信仰のない時代イエスさまが汚れた霊に取り憑かれた子供を癒される物語です。 典型的な悪霊追放の伝承記事です。 マタイとルカに並行記事がありまして、いずれも山上の変貌の記事に続く出来事として記されています。 ですから 『一同がほかの弟子たちのところに来てみると』とある一同とは、イエスさまと一緒に高い山へ登ったペトロ、ヤコブ、ヨハネとイエスさまを指しています。 この4人が山を下りて、他の弟子たちの所へ帰ってみると、大勢の群衆が弟子たちを取り囲んで律法学者たちと論じ合っていました。 群衆はイエスさまを見つけると、「驚いて駆け寄って来て挨拶した」 とありますが、不在であったイエスさまが帰って来られたという歓迎の意思表示でしょう。 群衆の間でのイエスさまの人気を強調するのはマルコ福音書の一つの特徴でもあります。 それはまた、「イエスさまの不在」ということを強調する結果にもなっています。
気がついた方もおられると思いますが、このテキストには群衆描写の不一致があります。 17節では群衆はすでにイエスさまと一緒にいるのですが、25節ではもう一度 『イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると』 と出てきまして、情景描写が一致しません。 これはおそらく二つの伝承が一つに合わさっているということだろうと言われています。 それはそうとして、イエスさまが、『何を議論しているのか』 と尋ねています。 群衆に向かってそう言われたのでしょう。 すると群衆の中の一人が状況説明をするように答えました。 『先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません』。 …… 霊がその子をどんなにひどい目に会わせているかを申し述べて、終わりにイエスさま不在中の弟子たちでは霊を追い出すことができなかったことを告げます。
霊とあるのは原文ではプニューマという語ですが、これに形容がついて愚かな霊,愚かなプニューマ、あるいは口のきけない霊という表記になっています。 いわゆる悪霊という語ではありません。 父親とイエスさまがしばらく話された後、結果として、イエスさまはこの子供を癒されています。 これを見て、28節で弟子たちは 『なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか』 と尋ねると、イエスさまは、29節で、『この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ』 とお答えになっています。 さて、この物語から私たちが考えなければならないことがいくつかあります。 まず愚鈍な霊、口のきけない霊ということですが、この霊が引き起こすのは、発作的な痙攣や意識喪失のようですから、表現から判断すると、どうも癲癇ではなかったかと思われます。
マタイ福音書の並行記事では癲癇とはっきり病名が記されています。 当時の人々は、病気の原因は何かの霊にとりつかれるため、と考えていたようですから、父親が 『霊がこの子に取りつくと、所かまわず』 云々、と言ったことは当然です。 病気の原因は普通医学的に説明できることがほとんどだと思いますが、癲癇とか精神病となると原因の明らかでないものがあるようです。 医者も治療の方法が確立されていなければ、困るだろうなと思います。 そうした場合、医者のみならず、「人間世界に、なぜこの病気があるのだろうか?」と、根本的な問いが出てきて、誰もそれに答えることができず頭を抱えます。 イエスさまの癒しとは、そのような場合の治療に関係しているのではないでしょうか。
エデンの園の記事を思い出します。 聖書は人間が神さまと正しい関係に生きる限り、本来は不死であったと告げています。 にもかかわらず、サタンの誘惑に乗っかって人間が神さまに反逆した結果死ぬようになったのだ、と言っています。 病気の根本原因を聖書は神さまとの関係に見ているように思えます。 そうした感覚は現代人よりも、イエス時代の人々の方が敏感だったのではないでしょうか。 人間の現実に対する深い洞察から、病気の原因を神さまとの壊れた関係に見る視点は、とても大切なものだと思うのです。 イエスさまが、『なんと信仰のない時代なのか』 とおっしゃったのはそういう意味ではなかったか、と私は思います。
もう一つ大事な点、それは21節以下の父親とイエスさまとの会話に現れています。 父親は、『……おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください』 と懇願しました。 これに対するイエスさまの返答はこうです。 『“できれば”と言うか。信じる者には何でもできる』。 …… この言葉を聞いて父親は叫びました。 『信じます。信仰のないわたしをお助けください』。 そうして、彼の息子は癒されました。 この後、弟子たちの質問に対してイエスさまは、『この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできない』 と言われたのです。
私たちはここで、信仰と祈りについて考えなくてはならないと思います。 イエスさまは父親に対して、ご自身への全幅の信頼を要求されています。 それが信仰だよ、とお示しになられたのです。 3人の弟子以外はイエスさまと一緒に山へ行かなかったので、イエスさま不在という状況の中で、信仰とは何かを忘れかかっていたのです。 これは他人事ではありません。 私たちには、キリスト教を知識としては理解するものの、生命の問題としては真剣に追求しないという傾向があるのではないでしょうか。
イエスさまがこう祈りなさい、とお手本を示してくださったので、私たちは「主の祈り」を繰り返し祈りますが、何度も繰り返すうちに、いつしか単なる復誦としてしか感じなくなっていることがあります。 その時、「主の祈り」はすでに祈りではなくなっています。 形式化されたものはすべてそうした危険性を孕んでいます。 私たちの信仰は習慣との闘いと言ってもよいかもしれません。 イエスさまの不在ということを通して、弟子たちの信仰がいっとき新鮮さを失いかけていたことを、この物語は示しているようにも思えます。 この物語に登場する父親の姿を見ていると、世にある子を持つ親たちの苦労を思い浮かべてしまいます。
私はもう娘たちが成人して子の親になっていますので、私自身は娘たちが子供の頃のことはもう忘れてしまっていることが多いのですが、娘夫婦と孫たちの生活を見ていると、この物語の父親のように、病気であれ、精神的問題であれ、子供の現実の様々な問題に親として苦闘している姿をかなり頻繁に見ます。 幼い子供は、可愛いだけでなく、親の頭を痛めますし、大きくなればなったで、親の心を痛めることでしょう。 実は私たち大人もこのテキストの子供と同じように、自分が子供の時、親に心配をかけていたはずなのです。
親といっても子供と同じ人間ですから、実際どうしようもなくてオロオロする場合が少なくないでしょう。 そういう時、私たちは23節のイエスさまの言葉を思い出さなければならないと思います。 『“できれば”と言うか。信じる者には何でもできる』。 …… イエスさまに全信頼を置いて神さまに祈っているか、もう一度自分の信仰を吟味すべきでしょう。 私たちの信じる聖書の神さまは、恵みの神さまですから、この物語の子供が癒されたように、私たち親にも子供にもそれぞれにふさわしい解決の道を示してくださるはずです。 信仰とは人間的可能性が尽きるところから始まるものです。 信仰のない時代の中で、ここにはそこから訣別して、イエスさまを心から信じる決断をした親の姿が描かれています。 イエスさまが 「祈りによらなければ」 と言われたように、神さまに全信頼をもって真剣に祈る者でありたいと思います。 祈ります。