2017.6.18

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「教会の進展」

秋葉正二

詩編 2,7使徒言行録9,19b-31

 有名なパウロの回心の出来事に続く記事です。  パウロの回心があまりに劇的であったので、そこだけに目がいってしまいがちになりますが、回心の後、彼はどうしたのかをしっかり見ていきましょう。  まだ名前はサウロです。 サウロはヘブライ語であり、アラム語形の呼び名です。 パウロはギリシャ語形の呼び名です。  きょうのテキストはパウロの回心後の最初の数年間の記録であり、ダマスコとエレサレムにおける活動の記録です。  全体の内容は大体4つに区分できます。  まず19b節から22節にかけてダマスコにおける活動が記されています。  2番目は23-25節にかけて、ダマスコ脱出の顛末、3番目は回心後、パウロが最初にエルサレムに滞在した際の緊張した状況、そして4番目はパレスチナ全地方における教会の進展の様子です。

 これを書いたのはルカですが、彼はパウロに関する多くの伝承をそのまま並べたというわけではなく、ルカ神学の光の下で資料の修正や削除をしたりしながら配置し直したと見られています。  22節までに印象的な表現があります。  20節の『すぐあちこちの会堂で』という記述です。  ついにサウロはダマスコの町に入ったわけですが、回心の事件さえなければ、その目的はキリスト者たちを捕縛してエルサレムへ送ることでした。  しかしこの時のパウロは、主イエス・キリストの僕として、福音の宣教者として入ったのです。

 神さまのなさることは人間の思いをはるかに超えています。  数日過ごしてから、『すぐあちこちの会堂で』活動を始めたというのです。  これはガラテヤ書の1章16,17節でパウロ自身が記していることに関連します。  そこにはこうあります。  『御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしはすぐ血肉に相談するようなことはせず、また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした』。

 このアラビア行きがどこでなされたのか諸説があるのですが、私はパウロの目が元どおりに見えるようになった後、すぐにアラビアに行ったと見ています。  アラビア滞在期間は正確には分かりません。  2年と見る説などがあります。  おそらくシナイ山かどこかへ行って、本格的な活動に入る前に、準備の求道生活みたいな日々を過ごしたのではないでしょうか。  そして再びダマスコに帰り、弟子たちと数日を一緒に過ごして、『すぐあちこちの会堂で、“この人こそ神の子である”』と説き始めたのだと思います。

 イエスさまが神の子であることは聖書の使信の中核です。  神の子といえば、神と子が別々のように思われがちですが、「神そのものを示すもの」という意味です。  「神の子」には別の使い方がなされる場合もあります。  イエスさまを信じた時に、その人が神の子とされる権利が与えられるという意味で「神の子」が使われる場合があるのです。  しかしここでパウロが語っているのは、もちろん「イエスご自身が神の子である」という意味です。  パウロのこの言葉は彼の信仰告白と言った方がよいかもしれません。

 キリスト者を捕縛するために絶大な力を発揮していた人物が、「イエスご自身が神の子である」と信仰告白したのですから、ダマスコの人々はさぞや驚いたことでしょう。  その混乱ぶりが22節までに書かれています。  私たちが他の人たちに福音を伝えるために必要なことを、この部分でのパウロが教えてくれています。  一つは回心の経験です。  それがなければ何も始まりません。  もう一つはパウロがアラビアで黙想の期間を過ごしたように、信仰を深く磨くことです。  私たちは私たちなりに、どのようにリトリートの生活があるかを考えなければなりません。  回心と信仰の練磨があって初めて、「イエスは神の子であり、キリストである」という確信が与えられるのだと思います。

 22節には、『サウロはますます力を得て、イエスがメシアであることを論証し』と書かれていますが、この「論証する」という言葉の元々の意味は「一緒にする」であり、そこから「証拠として持ち出す」という意味になります。  つまりパウロは、律法学者、ラビ神学者としての深い学識を発揮して、旧約聖書を解釈し、主イエスの公生涯と死と復活で成し遂げられた歴史的な事実を、旧約聖書の成就の証拠として持ち出し、「このイエスこそキリストですよ」と示したのです。

 ダマスコにいるユダヤ人たちは「うろたえた」とありますから、パウロのそのキリスト論証方法に太刀打ちできなかったのです。  パウロが身につけていた旧約神学が逆な形で生かされたということです。  神さまはそのようにパウロを用いられたのです。  私などは、パウロという人の器の大きさに、最初から圧倒される思いです。  何と申しますか、迫力があります。  22節には『サウロはますます力を得て』とあるのですが、こうした活動を続けていれば、当然パウロの反対者は憎しみを倍加させていきます。

 23-25節を読むと、その結果が書かれています。  ユダヤ人はパウロを殺そうと決意するようになったのでした。  ダマスコの町は城壁に囲まれ、出入りには門を通らなければなりませんから、ユダヤ人たちは町の門を見張ってパウロを捕らえようとしています。  捕らえてステファノのようにリンチして殺してしまおうという企みです。  これに対して、サウロの弟子たちが夜の間に彼を連れ出して、彼をカゴに乗せて城壁づたいにつり降ろした、とあります。

