、救いようのない罪責が私たちを結び合わせ、未来を開きます。「神の愚かしいことは人間たちより賢く、神の弱いことは人間たちよりも強い」。


 
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