きょうのテキストは、申命記の言わば中心テーマを最もよく要約している部分と言われています。 最初の12,13節は申命記特有の基本原則の宣言で、一定の様式に従った記述です。 神ヤハウェに対してあるべきイスラエルの民の基本姿勢が述べられており、それはまた、ヤハウェに対するイスラエルの関係を全体的に規定しようとする新しい試みとも言えます。
イスラエルの宗教には、この申命記以前の時代に、こうした信仰の概念規定はほとんどありませんでした。 「ヨシヤ王の宗教改革」という言葉をお聞きになったことがあると思います。 紀元前621年に、南王国ユダの王ヨシヤの時代に、エルサレム神殿で原申命記と呼ばれる申命記の中核部分が発見され、ヨシヤ王はこれを読み上げて宗教改革を行ったと伝えられています。
原申命記は私たちが現在読んでいる申命記の5-28章にあたります。 この原申命記の作者は(おそらくグループ)、申命記の他にも、ヨシュア記から列王記に至る歴史書においても、加筆や編集に参与していたと見られており、いわゆる申命記的歴史観をもって旧約聖書に大きな影響を与えています。 その際、この作者は単に歴史を記述するだけでなく、イスラエルの民の宗教的な堕落を心配して、神さまに対する民の態度決定を迫るといったような旺盛な精神を発揮して、すこぶる説得的な姿勢をもって、民を教化しようとしました。 ですから申命記は、単純に「モーセの告別説教」というだけでは片付けられません。そこで、テキストを読み進むにあたり、こうしたことを頭の隅に置いておいてください。
テキストはまずイスラエルの民の信仰の基本姿勢が12,13節で述べられた後、14節では「天とその天の天」とか「地と地にあるすべてのもの」といった表現で、全世界はすべて神ヤハウェのものであることが力強く宣言されます。 天を重層的なものだと理解している点など、その天体観はもちろん古代人のもので、現代とはまったく違います。 おそらく世界の創造の信仰を強調することで、神ヤハウェの偉大さを証明しようとしたのでしょう。 そこには第二イザヤの表現と相通じるものがあるようにも思われます。
ところが、全世界がヤハウェの所有であると主張しながら、15節ではイスラエルだけを愛し、且つ選んだと言うのですから、そこには「神の選びの恵み」が一層鋭く印象づけられています。 こうした主張がいわゆる選民思想を強く形成していくことにもなるのですが、これは後代、結果としてユダヤ教を民族の枠に閉じ込める役割も果たすことになりました。
自分たちだけの民族性に拘泥すれば、その信仰は世界宗教としては発展していかないことを意味します。 ところで15節の途中から、表現が二人称単数から複数に移行しています。 イスラエルという国、あるいは民族として一つのまとまった存在を単数で捉えていた対象が、今度はそこにつながるひとりひとりに移っていきます。 読者としては、それまでよりも自分に直接呼びかけられる神ヤハウェを、一層強く感じられるようになります。
17節からは、神さまに対する様々な表現が次々に出てきます。 そこには私たちの信仰理解に関わる問題が提起されているように思います。 たとえば、私たちは神さまに関してどのような言い回しをすることができるでしょうか。 『あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく畏るべき神……』。 そもそも聖書には、「神とは云々」という定義をあまり見かけません。 旧約では特にそうです。 そうした中で、この17節は数少ない神定義の箇所と言っていいでしょう。
基本的にこれはヘブル語の特徴でもありますが、名詞による神表現、 神定義と言えます。 ヘブル語には「……である」という場合の「である」に相当する言葉がありません。 名詞を並べると考えて頂ければよいと思います。 名詞ですから、同義語あるいは類義語を並べて、次々に言い換えることができ、実際そうされています。 それが、「神々の中の神」また「主なる者の中の主」という表現であり、これはヘブル語の最高級の言い方です。