 25節にははっきり「サウロの弟子たち」と書いてありますから、パウロのダマスコでの伝道活動が実りあるものであり、滞在期間が短くはなかったことを裏付けています。   旧約のヨシュア記2章には、ヨシュアの派遣した斥候が遊女ラハブによって城壁づたいに逃してもらう記事がありますが、あの記事を思い出させるような出来事です。

 そして26-30節。  とにかくパウロはダマスコに来て3年後、そこを脱出して、ペテロを訪ねてエルサレムに上ります。 これはガラテヤ書の1,18に書かれています。  パウロとしてはエルサレムのキリストの弟子たちの仲間に加えてもらおうと努めたわけですが、そんなに簡単に事は運びませんでした。  それはそうでしょう。  何と言ってもユダヤ人から見れば、彼は裏切り者ですし、キリスト者から見れば、かつて激しい迫害を加えた張本人です。

 エルサレムに上ること自体が危険なことだったのです。 パウロに裏切られた仲間がいましたし、彼の背反に憤っていたユダヤ人組織もありました。  しかしパウロはあえてエルサレムに上ったのです。  何よりもまずエルサレムで伝道しようという決意でしょう。  パウロは回心後すでに3年を経ていましたが、エルサレムの弟子たちの恐怖は残っており、警戒心は強かったわけです。  これはエルサレムの弟子たちの狭量というよりは、かつてのパウロの迫害がいかに凄まじいものであったかということでしょう。

 しかし神さまは一人の理解者をお立てになりました。  27節、バルナバです。  バルナバはパウロを使徒たちのところへ連れて行き、ダマスコ途上で、主イエスが彼に現れて語りかけたこと、さらには回心後の彼が、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣べ伝えたことを、説明して聞かせました。  いわばバルナバはパウロの保証人です。  このバルナバの働きはキリスト教史上において重要な意味を持っています。  このことがあってから、パウロは使徒たちの仲間に加わり、使徒たちと協力してエルサレム伝道に邁進します。

 私はこの記事を読むと、後のバルナバとパウロが激しい意見の衝突の末、別行動を取るようになる出来事を思い出して心が痛みます。  こんなに愛に満ちて、深い信頼に結ばれていた二人がどうして一緒に伝道活動ができなかったのか、と思うのです。  人間にはいろいろな面があって、それだけ複雑な存在なのだということでしょうか。

 それはさておき、エルサレムにもやっぱりサウロを殺そうとするユダヤ人がいました。  パウロの伝道活動というのは、最初から命がけのものであったことがよく分かります。  それを知った教会の兄弟たちは、パウロをカイサリアへ連れてくだり、タスソスへ送り出しています。  エルサレムでも脱出ということになりましたが、後のことを考えると、この出来事をキッカケにしてパウロは異邦人世界へ使徒として送り出された、ということが言えます。

 この後の14年ほどのパウロの伝道活動について使徒行録は書いていないし、パウロ自身もガラテヤ書の1,21で、シリアとキリキアで活動したという以外言及していません。  けれども、その後タルソスとアンティオキアを活動拠点として、キプロスや南小アジア地方を巡り歩き、その働きを及ぼしていたことは間違いないでしょう。  その活動の中で、パウロは明確な異邦人伝道の自覚を持っていったと思われます。

 さて、31節です。  『教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった』とあります。  教会-エクレシアは、キリストを通して、神さまによって召し集められた者の群れです。  この集まりが、神さまを畏れ敬い、その聖霊によって励まされて歩む時、そこには平安があり、基礎が固まり、次第に信徒の数が増していくというのです。  ということは、現代の教会が問われているのは、その伝道方法ではないでしょう。  その教会に、神さまを畏れかしこむ精神と、聖霊の励ましを頂くにふさわしい謙遜と信仰があるのか、という問題です。

 「平和を保ち」というのは、迫害がない、ということではありません。  初代の教会はずっと迫害の中です。  迫害の中でも、神さまに信頼して保たれる平和、神さまに保護されている世界があるということです。  私たちは自分たちが生きる社会とそこに生きる人間をよく見なければなりませんし、必要ならば物申し、行動も起こさねばならないでしょう。  しかしそれは、神さまを畏れかしこむ生活が前提です。  教会はそのことをいつも確認できる場所でなくてはなりません。  エルサレム教会は、使徒言行録2章によれば共産生活にチャレンジしていますが、それも聖なる神さまへの畏れの念から生じたと思います。  主なる神さまを畏れなくなった教会は、逆に言えば、この世を恐れ権力を畏れます。  私たち日本の教会が、神さまへの畏れと聖霊の励ましに生きる時、神さまは次々に主の民を私たちの教会に加えてくださるはずです。   祈ります。


 
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