2017.12.24

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「いと高きところに」

廣石 望

ルカ福音書2,8-14

 姉妹・兄弟の皆さん、クリスマスおめでとうございます。

I

 子どもから大人に至るまで、私たちにはさまざまな問題があります。
 世界の各地に戦争や差別があり、政治の力で戦争を回避できるかどうか分かりません。社会では貧富の格差が広がり、貧困や失業、家庭の崩壊は、あらゆる世代の人々を直撃します。あるグループが「私たちファースト」の政治を求めてそれが実現されたとしても、そこから排除された人たちはどうすればよいでしょうか?

 幸せそうに見える子どもたちも、家族や友人たちから本当に理解され、大切にされているとは限りません。元気いっぱいの若者にも、人に言えない悩みや孤独を抱えています。とりわけ高齢者や障がいのある方たち、また故郷を棄てて難民になった人たちに、生活上の困難や将来への不安があることは言うまでもありません。

 私たちの平和は、どこから来るのでしょうか? すべての人に通用する平和はあるのでしょうか?

II

 今夜のために選ばれた聖書箇所は、神の御使いが野原の羊飼いたちに、「平和あれ」と言ってキリストの誕生を告げた有名な聖夜のエピソードです。

 ここで描かれている牧羊者たちは、おそらく自作の土地を失い、非正規で雇用され、定住しないで暮らしています。彼らは帝国や王国、都市や村落共同体の重要な決定プロセスとは関係がありません。その彼らのもとを「主の御使い」が訪れ、眩い光に照らし出されたとき、彼らは非常に怖がりました。社会から守られることが少なく、逆に攻撃されることの方が多いので、いつも怯えて暮らしていたのかも知れません。

 その彼らに向かって、御使いは「民すべてのものとなる」べき「大いなる喜びの福音」を告げます。内容は「ダビデの都市」ベツレヘムでの赤ん坊の誕生です。この者が「救済者」にして「主キリスト」であると。

 ユダヤ人にはメシア(=キリスト)待望という伝統思想がありました。古の大王ダビデの末裔として生まれ、外国人による支配を打倒してかつての父祖ダビデの王国を再建し、イスラエルのみならず世界全体に平和をもたらす存在への期待です。このイエスが、そのメシアなのでしょうか?

III

 イエス・キリストが誕生した時代に地中海世界を支配していたローマ帝国では、皇帝アウグストゥスが「神の息子」「救済者」として、もっと端的には「神」として崇拝されました。イタリアから遠くはなれた小アジアの都市ハルカリナッソスの碑文には、「その神慮あふれる摂理によって、アウグストゥスは万人の願いを満たしたのみならず、それらを遥かに超越し、平和が大地と海を支配し、さまざまな都市は見事な法的秩序のうちに繁栄している」と刻まれています。皇帝の即位や成人式、息子の誕生などの知らせは「福音」と呼ばれました。

 皇帝や属州総督などを輩出した元老院階級は、ローマ帝国のほんの一握りのスーパー・エリートでした。彼らとじっさいの属州支配を担当した地方の貴族層は、やがて帝国全体の支配を支えるグローバル・エリートとして互いの絆を強め、とりわけ交通網や法律などのインフラ整備と経済活動を通して、重要な諸都市に恩恵を与えることで自らの支配の維持を図りました。

IV

 ベツレヘムに生まれたイエスは、しかし新しいローマ皇帝にも、属州の帝国エリートにもなりませんでした。むしろ彼は成人した後、ユダヤ人の都市エルサレムで、ローマ帝国に対する反逆罪の廉で、ローマ軍によって十字架刑という惨たらしい方法で処刑されています。アウグストゥスがもたらす平和は、それに歯向かう者に対して容赦ない暴力を振るうという意味で、たいへん抑圧的な平和でした。主の御使いが告げる「平和」は、アウグストゥスの平和とは異なります。

 他方で、赤ん坊のイエスの姿は、伝統的なイスラエルのメシア期待とも、微妙に違っています。「布にくるまれて馬草桶に横たわっている」嬰児は、無力な貧民の子どもです。なるほどダビデも牧羊者でしたが、この赤ん坊は王家の末裔などという高貴な生まれからは、本来ほど遠い。古の王ダビデは軍事力によって王国を建設し、王宮に住みましたが、イエスは故郷を棄てて放浪し、出会う先々の倹しい暮らしをする人々と共に生きました。ダビデは軍隊をもっていましたが、イエスは自分を防御する最低手段である「杖」を携帯することすら弟子たちに禁じました。

 彼を守るものがあるとすれば、それは天の軍団の大群、つまり神だけです。

V

 この御使いたちの大軍団は神を讃えて歌います。

栄光が、いと高きところに、神に
そして地では、平和が、〔神の〕意に適う人々の間に。

 この歌は、「栄光」は天の神に属しており、その上で初めて、地上の人間たちの間で「平和」があること、つまり真の平和が神からのみ来ることを示しています。地上の人間が自らを栄光化することでもたらす「平和」は、それが皇帝アウグストゥスや現代の政治家たちが約束するように、私たちにどんなに利益をもたらすものであっても、最終的には真の平和ではありません。

 他方で「神の意に適う人々の間で」という限定は、真の平和が神によって実現されるものであることを承知している者たちは、地における平和をそのようなものとして理解する義務があることを意味します。

 私たちは自分たちの力を頼りに平和を創り出す必要はありません。自分の問題や利害にまず注目することを止め、むしろ万人に通用する平和の根拠を「いと高きところに」求めつつ、神から与えられる平和に即して生きたいと願います。その平和は、嬰児イエス・キリストという「しるし」を通して、すでに私たちに与えられています。

  皆さんお一人ひとりに、メリークリスマス!


 
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