2017.10.08

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「互いを受容する信仰」

廣石 望

イザヤ32,15-20ローマ14,13-23

I

 1997年、代々木上原教会は、上原教会とみくに伝道所が合同することで設立されました。今日は、その20周年を記念する礼拝式です。

 20年前の合同にさいしては、まぶね教会の前牧師で、つい先日天に召された善野碩之助先生による、また前東京女子大学教授で東京大学名誉教授である大貫隆先生による懇切な仲介があったと聞いています。また、上原教会の信徒たちは故・赤岩栄牧師によって、他方でみくに伝道所の信徒たちは故・鈴木正久牧師によって指導された人々の一部です。赤岩牧師と鈴木牧師は、戦後の日本基督教団の歴史にあって特別に重要な働きをした二人の指導者でした。

 その二つの信徒の群れが一つの教会を形成し、20年間歩んできたことは、みくに伝道所の村上伸牧師と上原教会の陶山義雄牧師をはじめとする指導者の方々の、しかし何よりも両教会の信徒たちの篤い祈りと辛抱強い対話、そして惜しみない奉仕活動の賜物に他なりません。私自身は1983年春に、みくに伝道所の前身である「市ヶ谷集会」(当時)に加わり、教会ができたときは留学中でした。

 合同後の教会は主任牧師として村上伸先生、村椿嘉信先生、そして秋葉正二先生をお迎えして歩んできました。他方で信徒たちはこの間に、いわゆる「旧」上原でも「旧」みくにでもない方々が数多く加わり、教会のさまざまな活動を支えてきました。そして幾人かの仲間たちを天に送る一方で、残念なことに意見の違いや私たちの力不足から、幾人かの方々が教会を去りました。皆さん、それぞれ鮮やかに記憶に残っています。

 代々木上原教会20年の歩みは、いろいろな意味で信仰のバックグラウンドも考え方も違う者たちが、それでも共に歩んできた歴史であると言えるでしょう。今日、21年目の新しい歩みを始めるに当たり、次の問いについて、パウロの言葉に耳を傾けつつ、ごいっしょに考えてみましょう。すなわち内側に大きな多様性を抱えるコミュニティーは、どうすれば一致を生み出すことができるのか?――今日のテクストの受取人であるローマ教会そのものが独特な多様性を抱えており、その容易には調和できない違いを踏まえつつも、パウロ自身はどうしても一致を達成しようと努めているからです。

II

 ローマ教会の歴史を簡単にご説明します。都市ローマのキリスト教は、同地のユダヤ人コミュニティーから派生的に成立しました。都市ローマのユダヤ人の歴史で重要なのは、紀元前63年、ローマの将軍ポンペイウスがパレスティナを占領したとき、多数のユダヤ人が戦争捕虜つまり奴隷として都市ローマに連れてこられたことです。彼らは後に解放され、複数の会堂(シナゴーグ)を形成したもようです。ただし都市ローマのユダヤ人たちは、他の大都市とは異なり中心となる組織をもたず、相互に緩やかな連合を形成していたようです。

 ローマ教会の創設者は不明です。都市ローマのキリスト教徒たち関する最初の証言は、皇帝クラウディウスの時代に現れます。クラウディウスは40年代初頭にユダヤ人たちに集会を禁じつつ父祖伝来の習慣に留まるよう命じ、AD49に至って都市ローマのユダヤ人を追放しました。しかも追放されたのは、ユダヤ人キリスト教徒であったようなのです。

 というのも歴史家スエトニウスが、皇帝クラウディウスについて、「クレストゥスなる者の扇動により絶えず騒動を起こしたユダヤ人たちを、彼はローマから追放した」と書き記しているからです。この報告は「クレストゥス」という奴隷と思しき名をもつ一人の扇動者が、都市ローマのユダヤ人コミュニティーを混乱に陥れたと言いたいようです。でも、「クレストゥス」は「キリスト」の誤記だと思われます。キリスト教徒は、キリストが復活して「生きている」と唱えました。では、キリスト教宣教がユダヤ人共同体に絶えず騒動を引き起こした原因は何でしょうか? ありうるのは、彼らが律法遵守から自由な異邦人伝道を展開し、それが大きな反響を見出したという可能性です。

 じっさい私たちは、クラウディウスの勅令によって都市ローマを追われ、都市コリントスでパウロと出会い、チームを組んでいっしょに働きながら異邦人伝道を行ったユダヤ人キリスト教徒の固有名を知っています。すなわち夫妻であるアクィラとプリスカです(使18,1-3参照)。

 歴代のローマ皇帝たちは、伝統宗教がその従来の枠内に留まるよう、くりかえし命じています。社会の平和を維持するためです。しかし異邦人伝道を行う原始キリスト教は、「私たちの本国は天にある」(フィリ3,20)、「ユダヤ人たちの神は異邦人たちの神でもある」(ロマ3,29)と宣言しつつ、民族と民族の間、宗教と宗教の間の境界線を大胆に乗り越えて行きました。

