2017.10.01

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「すべての人々と共に食卓に」

秋葉正二

詩編25,6-11マルコ福音書2,15-17

 

 イエスさまと食事を共にした人たちの多くは、徴税人や罪人でした。徴税人は文字通り税金を徴収する人たちです。テキストの舞台はカファルナウムですから、通行税を徴収する収税所がありました。彼らはそこで通行と携行荷物について税を徴収したのですが、官吏ではありません。領主から雇われた徴税請負人です。徴税額が課せられた額より多く集まれば過剰分は自分のものです。反対に不足すれば自分で補わなければなりませんでした。まあ多くの徴税人は損をしないように集めたことでしょう。多く取り立てて自分の懐を肥やすことができたからです。ですからザアカイの話に出てくるように、大抵の徴税人は金持ちだったと言われています。

 きょうのテキストの場所として出てくるのはその徴税人の一人レビの家です。彼は直前にイエスさまから 『わたしに従いなさい』 と言われて応じたばかりですから、イエスさまをもてなそうとしたのかもしれません。通行人の中には外国人もたくさんいますから、徴税人は異教徒との接触が多くなります。ユダヤ人たちにとってみれば、不当に高い税を取り立てる上に、異教徒に接して祭儀的に不浄な奴らだ、と見えたのです。結果、軽蔑の対象になりました。

 また、徴税人と共に会食の席に着いていた人たちの中に罪人がいます。罪人というのは刑法犯のことではありません。ユダヤ人社会において、宗教的に見て罪人という意味です。「地の民」と呼ばれた人たちがおりましたが、この人たちはその代表です。彼らは卑しい身分とされ、制度的に差別を受けていました。ユダヤ人が金科玉条としていた律法を守らない、あるいは守れない人たちです。

 食事の席にはファリサイ派の律法学者もいましたが、この人たちが「ちょっと待った!」と声をあげています。ファリサイ派には祭司も民間人もいましたが、彼らに共通しているのは、とにかく真面目ということです。律法を守ろうとする姿勢において真面目なのです。ですから、多くの民衆は彼らを尊敬していました。そのファリサイ派の律法学者がなぜ 「待った!」 をかけたかと言えば、律法の食物規定に触れていたからです。ファリサイ派はサドカイ派とは違って、モーセ五書だけでなく、学者たちによる律法の解釈規定をも判断基準にしていましたから、汚い仕事で儲けていた徴税人は罪人と同列の存在に映ったのです。

 このように社会から蔑まれていた人たちと平気で同じ食卓に着いたイエスというお方は、本当にすごい存在だと思います。世の中のしがらみにまったく左右されずに、こうした行動を取ることができたというだけでも、尋常なお方ではありません。イエスさまの振る舞いは、ファリサイ派の人たちの敬虔な感情をひどく傷つけたに相違ありません。また、イエスさまと弟子たちが罪人や徴税人と一緒に食事をしていたという伝承を、共観福音書が揃って取り上げている背景には、初代教会が、ユダヤ人と異邦人との食卓の交わりの問題に直面していたこととも関わっていたでしょう。初代教会には大きな意味をもっていたのです。

 教会が差別の問題に取り組む理由は、ここにルーツがあると言ってもいいでしょう。神さまの前で、「あの人は罪人だ」と他者を裁くことは、究極的に人間には許されていません。しかし昔も今も、私たちは同じように他者を裁くということをいろいろな局面でやってしまっているということを、よく考えなければなりません。「私は人を裁いてなどいない」 と多くの方は考えておられると思います。けれども自分のそうした自覚とはまったく別に、神さまの目というものがあります。神さまの目から見たら、差別だと言わざるを得ない多くのことを、私たち人間は犯しているのです。

 現代の事例で言えば、たとえば国連の人権委員会が日本には部落差別があるのでこれを解消するように、と勧告していますが、日本政府はその勧告に対してまったく後ろ向きです。こうした姿勢に対して国連は人権理事国の一員として日本の態度は公約違反だと指摘しています。私は「外キ協」というキリスト者の団体で、滞日外国人の人権問題に長く関わってきましたが、教会でさえこの課題に関してはほとんど無関心です。右翼の人たちは「国連というのは日本を批判しないと出世できない組織だ」とうそぶいていますが、こうした差別の現実は、日本政府の責任であると同時に、国民である私たちの責任でもあることを自覚する必要があると思います。「部落差別があるなんて知らなかった」 「私は外国人を差別などしていない」 という感覚も、結果的には差別に加担していることに他なりません。

