申命記の7章にまず述べられているのは、小見出しにあるように「七つの民を滅ぼせ」という穏やかでない神さまの命令です。 これは「聖戦」というイデオロギーの最も悪い面を表している、と見られています。 このことに関してはきょうのテキストを学んでいく中で触れます。 きょうのテキストの小見出しは「神の宝の民」となっていまして、これはいわゆる「選民」理解に関わります。 これが「聖戦」とどう関わるのか、気になるところです。
選民意識と云えば多くの人は、賛成しかねるでしょう。 特定の選ばれた民族だけにスポットライトをあてれば、誰だってその民族に属していない限り自分は排除されていると感じます。「我々は選民だ」と偉そうに言えば、そこには間違いなく傲慢な態度が見え隠れしますし、さらには差別意識も生まれます。 そこで、イスラエル民族が主張した神の選びとはどういうものなのか、探ってみましょう。
まず選民意識はどこから生まれてきたものでしょうか。 古代イスラエルは周囲を大国に囲まれ、弱小民族として不安定な中に存在しましたが、そうした環境の中で、「自分のアイデンティティーはどこにあるの?」と、他民族の中での自分の位置を確認したかったのだと思います。 7節前半にはこうあります。 『主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない』。 これは、自分たちが他民族の中でも大民族・大国でないことの自分たちの位置確認です。 続く後半はこうです。 『あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった』。 実にハッキリしています。 神さまが選ばれた理由は大民族ではないということですから、そこに驕り高ぶりが入り込む余地はないとの宣言でもあります。
では一体なぜ弱小民族イスラエルが神さまに選ばれたのでしょうか? 8節にその理由が二つ書かれています。 先ず一点、神ヤハウェの愛です。 イスラエルの状態がどうであるとかいったことには一切関係なく、一方的に愛されたという神さま側の理由です。 イスラエルにとってみれば、戦争が上手いとか、勇気があるとか、何か自分たちの側の理由をつけてもらいたいところでしょうが、それはありません。 むしろ少数民であるために他民族から選び出すという、あからさまな偏愛です。 そしてもう一点、それは先祖に誓われた誓いを守るためでした。
先祖への誓い、それは創世記の族長たちの物語や出エジプトの記事を読めば分かります。 神さまはアブラハムに何と言われたか、ヤコブ一族をカナンでどう導き、ヨセフ一族がどう導かれたか等々、イスラエルの歴史が関わっています。 いうなれば、神ヤハウェの歴史支配を貫くためと言えます。 ですからここにもイスラエルが愛される条件を挟み込むなどの人間側の状態や資格に依存されないことが示されています。 そこに人間の奢り高ぶりが入り込む余地はありません。
また先祖への誓いの代表的なものは、乳と蜜が流れる土地を与えることでした。 ということは、神ヤハウェの愛と選びは抽象的な概念ではなく、具体的な出来事として実現されたということでしょう。 出エジプトにしても、エジプトという大国の圧政からの解放という出来事ですから、そこに意識されているのは歴史です。
節が前後しますが、6節に出てきた「聖なる民」あるいは「宝の民」ということについても考えておきましょう。 「聖なる民」の「聖」というのは、本来旧約では「分離」を表す概念です。 つまり、イスラエルが神ヤハウェの愛される対象として、他の民族から区別された存在なのだ、という意味です。 「地の民(アム・ハーレッツ)」という有名な表現がありますが、ここでは「聖なる民(アム・カードーシュ)」だと言い、 それだけではなく、「宝の民(アム・セグラー)」だとも言うのです。 「宝」はもちろん「所有」を表しますから、イスラエルは神のものになったのです。こういう言い方は申命記以外にあまりないのではないでしょうか。
とにかく、そうした存在として神さまはイスラエルを選んだことが記されています。 最初に述べましたように、7章1-6節は「七つの民を滅ぼせ」ということでした。 この箇所を読むと「何と残虐な命令か」と思うのですが、その通りにイスラエルが実行したという歴史上の形跡はほとんどありません。 例えば、ヨシュア記の初めから読んでいきますと、モーセの後継者ヨシュアに率いられてイスラエルがヨルダン川を意気揚々と渡って行ったり、エリコを占領したり、イスラエルには前途洋々たる将来が待っている、というような印象があります。
