2017.5.7

音声を聞く(MP3, 32kbps)

「被造世界に対する人間の責任と使命」

秋葉正二

創世記1,24-31ローマの信徒への手紙 8,18-25

 読むたびに感嘆せざるを得ないのが創世記という書物です。 壮大なスケールでこの世界が創造されたかと思うと、一転して緻密に、きめ細かく動植物が造られていきます。 天地宇宙いっさいのものは、その存在の根拠を神においていることが、創造物語ではっきり宣言されています。 20節から22節、天地創造の五日目に生き物が造られています。 海の大いなる獣と、水に群がるすべての動く生き物とか……私は龍とかワニとかを想像しました。 そうして24節になると、神さまは陸上の生き物を獣・家畜・地を這うものの3種類に分けていきます。 爬虫類や野獣や山羊などがイメージとして浮かんできます。 人間よりも先に家畜が登場していることにちょっと興味を惹かれます。 ユダヤ人の先祖は、将来人間に馴れる動物を家畜としてすでに考えていたのかもしれません。

 そして26節になると、いよいよ人間の登場です。 『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう』とあります。 神さまはご自分のかたちに人を創造された、つまり神のかたちに創造し、男と女とに創造されたのです。 この部分の記述は、他のものと比べると、人間の創造には並々でない深い配慮が行われていることが伝わってきます。

 まず第一に、『我々にかたどり、我々に似せて……』とあることに注目しましょう。 神が「我々」という複数形なのはおかしい、と思われた方がおられると思いますが、神話の時代にはケルビムなど神の周りの存在である天使が考えられたりして、それらを含めて複数だと考える説があります。 あるいはまた、この複数形は尊敬を表現する形だとも言われます。 いくつか解釈はあるのですが、形は複数でもやはり神は一つ、と考えればよいと思います。

 『かたどって』という表現について言えば、アウグスティヌスが自伝文学の「告白」の中で、「かたち」を外形と誤解した、と書いているそうです。 外形でなければ、精神的な意味ということになるでしょう。 この洞察はなかなか優れていると思います。 いうなれば神の人格に近いものとして造られた、ということです。 「人格」と考えれば、神と人がお互いに交わることができるように人は造られたということになって、人間の尊厳にもつながります。 太陽のように他にもまだ偉大な存在はあるはずですが、太陽といえども神と交わることはできないことを思えば、『かたどって』という表現には深い意味が込められていると思います。私たちと神との交わりは、まず「祈り」が思い浮かびますが、人が神にかたどり、似せて造られたことがどんなに大きな意味を持っているかが理解できます。

 また、27節には『男と女に創造された』とも書かれています。 男と女については2章にも出て来ますが、2章と違うのは、最初から男女が造られている点です。 この男女は単数形が使われています。 この箇所を根拠に、創造の昔から男と女が一対一であることが、一夫一婦制が創造の初めから神の意志であった、というふうに解釈する説があるのですが、いきなりそこへ結論できるものか賛否両論があるでしょう。

 28節以下を見ていきます。 神の祝福の言葉が印象的です。 『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ』。 さらに言葉が続きます。 『見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう』。 驚いてしまいます。 神さまは人間に対して、それこそ至れり尽くせりの祝福を与えています。 ただ単純に『産めよ、増えよ、地に満ちよ』と言い放っておられるのではなく、その保証をちゃんとするよ、と言っておられるわけです。 しかも他の生き物たちには青草を与えるとまで言われ、決して不自由はさせないと約束しています。

 祝福はそれだけにとどまりません。 『生き物をすべて支配せよ』とありますが、この「支配」と訳されている「ラアーダー」の理解が、先般物議を醸しました。 支配といえば、上に立つ者が下の者を指図して取り締まるとか、命令をもって他者を束縛するとか、「取り締まる」イメージが先にたちますが、聖書のこの箇所に『支配せよ』とあるものですから、「キリスト教思想はこの世界この自然を上から目線で睥睨している、そこから自然破壊が始まるのだ」と、自然破壊の元凶はキリスト教だという批判がなされました。 そうした動きに対して、ラアーダーという語には単なる支配ではなく、もっと深い意味のあることが丁寧に説明されるようになりました。

 それによると、ラアーダーには、相手の心を受けとめて、これをしっかり生かすという意味があるのだそうです。 それならば自然破壊の犯人がキリスト教だという批判はあたらないでしょう。 そこには神さまが他者との関係を持とうとされる意志が投影されています。 人間も他の生き物も、自然や植物も、交わろうとされる神さまによって創造されている……ならば、その世界をしっかり管理しなさいと任せられた人間が、他の生き物や自然を粗末に扱うことができないのは自明です。

 つまりすべての被造世界に対する人間の責任と使命が神さまの『支配せよ』という一言に込められていると理解すべきです。 人間は神さまからある権限を委ねられ、全地を治めなければなりません。 しかし、この世のオーナーであると勘違いしてはなりません。 あくまでもこの美しい地球の管理人として神さまから仕事を与えられたと言うべきでしょう。 ですから人間が公害を起こすようなことがあれば、すぐに修復の手当てをするべきです。

 ボロボロになるまで聖書を読んでいた田中正造が、足尾銅山の鉱毒問題を解決せんと命を張ったのは偶然の出来事ではなかったと私は考えます。 いうなれば、聖書が田中を公害問題の解決のために谷中村へ向かわせたのです。 私は九州に暮らしていた時、そのように考えて、水俣に通い、患者さんたちと交わりました。 その多くはすでに天国に行かれました。 創世記を読んでいると、私は水俣の劇症患者さんたちの顔々を思い出します。 不自由な身体で百パーセント有機農業を実践したTさん、母のお腹の胎児の時から有機水銀に侵されていたSさん……彼らとの交わりは、今から思うと聖書を読んでいたようでした。

 創世記には神さまの人間に対する、またすべての被造物に対する肯定と祝福の意志が満ち満ちていると思います。 創世記を熟読することは、すべての被造物、被造世界を大切にすることへと人間を導きます。 私たちの存在の根源は神さまにあります。 私たちは神さまから命をいただき、食物をいただき、住むべき大地をいただき、他者を愛する心、神の愛を注がれています。 神さまに喜んでいただけるよう創造的に自由に生きていきましょう。 ひとりひとりを見ると小さい私たちは、力なき存在のように映りますが、その小さいひとりひとりに、神さまは『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ』と言葉をくださって、飛躍的な展開を望まれていると思うのです。

 31節の結びはこうです。 『神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった……』。 これは申し分がない、欠点がまったくないということです。 けれども同時に逆説的な表現でもあります。 つまり、堕落した後の人間の行うことは不完全きわまるということでもあるでしょう。  天地宇宙を造られた神さまの業は「極めて良かった」のです。 しかし、地球温暖化や公害だけを見ても、私たちはこの世界を眺めて理想的だとは思えません。 どうしてこうなってしまったのか? 心を落ち着けてじっくり考えなければなりません。 聖書はその解答を与えてくれる鍵だと思います。

 人間の罪がなくならない限り、もとの姿にはなり得ないというのが聖書が示してくれる結論だと思いますが、しかしそうであっても、「極めて良かった」世界に戻すことは私たちがしなければならないことでしょう。 そうするための道も聖書は与えてくれています。 イエス・キリストです。 「極めて良かった」世界が本当に来るのだ、という信仰をもって神さまに従って歩む……それが救い主イエス・キリストを信じる者の第一のつとめでしょう。  祈りましょう。


 
礼拝説教集の一覧
ホームページにもどる