きょうのテキストのテーマは「イエス様って一体何者なのか?」ということです。 テキスト全体がモノローグの形になっていますが、これは誰のモノローグなのかという議論があります。 すぐ前には洗礼者ヨハネの記事がありますし、彼は荒野で呼ばわる者の声ですから、洗礼者ヨハネのモノローグだろうと思えますが、21節から続くイエスご自身のものとも考えられます。 どちらにしろ福音書記者ヨハネが自分が所属する教団の福音理解をモノローグの形に込めた、と理解できます。
31節には『上から来られる方は……云々』とありますが、「上」という言い方はこの福音書の特徴の一つで、要するに「天」とか「神の国」とか「神様の領域」を意味しています。 ヨハネ福音書には二元論的な対立概念が使われる特徴があって、「上」に対しては「この世」がありますし、「光」に対しては「闇」、「霊」に対しては「肉」などがあります。 確かに白と黒というように、対立概念として表すとスッキリして分かりやすいという利点があります。
紀元2世紀になると、この思考構造からグノーシス主義が発展していったとも言われます。 だとすると1世紀のキリスト教は、皮肉にも後に自分たちが対立する相手に早くも材料を提供していたとも見ることができます。 その上、二項対立の問題も単純ではなく、この思考構造には様々な問題が関わってきます。 これはあとで触れます。
とにかく31節には、「上から来られる方」は「すべてのものの上におられ」、「地から出た者は地に属する」と書かれています。 これは何が言われているかと言えば、「キリストの先在性」です。 すべての被造物に先立ってキリストが存在するということです。 イエス様が言(ロゴス)の受肉者であることはヨハネ福音書の冒頭に出てきますが、先在者ですから、天地の創造の初めから神様と共にあって、天上(神の国)にあって見たこと聞いたことを証しされるけれども、誰もその「証し」を受け入れないというのです。 32節です。
この「証し」というのは、イエス様ご自身が神様について、あるいは神様とご自分の関係について「証し」をされるという意味です。 イエス様が父なる神様と独り子なる神キリストとの関係を「証し」を通して、人々に証明しようとされているのに、誰もそれを受け入れないというわけです。 しかしその「証し」を受け入れる者は、神様が真実であることを確認することになる、とも言っています。
どうも「イエス様って何者なのか?」を知ることは簡単・単純ではなさそうです。 福音書記者も背後の教団も、懸命にその疑問に答えを見出そうと努力していたことが伝わってくるようです。 ですから求道者の皆さんも決して焦らなくてもよいと思います。 自分の頭で主体的に、まずこの「証し」に耳を傾けてみられることです。 33節にあるように、イエスという方が本当に世の救い主であると分かった時には、自ずから信仰告白に導かれることでしょう。
きょうのテキストではないのですが、ヨハネ福音書記者は、サマリア人女性とイエス様の出会いを通して、サマリア人とユダヤ人の間の敵意に満ちた長い歴史に触れたり、目の不自由な男の癒しの物語やラザロの復活物語というような文学的技法を駆使した物語を描いて、何とか「イエス様って何者なのか?」という謎を解こうと努力したのです。 その作業に私たちも一緒に乗せて頂いて、疑問に向き合えばよいと思います。
34節は「神の言」と「霊」をめぐって重要なことが言われています。 「霊」という語には、わざわざダブルの引用符を付けて訳されています。 「神がお遣わしになった方」つまりイエス・キリストは神の言を話すけれども、「神の言を話すこと」と「“霊”を限りなく与えること」が分離せずに一致しているというのです。 この言い方の裏には、もし言と霊が分離してしまえば、そこには霊的な熱狂主義とも言うべきものが現れるかもしれない、という心配が込められています。
「霊」は取り違えるととんでもない厄介を引き起こすのです。 「霊」は旧約聖書でもルーアッハという語で重要な役割を担っていますが、元々は「風」とか「息」という意味の言葉です。 新約聖書でも同様でプニューマという言葉が何十回も使われています。 風とか息が示すように本来は人間の感情や心の動きを表し、これが文脈に従って「魂」とか「風」とか「息」とか、いろいろに訳されます。 34節で言えば、『神の言葉を話される』という部分の「言葉」と訳された語もプニューマですし、『“霊”を限りなくお与えになる』の「“霊”」と訳された語も同じプニューマです。
ヨハネ福音書に特徴的なこの「霊」の用法ですが、「真理の霊」とも訳されているように、基本的に「神様の霊」、「聖霊」を表します。 皆さんちょっと共観福音書を思い出してみてください。 共観福音書では悪霊の話がたくさん出てきます。 人間に取り憑いて悪さをするのは悪霊です。 ですからイエス様は取り憑かれてしまった人に向かって、つまり悪霊に向かって『出て行け』と命じています。 いわゆる悪魔の追い出しです。
カトリック教会にはかつて位階制度の中に悪魔を追い出す役割を負ったエクソシストと呼ばれた役職がありました。 第二バチカン公会議後に廃止されましたので、今は公式にはありません。 でもイタリアなどにはその名残があるようです。 日本ではエクソシストという映画がヒットしましたので、「悪魔払い」として有名になりました。 だいぶ別なイメージに変えられてしまいましたが、元々はイエスさまが悪霊・サタンを追い出した記事に由来します。
ヨハネ福音書にはこの悪魔払いの記事がないのです。 悪魔とか悪霊という語は出て来ますが、それらはイエス様に敵対した人々、大祭司とかユダヤ人とかに内在する力として象徴的に表されるだけです。 日本語の「霊」という言葉に私たちは振り回されてはなりません。 ヨハネ福音書の「霊」は「神様の霊・聖霊」です。 取り扱いを間違えると「霊」は熱狂主義を生み出すことに注意しなければなりません。 間違いそうになったら、復活されたイエス・キリストが弟子たちに『聖霊を受けよ』と言われたことを思い出すとよいと思います。 安心して「霊」に向き合えます。
さて35節ですが、人間は神様を直接知ることはできないけれども、御子イエスを通してだけ神様を知ることができるのだから、イエス様の「証し」を受け入れるしか神様が真実であることを確かめる術はない、ということが主張されています。 父なる神様が御子イエスを愛されて、一切をイエス様に委ねられたのであるから、イエス・キリストを受け入れるか否かによってすべてが決まるというのです。
そして最後の36節に「神の怒り」という表現が出て来ます。 「神の怒り」は裁きをイメージさせますから、終末論的な文脈です。 終末と言えば、普通はいつか分からないけれども、歴史の終わりにおいて神様の審判が行われ、その時この世界は最終的に完成する、という理解がキリスト教にはあります。 共観福音書の理解は概ねそれです。 しかしヨハネ福音書はそれだけでなく、御子を信じて従うかどうかが永遠の命に与れるかどうかの鍵だと主張します。 時間的な未来のことよりは、今現在、御子を信じて従うかどうかが人生の分かれ目だという理解の仕方です。
ですから終末論は、ヨハネ福音書において完全に現在化されていると言ってよいと思います。 時間的に捉えられた終末論が、神の国とこの世というような空間的な二元論的対立表現によって、捉え直されています。 歴史の終わりの時に永遠の命を頂くという考えを否定することはできませんが、「上から来られた方」イエス・キリストを信じるか否かによって救われるかどうかが決定する、という考え方も有意義だと思います。 イエス様を信じさえすれば、救いは成就すると、この福音書は私たちに語りかけています。 神様に祝福され、平安な信仰の生涯を送れるよう祈りましょう。