しかし、先住民が長く居住する地域によそ者が侵入すれば摩擦が起きるのは当たり前で、カナンに定住化していくイスラエルの歴史の現実は、きょうのテキストに描かれているイメージではなかったはずです。 トラブルを抱えながらも先住民と共存していったというのが真実で、そこには先住民との雑婚も起こったし、先住民の宗教の影響も受けるのが当たり前で、そういう現実に何とか信仰の楔を打ち込もうと、申命記の記者たちは懸命に他民族との結婚を禁止したり、神ヤハウェの唯一性を強調したり、観念的な理想を謳い上げたわけです。 抑圧された少数民族が周囲を取り囲む多くの他民族と共存するためには色々な妥協の連続だったと思います。 ですから「七つの民を滅ぼせ」などという勇ましい記述も、聖戦思想をもって神さまへの一種の奉献を表現する観念思想だと思います。
残された文書の記述には勇ましさとか厳しさとかいった面が目立つわけですが、それは現実の裏返しの姿であると解釈した方が正確だと思います。 申命記が表す聖戦思想のルーツは、長く続いたカナン定住後の苦労の多かった歩みの反映です。 イスラエル王国建国以前の宗教部族連合時代のイスラエルは、王も軍隊もありませんでした。 そういう時代に外敵が侵略してくれば、彼らは部族間で協力し合って、にわか集めの農民兵を中心に、神ヤハウェから霊を受けたリーダーの下で必死に戦うしかなかったのです。 ですからその戦いは侵略のための戦いではなく、やむにやまれぬ自衛という抵抗です。 これが聖戦の出発であり、実態です。 これを観念的なものとして表現すれば、残虐性や勇猛果敢性が前面に出ざるを得なくなります。
何にせよ、残虐性を掲げるなどということは、旧約聖書の持つ暗黒面であることは間違いありません。 ですから「聖戦」に関する記事を読む場合には、背景も含めて、深い洞察が必要になります。 サムエルが王を戴いて建国することに消極的だったのは、戦争の実体が殺し合うという人間性の喪失にあることを見抜いていたからではなかったでしょうか。 私たちには、きょうのテキストを読んで考えなければならないことが、たくさんあるように思いました。 民族意識を強調すれば、そこには血縁ということが必ず出てきます。
「選民」を裏返せば、「他民族排除」が出てきます。 そこで雑婚禁止などということが主張されるのですが、歴史の事実を言えば、イスラエルという少数弱小民族は先住民と雑婚を繰り返し、他宗教の影響も受けながら、唯一神ヤハウェという信仰対象を確立して生き延びたのです。 こういう二千数百年も三千年も前の時代を背景にもつ文書を私たちは紀元21世紀に読んでいるわけです。 もし私たちが古代イスラエルのように、「神国日本」というような言い方をすれば、それは古代イスラエル人が自分たちを「聖なる民だから」と主張することと意味的につながるのではないでしょうか。
「日本」を強調することで、世界からの孤立や閉鎖性、独善性を避けることができるでしょうか。 私はできないと思います。 もしそんなことを強調していくのであれば、そこから出てくるのは、民族差別や逆差別の悪循環だろうと思うのです。 ですから、旧約聖書を私たちは読まなければいけないのですが、その際にハッキリと旧約聖書の持つ限界性をしっかり意識していなければなりません。 どの国にも右翼と呼ばれる人たちがいます。 国家主義者がいます。 国家を人間社会の中で第一義的に考えて、その権威と意思とに絶対の優位を彼らは認めるのですが、これは必ず全体主義的な傾向を帯びていきます。 偏狭な民族主義や国粋主義がそこから生まれます。 外国人の人権を守り、民族主義について考えるというのは、そうしたことに思いを致すことでしょう。
キリスト者がどういう立ち位置を取るのか、それはユダヤ教という旧約の選民意識の中で、その差別構造を突き崩す働きと教えを実践されて生き抜かれた主イエス・キリストをしっかり見ることです。 徴税人や遊女とも分け隔てなく交わり、必要とあらば律法をも破られたイエスさまは、当時の「神の選び」の考え方を覆されているのです。 イエス・キリストの選びと招きは、人間の側の条件や資格などに依存していません。 そこに人間の奢り高ぶり、差別意識が入り込む余地はありません。 この差別や排除の壁を打ち壊していく力をイエスさまからいただきましょう。 祈ります。