 パウロがローマ書を執筆したのは、皇帝クラウディウスが紀元54年に死去し、追放令が解除されて、一部のユダヤ人が都市ローマに帰還し始めた時期であったろうと思われます。つまりキリスト教は、もともとユダヤ人が都市ローマに持ち込んだ宗教でしたが、その指導者たちが追放されたため、彼らが帰還したときには異邦人キリスト者が中心的な役割を果たすようになっており、いわば勢力地図に変化が生じていたようなのです。

III

 では、パウロの議論を見てみましょう。彼は「強い者たち」と「弱い者たち」という集団名称を用います。
 例えば、次のように言われます。「信仰の弱い者を君たちは受け入れよ、様々な議論の区分けに走るな。ある者はすべてを食べる〔ことが許されている〕と信じるが、弱い者は野菜を食べる」(14,1参照)。どうやら、菜食主義者が「弱い者」と呼ばれているようです。今日のテクストにも「肉を食べず、葡萄酒を飲まない」ことが、「君の兄弟が気にさわることを何もしない」ことにつながるとあります(14,20-21参照)。あるいは「キリストは神の真理のために割礼の奉仕者になった、父祖たちの約束を堅固なものにするため、他方で異邦人たちが憐みのゆえに神を称えるため」(15,8f.参照)とあります。

 おそらく「強い者たち」とは、食物規定に拘泥しない主として異邦人キリスト教徒たちであり、他方で「弱い者たち」とは、ユダヤ教の食物規定を超えて、肉食と飲酒を全面的に控えることにしたユダヤ人キリスト教徒たちであろうかと思われます。「弱い者たち」という表現は、強い者たちから付けられたのでしょう。つまり都市ローマでは出身民族も食習慣も異なる複数のキリスト教集団が、大きな多様性を孕みつつ緩やかなネットワークを構成しており、それが情勢とともに変化しました。私たちで言えば、都市の同じ地区にある、場合によっては教派の異なる複数の教会の連合体のようなものを思い浮かべればよいかもしれません。

IV

 ローマのユダヤ人キリスト教徒による、肉食と飲酒に対する全面的な忌避はいったいどこから来たのでしょうか? それには外的条件と内的条件があるだろうと言われています。

 まず外的条件について見ると、ローマ皇帝たちは、庶民にとって肉を食べる唯一のチャンスであった立ち食い食堂で、肉料理を販売することを繰り返し禁じました。目的はおそらく政治的なものです。つまり私的な祝祭という名目で、怪しげな者たちが反体制的な政治会合を開くことを、皇帝たちは嫌ったのです。クラウディウスによる追放令によって有力メンバーを失った残留ユダヤ人たちは、もしかすると皇帝の命令に進んで服従し、しかもあらゆる肉食を断つことで、これ以上目をつけられるのを回避したのかもしれません。

 しかし内的な条件もあったことでしょう。肉食と飲酒を控えることで、過ぎ行くこの世界に対して距離をとる姿勢と、欲望から遠ざかる自己制御の二つを同時に表現できました。「神の王国は飲み食いでなく、義と平和と聖霊における喜びであるから」(17節)は、彼らのモットーであったかもしれません。「神の王国が飲み食いでない」とは、ナザレのイエスとは真逆の立場です。イエスにとって「神の王国」は宴会そのものでしたから。それはさておき、この人々は古代社会のどんちゃん騒ぎ文化から自らを分離しつつ、「神の王国」が例えば天使たちのように飲食から自由な者たちの空間であるなら、すでに今、その準備として飲食に関する禁欲を実践できると考えたのでしょう。つまり世の終わりについての論拠を伴う、倫理的な対抗プログラムとして、肉食と飲酒の忌避が信仰の行為として提唱されました。

V

 さて、そのような極めて多様であるローマ教会の人々に向かって、パウロはどのようなアドヴァイスを与えるでしょうか?  まず「強い者たち」に向かってパウロは、「信仰の弱い者を君たちは受け入れよ」と命じ(14,1)、「君の食べ物によって、かの者を君は滅ぼすな――その人のためにキリストは死んだ」(14,15)と警告して、「弱い者たち」の味方をしています。しかも「肉を食べず、葡萄酒を飲まないことは良いことだ――君の兄弟が不興を覚えることを何らしないことは」(21節参照)とまで言います。もっともこれは菜食主義それ自体を推奨しているのではなく、生活習慣の異なる同信の仲間たちへの配慮の一環として言われているようです。

 他方でパウロは、「それ自体として穢れているものは何もない――何かが穢れているとカウントするその者にとって穢れているものを除いては」(14,14)、あるいは「万物は清いが、不愉快な思いで食べる人間にとっては悪しきものである」(14,20)と言うことで、理論的には「強い者たち」の認識に賛同します。ちなみに『新共同訳聖書』には「食べて人を罪に誘う者」になるなとありますが(20-21節)、「罪に誘う」という語は原文になく、まるでパラダイスの禁じられた実をめぐってエヴァがアダムに唆すようなニュアンスは本来ありません。食べてはいけないものなど、そもそもないからです。

