古代イスラエルの歴史に「士師時代」と呼ばれる時期があります。大体紀元前1250年頃から1020年頃です。エジプトを脱出したイスラエル民族が、いろいろな困難を乗り越えてカナン地方に定着し、やがてサムエルによってサウルが統一イスラエルの初代の王に任職されるまでの期間です。
エジプトやアッシリアという大国が一時弱体化して、シリアやパレスチナへの支配力を失った時期がありましたが、それでもカナンにはペリシテ人が勢力を保っていましたし、ミデアン・モアブ・アンモン・シリアなどの来襲があり、イスラエルは部族ごとの応戦では対抗し切れなくなり、より強力な指導者を求める声が高まって、王国制度を打ち立てます。王政導入は古代イスラエルが体験した最も激しい社会変革と言えます。
サムエル記は、ちょうど紀元前1050年から1000年頃までの短期間に、イスラエルが遭遇した未曾有の出来事を申命記主義的歴史観に基づいて報告している文書です。この時期に、最も重要な役割を演じたのが預言者サムエルでした。きょうのテキストはそのサムエルが誕生した折、母親のハンナが捧げたと言われる祈りです。内容は祈りというより神讃美の詩と表現した方が適切かもしれません。
すぐ前の1章にはサムエルの誕生が、神様の介入による奇跡物語として描かれています。それに続いて母ハンナによる祈りが続いているわけです。この部分は「旧約聖書のマグニフィカト」と呼ばれていますが、それは、ここを下敷きにして先ほど読んだ「ルカ福音書」1章の「マリアの賛歌」、つまりマグニフィカトが書かれていると見られているからです。 両者を比較すると極めて酷似しています。また「ハンナの祈り」はサムエル記の終わりに近い部分、サムエル記下22章と詩編18編にも内容的・用語的に共通する点が多く見られます。この対応関係にある部分がサムエル記全体を枠付けするような構造を作り上げています。
さてテキストですが、最初に『わたしの心は喜び…』とあるように、救いへの感謝と神様への信頼が感謝の歌のように謳われます。「角」などという女性の歌としては異質な印象の言葉も使われています。角は「雄牛の角」のことですが、力と生命と勝利の象徴として用いられます。「敵」(複数)というのは、誰でしょうか。カナンの先住民族を指しているのでしょうか。周囲の国々でしょうか。「敵」が具体的に誰を指すかは断定できませんが、とにかくハンナには敵と覚しき存在があったのでしょう。
もしかすると、1章に出てくるペニナなる女性のことも含まれているかもしれません。どういうことかと言いますと、ハンナの夫エルカナは二人の妻を持っていまして、ハンナには長い間子供が出来ずに、もう一人の妻ペニナからさんざん嫌味を言われて苦しんで来たという過去があったのです。
聖書は女性の不妊をたびたび取り上げます。アブラハムの妻サラがやはり不妊の女性でした。そのためにサラは懸命に祈り求めて息子イサクを与えられてのは有名なエピソードですし、サムソンや先週学んだ洗礼者ヨハネの誕生の背後にもザカリアの妻エリサベトの苦悩がありました。現代から見るとばかばかしいことですが、古代のイスラエルの部族社会においては、子供を生むことが共同体を存続させるために、社会から要請される義務でもありました。当時の女性にとり、子供に恵まれないことは、最悪の屈辱でもありました。「ハンナの祈り」にはそうした社会の偏見への抵抗が込められています。
このように、彼女はいろいろな敵を念頭にイメージしながら、『聖なる方は主のみ。あなたと並ぶ者は誰もいない』 と神の無比性を謳い上げ、同時に 『岩と頼むのはわたしたちの神のみ』 と、「岩」という隠喩を用いながら神への信頼も強調しています。3節の「高ぶりと傲慢な者への戒め」の表現は、マリアの賛歌に直結しているような言葉遣いです。
また 『人の行いが正されずに済むであろうか』 とありますが、口語訳聖書では『もろもろの行いは主によって量られる』 と訳されていました。この「量られる」から「正しい、確かだ」という意味が引き出されているのだと思いますが、神様のよる「量り」には「裁き・審判」の意味が込められていて、それが人間の意表を突く逆転によって示されるというのが、イエスさまがよく用いられる戒めを示す方法でもあったことを思い出します。
ともあれ、4,5,6,7,8節と連続して形勢の逆転が述べられて行きます。4節では「勇士」の弓が折られて、「よろめく者」が力を帯びるという、〈力の逆転〉が示されます。5節には、「食べ飽きている者」と「飢えている者」の〈食料の逆転〉が前半にあり、後半は「子のない女」と「多くの子を持つ女」の〈出産の逆転〉があります。6節は〈生命の逆転〉です。7節から8節の前半にかけては、〈貧富の逆転〉です。
以上4-8節は総じて〈強者と弱者の地位の逆転〉を主張しています。社会変革を促すようなことを当時の弱い立場に置かれた一女性が主張し得るのか、という疑問も生じますので、もともとあった詩にハンナの名前を借りてつけたものだったのかもしれません。とにかく、この世の姿が逆転することは、人間の目から見ればほとんどあり得ないことなのですが、申命記的歴史観に立つ歴史家の信仰の目には、神様の摂理と個々人の運命の統御が神にとっては百パーセント可能なこととして映っていたに相違ありません。
聖書の神様は、時に 『貧しくし、また富ませ、低くし、また高める』 お方なのです。ハンナにしろ誰にしろ、この詩には圧倒的に「弱い者」「貧しい者」の救いと高挙に力点が置かれています。この詩を土台にして福音書記者ルカが「マリアの賛歌(マグニフィカト)」を書き上げたことの意味をしっかり掴むことは大事だと思います。マグニフィカトは、クリスマスを目前にしたアドヴェントの記事だからです。これから生まれるメシアは一体どんな方なのか、その方が生まれるとこの世はどのように変わっていくのか、それをマグニフィカトは指し示します。
クリスマスはこのことをしっかり理解した上で迎えるべきです。この世のクリスマスはほとんどがルンルン気分で浮かれたもので、それは必ずしも全面的に悪いことでもないのですが、イエス・キリストの教会のクリスマスは、それとは一味も二味も違うということを示す責任がキリスト者にはあるでしょう。
8節の後半には、この世の現象の逆転という人間の想像を超えた状況変化をやすやすと可能にするこの世界を創造された全能の神の姿が語られています。『大地のもろもろの柱は主のもの 主は世界をそれらの上に据えられた……』。申命記的歴史家の脳裏には、その時代に成立したイスラエル王国の国家的諸制度がどうして長続きしなかったのかという問いがいつもあったと思います。サムエル記はその問いを神学的に解明しようとした労作です。
その記述は公的な出来事ばかりに及んでいるわけではありません。むしろイスラエル人社会に生起した極めて私的な事柄も叙述されています。エルカナとハンナとペニナの家庭に起こった問題もその一つだったでしょう。しかし俗事とも思える人間ドラマを丁寧に描写することが、出来事の深層に隠れている神様の働きを洞察することになることを、この書物の記者たちは確信していたと思います。
イエス・キリストは 『思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます』 と謳い上げたマリアから生まれました。私たちは教会でその御子イエスの誕生を待ち望みます。私たちは、主なる神様の姿を、ハンナやマリアやナザレのイエスのこの世の姿から心に思い浮かべるのです。
きょうはアドヴェントの第2主日。イエスさまが十字架にかけられたエルサレムで、またぞろ米国大統領の一言で、現代の愚かな闘争が起ころうとしています。 クリスマスを前に、神様の導きに委ねつつ、平和を祈りましょう。