皆さま、クリスマスおめでとうございます。ルカ福音書のイエスさまの誕生物語から学びます。ルカ福音書は歴史的な記述表記が印象的ですが、きょうのテキストにもそれがはっきり出ています。2章はのっけから「皇帝アウグストゥスからの勅令」とか、「キリニウスがシリア州総督であったとき」という表現が出てきます。アウグストゥスが皇帝であった時期は正確に分かりますし、キリニウスが総督であった時に住民登録があったこともヨセフスの古代史に書かれていますので、確かに歴史的記述ですが、厳密に歴史的かどうかは今ひとつ断定できません。とにかくイエスさまの誕生は、皇帝アウグストゥスの勅令による人口調査の行われていた時ということですから、アウグストゥスについて調べるだけでもかなりのことが分かります。
アウグストゥスはローマ皇帝の称号で、親からつけてもらう名前ではありません。本名はガイウス・オクタヴィアヌスです。シェークスピアのジュリアス・シーザーの名前は皆さんもご存知だと思います。ラテン名ユリウス・カイサルです。オクタヴィアヌスはシーザーの甥にあたります。ローマという国は既に紀元前五百年頃に共和国として歩んでいますが、三頭政治などの時代を経て、その内紛は凄まじいものでした。シェークスピアはシーザーに“ブルータス、お前もか?”と言わせていますが、あれは裏切りに次ぐ裏切りの政治世界を表現した一句です。
オクタヴィアヌスはシーザーに養子として迎えられますが、そこから彼の人生の転換が始まります。彼は政治家として非常に有能であり、辣腕を振るうようになっていきます。シーザーが暗殺されてから、クレオパトラでお馴染みのアントニウスと後継者争いを演じて勝利し、ローマに初めて帝政をもたらした支配者となりました。
ローマ帝国の政治機構には元老院がありますが、そこからアウグストゥスという称号を貰います。この称号の意味は「いま現に生きる神」ということだそうですから、皇帝といっても神扱いなのです。一昔前の日本にも現人神という言い方がありました。 要するに全てを統治する最高権力者です。現に彼は東は小アジア、西は現在のイギリスまで支配し、強大な軍隊を率いて莫大な富を一手に握りました。ちなみに「カイサルのものはカイサルに」という言い方のカイサルも同様に最高権力者の称号です。
こうした背景を考えますと、イエスさまはとんでもない時代にお生まれになったと思います。ユダヤはローマから見れば、おそらく東方の一角に位置する宗教的に一風変わった小国でしかなかったでしょう。しかし神さまはこの小さな国の小さな民族の中に、とてつもない大きな存在を生み出されました。
その出来事をルカ福音書は、控えめにまったく目立たないような筆致で描き出します。身ごもっていたマリアと一緒に婚約者ヨセフが一族の故郷であるベツレヘムの町へ住民登録にはるばるガリラヤからやって来た、と4,5節に記されています。このテキストの住民登録がいつのものであったかは諸説紛々ですが、住民登録というのは昔も今も実に面倒臭い厄介なものです。権力者側が一方的に住民にこれを強いるというのが普通で、その狙いは大抵徴兵とか税金徴収に関わっています。北の辺境のナザレ村から貧しい若いカップルが南のベツレヘムまで旅をするのは大変難儀なことだったはずです。おまけにマリアは身重だったのですから尚更です。
6,7節の記述は、その厳しい現実を見事に語っています。宿屋には彼らが泊まる場所がなかったので、産気づいたマリアはとうとう馬小屋で出産し、初子を飼い葉桶に寝かせたというのですから、これは尋常な事態ではありません。ルカはそのことを淡々と記しています。
私たち教会に連なる者も、世間の人たちのようにこんな記事は無視して、ひたすら楽しいクリスマスを過ごせたらどんなに気が楽でしょう。けれども教会に導かれて聖書をひも解いているからには、そうはいかないのです。特に福音書をずっと読み進んでいくと、その結末はこの時生まれた男の児がゴルゴタの丘で十字架刑で殺される、と出てくるのですから、私たちの心は複雑です。イエス・キリストがそのような道を歩まれていく過程を、その生涯を、私たちはどのように受けとめたらよいのでしょうか。
