信仰とは、一般的には神や仏などを信じることです。 しかし信仰者が自分の信じる神や仏をどのような存在として捉えているかと問えば、一人ひとり理解度は異なります。 キリスト教の神はと言えば、聖書が証しする神です。 旧約聖書の時代、イスラエル民族にとっては、ヤーウェと呼んだ唯一の神様が信仰対象でした。 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の神は唯一神と呼ばれますが、この唯一神を理解するためには旧約聖書をしっかり読まなくてはなりません。
日本は多神教の国ですから、日本人には唯一神がとても分かりにくいと思います。 唯一であることがそんなに重要なのか、と思われる方も多くいるでしょう。 重要なのです。 少なくとも聖書の神様を理解しようと思えば、この唯一性を抜きにすることはできません。 日本人が、ユダヤ教やキリスト教の神様はとても厳しそうだ、なぜあんなに怖そうな神様に従おうとするんだろう? と思うのは自然なことかもしれません。 とても理解できそうもない神様を信じるなんて、クリスチャンとかムスリムは、なんて変な人たちだろう、ということにもなるのでしょう。 そこできょうはまず、唯一の神様の唯一性を探ってみようと思います。
「創世記」によれば、聖書の神様は天地万物を造った創造主です。 それは人間とはまったく違う、人間を創造することができる絶対的存在です。 そこが聖書の神認識の第一歩です。 「創世記」には天地創造の神話物語が描かれていますが、旧約聖書はそこから始まって、だんだんとイスラエル民族の歴史的な描写へと移っていきます。 神話と実際の歴史とがないまぜになっていますが、この歴史の部分でユダヤ人の唯一神信仰が確立していくのです。
自分たちの土地も持たなかった民族が神様から約束の土地を与えられ、やがて王国までつくって少しずつ形が整えられていくのですが、その歴史は非常に厳しいものでした。 カナン(パレスチナ)という地域は大国に挟まれた地域であったために、いつも軍事的圧力を受け続けることになります。 おまけにカナンにはペリシテ人とかモアブ人とかの先住民がいて、彼らはみなめいめい自分たちの神を崇拝していたのです。 そうした環境下、バアルと総称されるカナンの神々の世界に埋没してしまわないように、少数ながらもイスラエルの民は、先住民の神々を拝むのを禁止してヤーウェだけを信仰しました。
イスラエルの民にとって、歴史はどうもうまく自分たちにいいようには巡ってきませんでした。 戦争すれば大抵負け、挙げ句の果てがきょうのテキストに関わっている「バビロン捕囚」という、捕虜となって国を失ってしまうこれ以上ない屈辱です。 紀元前6世紀の話ですが、この困難な状況の中でイスラエルの民は自分たちの存在理由を確かめようと必死に努力しています。
イザヤ書46章は第二イザヤと呼ばれる一人あるいはグループの民族のリーダーであった預言者が書き記したものです。 40-55章が第二イザヤの手になる部分ですが、ここには何章にも渉って偶像論が展開されています。 偶像論といっても、真実の神と偶像を対比させるのではなく、自分たちが信じる真実の神との関わりの中で、信仰と不信仰を対比させるという枠内での偶像論です。 ですから比較宗教的な議論ではありません。
第二イザヤは、捕囚という厳しい現実の中で、仲間の人々に自分たちの不信仰な姿勢に気づかせ、神様の前での悔い改めに導こうと努めました。 40章からずーっと創造主なるイスラエルの神と偶像との対比とか、偶像との論争とか、偶像礼拝者は恥を受けるとかの偶像論が展開されます。 そして、きょうのテキスト46章に入ると、人間によって運ばれる偶像と、人間を運んでくださる神について述べられるのです。
私たちが驚くのは、こうした過程でユダヤ人たちは、実は自分たちの信じてきた神様がユダヤ人だけの神ではなく、世界の神様なのだ、ということに辿り着いたという点です。 彼らにとって自分たちの信じる神様は、その土地土地でそこに住む民族だけに通用する神様ではダメなのです。 どんなことが起きても、自己の存在を保証してくれる神様、そのような神様はあちこちにいる神々では代用できませんでした。 その世界を創造する圧倒的な存在の神様、それが唯一神です。
南王国ユダは新バビロニア帝国に滅ばされて捕囚民とされたのですが、新バビロニアがユダ王国を滅ぼしたのも神様の意思であったことに彼らは気がつくのです。 どういうことかと言うと、自分たちの信じる神様が最もひどい厄災を自分たちにもたらされた、と解釈したのです。 つまり第二イザヤの到達した神理解は、この時点で、ヤーウェの神様に普遍的な世界神への第一歩を踏み出させることになりました。