 つまりパウロは「弱い者たち」と「強い者たち」の両方の判断ないし実践を、バランスよく擁護します。その上で、両者に共通するアドヴァイスとして、以下のようなことを述べます。「互いを裁くな」(13節)、「兄弟が気分を害したり、躓きになるようなことをするな」()、「愛に従って歩む」(14節)、「君たちの善きことが冒涜されないように」(16節――「善きこと」とはある者たちにとっては自由、また別の者たちにとっては菜食主義です)、キリストに隷従する(18節)、「平和のこと、互いにとっての建設のことを私たちは追求しよう」(19節)、「君は、君自身に即してもっている信仰を、神の前で持つがよい」(22節)、そして「すべて信仰からでないことは罪である」(23節――『新共同訳聖書』は「信仰」を「確信」と訳しますが、おそらく「信仰」のままで意味は通じます)。

 パウロがコリントスでローマ書簡を執筆したとき、彼にとって最後となるエルサレム訪問への旅立ちが目前に迫っていました。異邦人教会とユダヤ人教会の「一致」のしるしである献金を、エルサレム原始教会に届けることが、旅の大きな目的でした。その仕事をすませてから、パウロはローマ教会に向かうつもりです。だから同じ「一致」を、彼はローマ教会にも呼びかけたのです。

VI

 内部に多様性を抱えたコミュニティーがそれでも一致することは可能か?――という私たちの問いに対するパウロの答えは、〈信仰が多様性を許容し、かつ促進する〉というものです。「強い者たち」と「弱い者たち」に共通するアドヴァイスの部分が、その点でとくに参考になります。以下、3つにまとめてお話しします。

 第一に重要なのは、私たち各人が自分の信仰を神の前で「検証」することです。どのような実践を行う者も、その実践は、その人が神の前で持つ信仰に合致していることが望ましいとされます。「自分の決心にやましさを感じない人は幸いです」(23節)。つまり各人の信仰の確信に一致する、自己分裂的でないふるまいを、パウロはすべて許容します。

 第二に、それゆえ他者の信仰を「承認」することが重視されます。「他人を裁かない」「兄弟に不興や躓きを置かない」とは、自分が理想と思うことを仲間に強要しないことです。コリントス書簡のパウロは、「強い者たち」が偶像に献じられた肉の摂取という実践を、「弱い者たち」に対する配慮から放棄するよう求めます(1コリ8,12-13参照)。これに対してローマ書では、「強い者たち」に菜食主義を強要することは、むしろ兄弟への配慮を強調することで慎重に避けられています。パウロは、どちらか一方だけの味方をしません。

 他方で、同時代のストア哲学の倫理学では、自分が幸せになるための「徳」の実現を目指して、「善」が「悪」から区別され、またその両者から「どちらでもいいこと」(例えば富、健康、権力、名声など)が区別されました。さらに善に関して「より優先すべきもの」とそうでないもの、また悪に関して「より避けるべきもの」とそうでないものが巧みに区別されました。パウロも同様です。私たちも、同様に判断するかもしれません。しかしパウロの発言の大きな特徴は、自らの尺度に即して「善」と判断したことを、異なる尺度をもつ人々への配慮に照らしてもう一度測ることにあります。「君の食べ物によって、かの者を君は滅ぼすな――その人のためにキリストは死んだ」(14,15)。

 そして第三に、キリストへの「隷従」が重視されます(18節)。つまり、かくも異なる私たちを繋ぎ合わせるのはキリストです。「私たちが生きるなら主に生き、私たちが死ぬなら主に死ぬ。したがって私たちが生きるにも死ぬにも、私たちは主のものだ」(14,8)。

VII

 この〈互いを受容する信仰〉は個人の内部、同質的な共同体の内部に静かにとどまり続けることがありません。500年前、宗教改革者マルティン・ルターはその著作『キリスト者の自由』の中でこう言いました。「キリスト者は自分自身の内に生きるのではなく、キリストの内に、隣人の内に生きる。信仰においてはキリストの内に、愛においては隣人の内に」(Insel-Ausgabe I, 263)。そのとき私たちにとってキリストを宣教すること、世界に和解と平和を伝えてゆくことが大切になるでしょう。

 昨日、今年のノーベル平和賞が「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN=International Campaign to Abolish Nuclear Weapons)というNGO団体に授与されるというニュースが飛び込んできました。核兵器が考え方や生き方の違う他者を抹殺するという思想に基づくこと、またそのような大量破壊兵器を頼りに平和を構築することが、広島と長崎のそして世界のヒバクシャの方々の願いに――また私たちのために死んだキリストの願いに――叛くものであることは、自ずと明らかです。


 
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