監督・長老・執事といった教会の位階的な職制が確立されるのは2世紀前半と見られていますが、一世紀後半の教会には、エフェソ教会のように、指導的な役割を果たしていた長老と呼ばれるリーダーがいたことが分かっています。原始エルサレム教団以来、教会ごとに使徒たちに任命された指導者です。そうした権威を与えられた人たちの中には、苦境にあえいでいる外国人寄留者が多く集まっていた地域の教会に対し、使徒の名を記した手紙を送って、教会の秩序形成へのアドバイスや信仰指導を行った人たちがおりました。このペトロ前書の著者もそうした指導者の一人であったろうと考えられます。
テキストの5章前半には「長老たちへの勧め」と小見出しがつけられています。実際に長老たちへ向けられた言葉は1−4節までで、5節からその対象は「若い人たち」に移っています。長老がどの程度の年齢層を指しているのか必ずしも明確ではありませんが、常識的に考えて、人生経験豊かな高齢者でしょう。この手紙の著者は、その長老たちに対して、「神の羊の群れを牧しなさい」とか「権威を振り回してはいけません」とか4節までにアドバイスしています。
それに続く形で、きょうのテキストでは「若い人たち」に忠告するのです。ですからここで提起されているテーマの一つは、老人と若い人の問題だと言うこともできます。このテーマは時代を超え、民族も問わないすべての人間に共通なテーマです。5節には 『若い人たち、長老に従いなさい』 とあります。一般的に言えば、「若い人たちよ、年輩の人たちの言うことをよく聞くように」ということです。これはいつの時代になっても繰り返されてきた言葉です。世間で老人と若い人の問題があるように、教会にも長老と若い教会員の問題があるということでしょう。
そうであれば、単なる老人と若者の話ではなく、信仰生活に熟達した人と未熟な人との間の問題という側面が出てきます。双方にどんな問題があったのでしょうか。ここでは長老の生活についての戒めがなされた上で、今度は若い人たちに注意が与えられているのですから、問題は両方にあったということでしょう。それは別の言い方をすれば、単なる年齢差の問題ではなく、神さまの前に双方の生活を持ち出してみなければ、問題の根は分かりませんよ、という意味でもあります。
私たちならば、老人と若者がそれぞれ社会的にどんな位置を占めているとか、お互いに相手をどう見ているかなどを分析して話を進めようとするところですが、それをいくら進めたところで、結局はそれぞれの主張を確認し合うだけだと思うのです。そうではなく、ここで著者が目指しているのは、神さまに対して双方の立場がどうあるのか、ということではないかと思います。神さまを信じている老人というのは、端的に言って、まず神さまのなされることについて多くの経験を積んでいます。老齢になればなるほど、経験は増えます。しかし、問題は経験の内容です。長く生きたということが自動的に経験の内容を意味あるものにしてくれるわけではありません。長く生きたいと願っただけでは、多くの経験も老年を有意義に過ごす力にはなりません。
例えば、それを計る一番の基準は、その人の経験が死を乗り越えることにどれだけ役立っているかということです。長い信仰生活を送ってきたのに、死が近づいておろおろしているばかりでは、信仰の証しにはなりません。しかし、老人の中には長い人生の間に、悩んだり苦しんだりした経験を多く持ち、その経験を生かす人が必ずいます。そういう人は、世の中はなんて冷たいのだ、理不尽なのだと一度は世を恨んだり、虚しさを覚えたとしても、この世から逃避してしまうのではなく、神さまを見出すチャンスに変える人なのです。そのように信仰生活に入り、人生を送ってきた老人ならば、若い人も素直に学んだり従ったりできるでしょう。『若い人たち、長老に従いなさい』 というアドバイスの裏には著者のそのような思いがあったのではないでしょうか。
『謙遜を身に着けなさい』 という言葉もあります。人間同士が互いに謙遜を見に着けるのは難しいことですが、ここには神さまに対して謙遜を身に着けた老人のイメージがあります。神さまに謙遜な老人を尊敬することは、若い人にとって、自分が神さまに対して謙遜であることにつながります。信仰者が謙遜を求められる時の見本はもちろんイエスさまです。イエスさまがヨハネ福音書の「洗足」の記事の中で、手ぬぐいをとって腰に巻き、弟子たちの足を洗われた場面を思い出します。