ローマ皇帝アウグストゥスならば、最初に触れました通り、その意味は「いま現に生きる神」ですから、それこそ「王者の生涯」とか「栄光に包まれた生涯」とかいろいろ表現の仕方もありますが、馬小屋の飼い葉桶から始まって、終わりは十字架刑で殺されてしまう生涯となると、表現のしようもありません。
あえて言えば、「苦難の生涯」とか「哀れな生涯」とかになるのでしょうけど、私はルカが皇帝アウグストゥスの名に言及したのはすごく意図的だったと考えています。イエス・キリストの生涯を徹底的にアウグストゥスと比較してみてやろう、そういう狙いだったと思うのです。淡々と飼い葉桶に寝かされるような誕生を描けば描くほど、アウグストゥスとは正反対の意味で、イエス・キリストの生涯は浮き出てきます。福音書の記者ってすごいなアと思います。
また意図的は意図的なんですけど、ルカのイエス・キリストに対する信仰がそうさせてしまうという、目に見えない筆を動かす力も感じます。イエスさまは人々に唾を吐きかけられるような状況下で死んでいかれたのですが、ローマ皇帝が死んだ時にはそれはもう盛大な葬儀が営まれたことでしょう。でもローマ皇帝が死んだ時、民衆は「いま現に生ける神」が死んでしまった事実にどう折り合いをつけたのでしょうか。「いま生ける神」なんだから実は死んだように見えるだけで本当は死んでいないのだ、と無理やり解釈したのでしょうか。
そういう問題に対する答えは、私たち人間の目に映る長い長い歴史で判断していくより他、仕方がありません。この飼い葉桶に寝かされた赤ちゃん誕生から四百年足らずでローマ帝国は東西に分裂して滅亡への道を辿りました。現代のローマは遺跡だらけです。私も一通り見て歩き回りましたが、二千年前の遺跡ばかりをずっと眺めていると、正直ローマ帝国の栄華なんかはちっともイメージ出来ずに、虚しさばかりが去来したことを思い出します。やっぱり神さまの導かれる歴史には実に厳しい裁きが込められていると思わざるを得ません。強大な栄華を誇ったローマ帝国に歴史が与えた審判は廃墟という現実なのです。
アウグストゥスやカイサルといった名誉ある皇帝の称号も、今となっては昔々古代世界にそういう称号を戴いた皇帝がいた、という程度のものにしか過ぎません。対して、飼い葉桶に寝かされたイエスさまはどうでしょうか? 私たちにとってそうであるように、イエス・キリストは二千年後の世界に救い主として、また慕わしい名前として身近に、生き生きと一緒に生きていてくださっています。
「いま現に生きる神」という意味のアウグストゥスの称号が、そっくりそのままイエスさまの方へ移ってしまっているという事実を、皆さんはどんな思いで受けとめられるでしょうか。私は本当に不思議なことだなァ、と感じています。人間というのは権力を身につけると、何でも支配できるかのように思い始めます。しかしそれは実は錯覚に過ぎないということをクリスマスは見事に明らかにしてくれます。他人に優しくその人を包み込み、その人のために僕として仕える生き方こそが、歴史の流れの中ではちゃんと根付いて、安らぎと平和な世界を生み出すという歴史の事実に感嘆するのです。
自分に固執して、自分を中心に据えて生きていく生き方から、周りの人たちの姿に目を留めて、その人たちのために生きていく生き方へと、救い主イエス・キリストは私たちを促します。信仰生活を送るというのは、結局、悪しき自己意識から解放されることだと聖書は語っています。そうした生き方を最後まで貫かれた救い主イエス・キリストを私たちは賛美します。クリスマスはこの救い主の誕生を祝う時ですから、素直に心からお祝いしようと思います。私たちは今年も聖書に導かれて、私たちのやり方で、救い主の降誕を祝います。その意味で、皆さん、本当にクリスマスおめでとうございます! お祈りします。