最高神、最高主という意味ですから、そう言うからには、その背景に当然多神教の存在が考えられます。 イスラエルの神は唯一神ですが、ほとんど周囲が多神教である環境の中からヤハウェという唯一神が生まれたことは歴史において大変重大な意味をもっています。 キリスト教がその路線を引き継ぎましたし、イスラム教もそうでした。 キリスト教では神の子イエスが登場しますので、三位一体とは言ってもやや唯一性が形を変えています。 その点ではイスラム教の方が神の唯一性をユダヤ教に近い形で忠実に継承していると言えるかもしれません。
唯一神はこの世界の創造主ですから、必然的に創造される側の人間とはまったく別な存在です。 何と言いますか、全知全能の絶対者ですから、少なくとも私たちの親しいお友達的な存在ではありません。 ですから、神ヤハウェは、まず『偉大にして勇ましく畏るべき神』として賛美されています。 その全知全能の神さまが、自らが創造された人間をどのように見ておられるか、ということが誰にでも分かるように語られるのです。
その姿は神の特徴であることには変わりありませんが、もっと私たちにも分かりやすい姿として、いわばその性格を説明するように次々に語られていきます。 『人を偏り見ず、賄賂を取ることをせず』とあります。 「人を偏り見ず」なんてことは私たち人間には到底できないことで、私たちは「人を偏り見ながら」生きています。 神さまは人間を創造したオーナーとして、私たちを平等に見ておられるという説明です。 『賄賂を取ることをせず』というのは、当時から賄賂を取る人間がたくさんいて、そういうズル賢い生き方をする人間がいなくなるようにという願いを理想像として神さまに重ねたのではないかと思います。 賄賂を取るのはあくまでも人間の姿です。 今話題の「忖度」する人間の姿と言ってもよいでしょう。
続く18節はとても大切な箇所です。 申命記記者がことあるごとに繰り返し繰り返し主張することが、神さまがなさることとして述べられています。 「寄留者」と訳されているのはゲールという語ですが、これは自分の民を離れてイスラエルの中に居住する人々のことです。 寄留者と訳される語はまだ他に幾つかありまして、細かい部分の意味合いが若干違うのですが、ゲールが代表的な語です。
私が関わっている「外キ協」の活動を神学的に位置付けているのは、このゲール論です。 この寄留の他国人や孤児や寡婦に対して、神さまは特別にその愛を注がれると申命記は強調するのです。 16章や26章などを読みますと、ゲールも契約の一員として扱われ、共に律法を守り、孤児や寡婦も一緒に祝祭に参加することを神さまは求められています。 モーセ五書や歴史書を読んでいると、何度も何度もこうした主張が繰り返されていることに気がつきます。 そして時代が下ると、預言者たちがその主張を実践の場に引き出すのです。 その流れはイエスさまの登場によって最終的に成就します。
ですから、社会的立場の弱い人たちに強い関心を寄せるのは申命記の一大特徴でして、神さまがそれらの人々を愛し、生活に必要な物を与えてくださるお方だ、というのがその主張なのです。 神さまの姿が名詞的な賛美表現から、孤児や寡婦やゲールを愛されて食物や衣服を与える、とその働きが動詞的に述べられるように移っていくダイナミズムを私はこの箇所から感じ取りました。 社会的立場の弱い人たち、言うなれば社会におけるマイノリティーの存在です。
今日は「部落解放祈りの日」を覚えての礼拝ですが、「部落差別」に取り組むことは、私たちキリスト者が聖書から促されていることなのです。 私は九州教区時代に、部落解放委員会の一人として差別の現場から、大切なことをたくさん学ばせていただきました。 癌で余命いくばくもない西本願寺の高齢の僧侶から、キリスト教が取り組まないでどうする、と鹿児島同宗連の会長職を受け継いだのが40代前半でした。 仏教の多くの教派の僧侶や門徒の人たちと差別戒名の現場を歩いたり、被差別部落の人たちと語り合ったりしたことは、私の聖書理解を実践の場と結びつけてくれました。
社会的マイノリティーの人たちと共に生きることはキリスト者の責任であり、申命記の著者や預言者やイエス・キリストの歩みを継承することです。 その意味で日本基督教団が部落解放センターをその機構の中に設置して、部落解放に向けて歩み続けていることは正しいことです。 申命記は私の好きな書物なのですが、申命記を読んでいると神さまの無から有を生み出される存在感と、歴史を導かれている生きた働きを感じます。
終わりに20,21節をもう一度読んで祈ります。