足を洗うのは奴隷の仕事でした。神の子の権威を持つ方がそのようにへりくだられたその姿が、すべてのキリスト者にとっての謙遜のひな形です。こうして謙遜の対極に高慢があることが示され、高慢な者は実は神さまに高慢であることが明らかにされていきます。結論は、高慢な者は神さまから恵みを与えられない、つまり神さまに受け入れてもらえないということですから、ここには恐しいことが言われているのです。
そして7節で、『思いわずらいは、何もかも神にお任せしなさい』と著者は勧めます。一切を神さまに委ねなさいということです。「思いわずらい」ということで思い浮かべるのは、マタイ福音書の山上の説教にあるイエスさまの有名な言葉です。
私たちはこの有名な言葉の意味を実はよく分かっていないのではないか、と思います。この手紙の著者は、それは神さまに対する謙遜であると理解したのです。つまり、神さまに対して謙遜な生活をする者は、自分のことを思いわずらうな、と言っているのです。「お任せしなさい」という柔らかく訳された言葉は、本来は「何かを何かに投げつける」という意味の言葉です。ですから、「思いわずらい」を神さまに向かって投げつけなさい、と言っている強烈な表現なのです。
こうしてキリスト者の真の謙遜というものは、自分を否定することではなくて、積極的に神さまにすべてをお任せすることであることが分かります。さらに8節以下を読みますと、信仰生活とは絶えることのない戦いであることが述べられています。人生が戦いであるのは勿論なのですが、信仰生活には、さらに普通の人生には見られない戦いがあるということです。信仰は生きた生活ですから、戦いは止むことがありません。では、信仰生活のどこに戦いがあるのでしょうか。それは、この世との戦いでしょうか。そうではなく信仰生活そのものの中に、戦いがあります。その場所はもっと具体的に言えば、祈りと礼拝です。しばらく前に創世記の「ヤコブの相撲」の記事を学びましたが、あれなどは典型的な祈りの戦いの場と言ってよいでしょう。
イエスさまはもっと究極的な祈りの戦いを示してくださいました。ゲッセマネの園の祈りです。あの時、『汗が血が滴るように地面に落ちた』とあります。祈りが戦いならば、礼拝もまたそうです。先々週「荒野の誘惑」を学びましたが、荒野は誘惑における主の戦いの場でもありました。出エジプトしたイスラエルの民は、荒野で水や食べ物のことなどで誘惑に遭い、詰まるところ、神を拝むか悪魔を拝むかを迫られたのです。そのシチュエーションで捉えるならば、今日の私たちの礼拝も、神さまを拝みながらその反面に、悪魔を拝むことを否む戦いがあると言えます。祈りと礼拝における戦いこそが信仰生活の只中にあることを自覚したいと思います。
著者の念頭には、手紙の宛先の教会だけでなく、当時の地中海圏の教会には多かれ少なかれローマをはじめとするたくさんの迫害のあることが意識されていたでしょう。だからこそ9節で、『あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに逢っているのです』と言っています。いろいろな試練に遭遇しているのは、私たちだけではないのです。すべての信仰者が悪魔に抵抗して踏みとどまっています。それゆえ、ますます私たちは生活の中心を祈りと礼拝に集中させて歩もうと思います。
著者は10節で神さまが私たちを助けてくださることを伝えるのを忘れていません。神さまの助けが4つ書かれています。完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにすることです。私たちにはこの助けがいつどのように来るのか分かりません。しかし、神さまには神さまのお考えがあって、その時を定められるということです。その助けを、信仰をもって知り得ることが大切なのです。きょうのテキストでは、途中から老人と若者のテーマからより大きなすべての信仰者に共通する問題へと著者の主張は広がっています。その辺りの著書の主張をしっかり把握することが大切です。著者が最後に祈ったように、力が世々限りなく神さまにあることを、私たちも祈りましょう。