 イエスさまの時代、ファリサイ派の人たちが社会で立派だと認められていた人たちであったということが、どういう意味をもっていたのかをよくよく考えなければなりません。イエスさまは人間の罪を指摘されたのです。ただ単にファリサイ派の人たちを批判されたのではありません。イエスさまは17節でこう言われています。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである』。

 人から蔑みの目をもって見られた徴税人と、清くない、汚れていると呼ばれた罪人たちとは、同病相憐れむと言いますか、座を共にすることも多かったのでしょう。そのような人たちとイエスさまは食事を共にされたわけです。その結果がどうなったか? ファリサイ派の律法学者たちはイエスさまの態度に驚きと怪しみの目を向けました。この出来事自体の中に、神の子イエスが地上に来てくださったことの意味があることに気がつきます。

 徴税人レビや罪人たちは、人々から疎外される寂しさに打ち沈んでいたことでしょう。人々の冷たい目に晒されていれば、誰でも喜びや平安を失っていきます。人にはいろいろな悩みや苦しみがありますが、イエスさまの来臨の意味は、悩みの中にある人に対する愛を通してご自身をあらわし給うた、ということです。イエスさまはレビの心を見抜かれていました。それだからこそ、テキストのすぐ前の14節で 『わたしに従いなさい』 と声をかけられて弟子にされたのだと思います。私たちはきょうのテキストを通して、イエスさまをこの世にお遣わしになった神さまが、どういうお方であるかを示されています。悩みや苦しみを抱える人に、愛を注がれるお方なのです。

 ところで、ユダヤ教の人たちが食事を神聖視していたのは、レビ記を読んでも分かる通り、彼らにとって会食は聖なる交わりのひとときであったからです。しかし、潔められていない者と一緒に食事をすることは自らを汚すことでもありました。これは信仰の世界の事柄ですから、宗教的に見れば一応の道理です。大抵の宗教は汚れを排除する何らかの制度を備えています。日本では神道のお祓いは代表的なものです。しかしそのような宗教的道理もイエス・キリストの前では役に立たないことを、このテキストは示しています。

 このテキストを読んでいて、私は30年以上も前のことですが、ハワイ諸島の一つ、モロカイ島にダミアン神父の足跡を訪ねたことを思い出しました。ダミアン神父はモロカイ島の断崖絶壁の下に強制隔離されていたハンセン病者の中に入って患者と一緒に生活したのです。やがて彼自身もハンセン病に感染しました。その時、ダミアン神父は 「これでやっと皆さんと一緒になれた」 と言ったそうです。彼は自分の生涯をイエスさまに捧げていた人ですから、隔離された患者に同情するだけでは何にもならないと考えていたのです。彼は単なる同情者としてハンセン病者の中に入ったのではなく、汚れた者としてこの世から排除された人たちの中にイエスさまがおられることを確信していたのではないかと思います。

 イエスさまも単なる同情として徴税人や罪人と交わったのではありません。人間が汚れていると決めつけた世界に入って交わっても、決して汚れることなどないことを明らかにする、いわば聖なる救い主として徴税人や罪人の中に入って行かれました。イエスさまはそういうお方として、今現在も、それこそ私たちの汚れを引き受けてくださっています。ですから、「丈夫な人に医者はいらない」 という一言は、痛烈な皮肉でしょう。いや、皮肉というよりは、終末において一切の価値の転倒を起こされる救い主イエス・キリストの宣告と言った方がよいかもしれません。

 何と言いますか、つまりキリスト教信仰は、罪人の信仰なのです。神さまは罪人を招き、その愛のゆえに罪人と共にいてくださるということが福音です。自分はどう見ても義人ではない、罪深い人間だ、と思う人を神さまは招かれます。しかし、罪の自覚は重要なことですが、自覚しただけではどうにもなりません。自分で罪の世界から抜け出すことは人間にはできません。福音による支配のために、イエスさまがこの世に来られて初めて、罪は崩壊していきます。

 きょうのテキストのすぐ前で、レビを招いた意味がその後、だんだんと明らかにされていく、そういう流れを感じます。医者を必要とするのは病人ですが、罪人にはイエス・キリストが必要なのです。パウロはそのことをよくわきまえていました。だからこそロマ書で 『義人はいない、ひとりもいない』 と言ったのです。私たちは一人残らず、すべて罪人です。私たちのなすべきことは 『わたしに従いなさい』 と言われるイエスさまに心から従っていくことだけです。    お祈りします。

 


 
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