なぜそういうことが言えるかというと、捕囚生活の終り頃にはバビロニア帝国に代わってペルシャ帝国が台頭するようになったからです。 そのペルシャの指導者(王)はキュロスと言います。 彼は「捕囚民解放令」というのを出して、イスラエルの人々を解放するのです。 第二イザヤは敵国のこの王を「主が油注がれた人」とか「わたしの牧者」とか、最大級の呼称をもって呼んでいます。
この理解は、苦難に次ぐ苦難の連続の中で、自分たちのアイデンティティーを保証してくれる唯一の神を信じ続け、試練に耐え続けた信仰の賜物でした。 神様は敵の王であるキュロスをも自由に用いることのできるお方でした。 新約聖書の時代になって、イエス・キリストはこの唯一の神様を父と呼んで、自らがこの神様と一体であることを示されます。
紀元1世紀に誕生したキリスト教会は、ユダヤ人たちが旧約聖書に記された苦難の旅路で待望し続けたメシア(キリスト)こそナザレのイエスだと認めました。 きょうのテキストで第二イザヤは、自分たちの信じる神様がどういう神様であるかを表現しています。 『あなたたちは生まれた時から負われ、胎をでた時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで 白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す』。
先ほどは読みませんでしたが、1-2節にはバビロンの神々の姿が描かれています。 それまでバビロニアの象徴として祀られていた神々の像が、新しいペルシャの支配者を迎え、用無しになって運ばれていく退場シーンです。 このバビロンの神々の退場に照らし合わせるように、第二イザヤはイスラエルの人々に、「我々の神はこういう神だ」と呼びかけるのです。 捕囚民の人たちは結婚も許されていましたから、捕囚の地にも多くの家族があり、家々には子供たちの姿もあったでしょう。 いうなれば、第二イザヤは、生涯を通じて子供たちと共に、神様の裁きと裁きを通しての救いのメッセージを述べているわけです。 人間は、「胎内にいる時から、白髪になる時まで」、神様の摂理の中にあることを彼は示しています。
それゆえ、神様が背負ってくださるのは、過去から現在、現在から未来にかけてです。 人間が自己の存在を意識するはるか以前から、人間にはまったく分からない未来を含め、すべては神様の守りのみ手のうちにあることが述べられています。 白髪は老人の特徴です。 歳を取れば髪は白くなります。 旧約聖書はこのことは族長ヤコブにも預言者サムエルにも起こったと記しています。 体力も同様に落ちてきます。 老人がイスラエルの共同社会にとって無用・無価値のように扱われたこともあったのでしょう。
しかしイスラエルの民は、社会から疎んじられても老人は敬わなければならないことを律法で教えました。 レビ記の19章32節にはこうあります。 『白髪の人の前では起立し、長老を尊び、あなたの神を畏れなさい。わたしは主である』。 きょうのテキストの、「あなた方が白髪になっても、わたしは背負う」という約束は単なる未来への保証ではありません。 捕囚というような、人生の厳しい末路でも主なる神様は守ってくださる、という確証のみ言葉です。 私たちもこの信仰の確信に立ちたいと思います。
またきょうは、エフェソ書の2章も一緒に読みました。 そこでは、キリストにおいて働く神の力と、その力が信じる者にどのように関係するかというテーマが、神様の救いの恵みに与る以前の過去と現在とを対照させながら展開されています。 神様の憐れみと愛、すなわち恵みが、人間の状況を逆転させるのです。
本日は「召天者記念礼拝」を守っていますが、ここにお写真がある、先に召された兄弟姉妹方は、皆さんその神様の愛と恵みを信じて、自分が信じる神様の姿をしっかり捉えながら、その生涯をまっとうされた方々です。 私たちはお一人お一人の信仰者としてのお姿を偲びつつ、私たちもまた神様に祝福される人生をまっとうできるように祈り求めたいと願うものです。
空前絶後の試練の中で、唯一の真実の神を見出した古代イスラエル人の信仰に学びたく思います。 神様は救いの真理を一層明確にされるように私たちにイエス・キリストを送ってくださいました。 私たちはそのイエス・キリストの十字架と復活の信仰に生きています。 それは人間の死をも凌駕する大きな深い信仰の真理です。 信仰生活をまっとうできるよう、祈りましょう。